第2話 客間の侯爵
夫が帰ってきたのは、その日の夜ではなく、翌日の午後だった。
一晩のあいだに、屋敷の中では誰も昨日の話をしなかった。厨房でも、洗い場でも、馬屋でもだ。朝、廊下ですれ違った下働きの娘が、いつもより深く頭を下げた。イレーネは同じ高さでうなずいて通り過ぎた。
青の客間の椅子は、昨日のうちに全部拭き直されていた。窓ぎわの、脚の揃っていない椅子も。誰に命じたわけでもない。
ヘートヴィヒが青の客間の戸口に立って告げた。
「奥様。旦那様がお戻りでございます。書斎でお話がしたいと」
イレーネは膝の上の枠から目を上げなかった。針を一度、布の裏へ抜く。
枠に張ってあるのは、卓布の端の縁飾りだ。去年の秋から手をつけては置き、置いては手をつけている。急ぐ仕事ではない。急がない仕事を持っていると、手が空かなくて済む。
「青の客間へお通しして」
「こちらへ、でございますか」
「ええ。それから、お茶を」
侍女頭は今度は訊き返さなかった。
夫が入ってきたとき、イレーネはまだ針を持っていた。糸を替えるところで、指の先に短くなった青が一本、まといついている。
「イレーネ」
「はい」
「なぜここだ。書斎と言ったはずだ」
書斎の扉は、廊下の突き当たりにある。この八年、夫が家にいるとき、イレーネはあの扉の前を一日に何度も通った。中の人が出てくるのを待っていた時期もある。待たなくなった時期もある。どちらの時期も、扉は同じ木の色をしていた。
エーリクは扉のところで立ち止まっていた。上着の肩に外の埃がついている。
「どうぞ、おかけくださいませ」
「イレーネ」
「そちらの椅子は日が当たります。お暑ければ、こちらへ」
夫は座らなかった。部屋を見回してから、両手を腰の後ろで組んだ。この人が困ったときにする形だ。八年、幾度も見ている。
「ここは、私の家だ」
「ですから、いちばん良い部屋にお通しいたしました」
エーリクの喉が動いた。反論の順番を探している。
「そういう言い方をするな」
言い方の話にできれば、中身の話をしなくて済む。夫はいつもそこへ寄る。
「どのような言い方でございましょう」
「昨日のことなら、説明する。誤解がある」
「昨日は、ヴィント様がおいでになりました。三十分でお帰りになりました」
「ノーラのことだ」
「ヴィント様は、お名刺をお持ちではありませんでした」
「名刺の話をしているのではない」
「昨日は、そのお話でございました」
「昨日の話をしているのでもない」
「では、どのお話でございましょう」
エーリクは答えなかった。答えの代わりに、上着の襟を直した。
イレーネは針を布に刺した。そこで、糸を替える手が止まる。
止まってから、自分が今まで手を止めていなかったことに気づいた。
「失礼をいたしました。お客様がお入りになったのに、手を止めておりませんでした」
夫はその一言を、聞き流そうとして、聞き流せなかった。口を開いて、閉じて、それから椅子に腰を下ろした。窓ぎわではない、入り口に近いほうの椅子である。女主人の席に座ったことに、本人は気づいていない。
この部屋の椅子の格を、夫は一度も覚えようとしなかった。誰をどこに座らせるかは、いつもイレーネが決めていた。
茶が運ばれてきた。白い揃いではない。日常の、青い縁の器だ。欠けたのを一度、金で継いである。
「八ヶ月だ」エーリクが言った。「隠していたわけではない」
「はい」
「言う機会がなかった。それだけだ」
「はい」
「お前は」
そこで一度切れた。切れたところを、イレーネは埋めない。
「お前は動じないだろう。だから言わなかった」
窓の外で、庭師が枝を落とす音が二度した。
八ヶ月。数えると、去年の秋の終わりからだ。あの頃、夫は帰りが遅い日が増え、遅い理由を言わなくなる。イレーネは訊かなかった。訊いて返ってくる答えの形を、もう知っていたからだ。
動じないだろう、と夫は言った。動じないと決めたのは夫である。決めたあとで、その通りに扱っただけのことだ。
イレーネは糸を替え終えて、枠を膝の脇に置いた。作法どおりに、手を止めて。
「そうでございますね」
「責めているのではない。お前のそういうところを、私は」
「はい」
「信頼している」
信頼、という語を、夫は少し探してから使った。探す時間の分だけ、その語は借り物に聞こえる。
「先月の、ヴァレンティン家の夜会でございますが」
エーリクが顔を上げた。
「なんの話だ」
「わたくしをご紹介くださったとき、旦那様は『うちの者』とおっしゃいました。ヴァレンティン公は、はじめわたくしを家令の妻だとお思いになったそうです。あとで侍女がそう申しておりました」
「言葉のあやだ」
「はい」
「訂正すればよかったのか」
「いいえ」
「では、なぜ言う」
「覚えていることを、申し上げただけでございます」
「イレーネ。そんなことを覚えていたのか」
「覚えておりました」
イレーネは茶を注いだ。夫の器を先に満たす。それから自分の器を満たす。八年、この順で注いできた。
注ぐあいだ、夫は何か言おうとして三度、息を吸った。三度とも言葉にならない。
「これからのことを話したい」エーリクが言った。「ノーラとは、整理する。時間はかかるが」
「ヘートヴィヒ」
侍女頭が扉のそばから進み出た。
「はい、奥様」
「これまで口でお受けしてきた在宅日を、玄関に掲げます。火曜と金曜の午後三時から六時まで。ご来客はその日に、お名刺をお持ちのうえでお願いいたします」
「承知いたしました」
「札は木のもので結構です。表に日を、裏は白いままで」
「それから、旦那様の在宅日も伺っておきましょう。同じ札に書きます」
部屋が静かになる。
エーリクが器に手を伸ばし、途中で止めた。
「私の、在宅日」
「はい」
「そんなものを、私が決めたことはない」
「はい。これまではわたくしが決めておりました」
イレーネは膝の上の小さな暦を開いた。革の表紙の、手のひらに載る大きさのものだ。角がまるくすり減って、革の色がそこだけ薄い。八年ぶんの印がついている。夫が誰と会うか、誰を断るか、どの家の使いをどの部屋へ通すか。
先週の火曜の欄には、狩猟仲間の伯爵の名がある。その隣に小さな丸。丸は、夫の都合で断った印だ。断ったことは夫に伝えていない。伝えると、夫が礼を言わねばならなくなる。
「旦那様。お名刺は、いま何枚お持ちでいらっしゃいますか」
「名刺」
「ご自身のお名刺でございます」
エーリクは上着の内側に手を入れた。左の内側、それから右。指が布の中で二度、探す動きをした。
「切らしている」
「何枚ございますか」
「今日は持っていない」
ヘートヴィヒが、扉のそばで背筋を伸ばしたまま言った。
「旦那様のお名刺は、三年前の秋に刷ったきりでございます。三百枚のうち、二百八十枚が納戸に残っております。差し出しに参りますのは、いつも奥様のお使いでございました」
エーリクは侍女頭のほうを見なかった。イレーネのほうも見ない。膝の上で両手を組み、その手を見ていた。
「二百八十枚」
「はい、旦那様」
「ではもう、刷らずに済むな」
誰も笑わない。ヘートヴィヒは背筋を伸ばしたまま、扉の脇へ戻った。
イレーネは自分の暦を閉じた。革の合わせ目が、小さな音を立てて合う。
夫がこちらを見た。八年のあいだで、この人がこんなふうに妻の手元を見たことがあっただろうか。二百八十枚の名刺を刷った日、夫はその紙を一度も見ていない。刷り上がりを検めたのも、書体を選んだのも、枚数を決めたのもイレーネだ。
「イレーネ」
「はい」
「私は、何を返せばいい」
問いの形をしているが、答えを待つ顔ではなかった。
窓の光が卓の上を渡って、夫の器のふちで止まっている。湯気はもう上がっていない。
「お茶が冷めますわ、お客様」




