第1話 お名刺を頂戴できますか
「お名刺を頂戴できますか」
銀の盆が卓から持ち上がる音のほうが、その言葉より先に広間へ届いた。
娘の外套の肩に、細かい雨の粒が残っている。脱がないまま、この石の床の真ん中まで歩いてきた。靴の跡が三つ、扉のほうへ続いている。
「わたくしが、エーリク様の本当の妻ですわ」
そう名乗ったときの声は、思ったより高くなかった。歌を仕事にしている人の声だ。
イレーネは盆を受け取り、娘の胸のあたりへ捧げた。壁ぎわで、誰かが息を吸う音がした。
盆の縁は指の腹ほどの高さで立ち上がっている。風の吹き込む広間でも、載せたものが滑り落ちないように。祖父の代からここにあって、ひと月に一度、酢と灰で磨かれる。
娘は盆を見た。それから、イレーネの顔を見た。
「なにを、なさっているの」
「お名刺を、頂戴できますか」
同じ言葉を、同じ高さで繰り返す。声を張る必要はない。この広間は石で、よく響く。
「持っていませんわ、そんなもの」
「さようでございますか」
イレーネは盆を下ろした。腕が下りる音もしないほど、ゆっくりと。
娘の頬に赤みが差したのはそこだった。名刺を持たないと自分の口で言わされたことが、この広間で何を意味するのか、まだ半分しか分かっていない顔をしている。
門番が扉を押さえたまま、こちらを見ている。イレーネは咎めなかった。名乗りながら押し入る人を止める手順は、この家に無い。
三年前なら、声が出ていた。二年前なら、夜になってから夫の書斎の扉を叩いていた。そのたびに夫は、お前は気にしすぎだ、と言う。落ち着け、とも言った。落ち着いているときの妻を、彼は一度も見たことがないという顔で。
いま、イレーネの手は静かだった。手が静かであることに、自分でも少し遅れて気づいた。
「ヴィント。ノーラ・ヴィントですわ。歌い手をしております。エーリク様の」
「まだ、ご紹介をいただいておりませんので」
イレーネはそこで言葉を切った。切ったところに、娘が入ってこられるだけの隙間を残して。
娘は入ってこなかった。返す言葉を探して、外套の裾を握っている。指の関節が白い。組み立ててきたもののどれも、いま使えていない。
「ヘートヴィヒ」
「はい、奥様」
「お客様を、青の客間へお通しして。茶器は白の揃いを。それから、お茶を」
侍女頭の返事が、半拍だけ遅れた。
「お茶を、でございますか」
「ええ」
イレーネは盆をヘートヴィヒの手に戻した。ヘートヴィヒはそれを受け取り、背を伸ばして娘のほうを向いた。
「お客様。こちらでございます」
青の客間は南に窓があって、午後のいまがいちばん明るい。この屋敷でいちばん良い部屋である。司教の使いも、隣国の商会主も、ここへ通してきた。
娘は入り口で足を止め、天井の漆喰と、壁に沿って並ぶ椅子を順に見上げた。数えている目つきだった。椅子は八脚ある。窓は三つ。暖炉は使っていない季節で、火床に白い布が敷いてある。
イレーネは窓ぎわの席を勧め、自分は入り口に近いほうへ座った。女主人の席である。
茶が運ばれてくる。白い揃いの茶器は、この八年で四度しか出していない。
茶葉は高い。在宅日には十五分おきに人が来るから、来客に茶を出す家はほとんどない。出すとすれば、よほど親しい相手か、よほど印象づけたい相手か、そのどちらかになる。
そもそも今日は在宅日ではない。イレーネの暦では、来客を受けるのは火曜と金曜の午後だけだ。
イレーネは自分で注いだ。娘の器を先に満たし、次に自分の器を満たす。
注ぎ終えるまで、部屋には湯の音しかしなかった。ヘートヴィヒは扉のそばに立ったまま、両手を前で組んでいる。二十年この家にいる侍女頭は、こういうとき決して壁を見ない。女主人の手元だけを見ている。
「あの」
「はい」
「奥様は、驚かないんですのね」
「本日はよくお晴れになりました」
娘の指が茶托の上で止まった。
「そんな話は」
「ご家族はお変わりありませんか」
天気と、この場にいない家族の健康と、流行と、これから催されるもの。訪いの席で持ち出してよい話題は、その四つだけだ。醜聞と、金銭と、身体に関わることは含まれない。
娘はその四つを知らない。知らないから、自分の話したいことへまっすぐ戻ってきた。戻ってくるたびに、イレーネは四つのうちのどれかを置く。置かれるたびに、娘の声の高さが少しずつ上がっていった。
「エーリク様は、わたくしといるときだけ笑うんです」
「さようでございますか」
「奥様の前では、笑わないでしょう」
「今年は薄い色の絹が流行っておりますね」
「わたくし、そういう話をしに来たのではありませんの」
「では、何をしにいらっしゃいましたか」
初めて訊いた。娘は口を開いて、閉じた。
「北向きのお部屋、冬は冷えるっておっしゃって。暖炉のそばの絨毯、端が焦げてますでしょう。あれ、わたくしが火箸を落として」
イレーネは茶を一口飲んだ。舌の上が熱い。
夫の私室は北向きである。暖炉のそばの絨毯の端が焦げているのも本当だ。あれは去年の冬に焦げた。イレーネは職人を呼ばずに置いてある。理由を訊いたことも、訊かれたこともない。
呼ばずに置いてあることを、いま初めて自分で数えた。数え始めると、他にもあった。二月に届いた仕立屋の請求。夫の名で頼まれ、夫の家に届かなかったもの。夏に減った蜜蝋の量。
「絨毯は、来月に張り替えます」
「え」
「お茶が冷めます」
娘は器を持ち上げ、口をつけずに戻した。それから立ち上がって、窓に近いほうへ歩いた。
そこに、背の低い椅子がある。肘掛けの布だけ張り替えてあって、脚の木は他の椅子と揃っていない。イレーネの母が使っていたもので、母の家から運ばれてきて以来ずっと、この部屋の窓ぎわに置いてある。婚礼の荷のうち、この屋敷に残っているのはそれだけだ。
娘は腰を下ろした。座り心地を確かめるように、背をつけて、少し身体を沈めた。
「ここが、わたしの席になるのね」
廊下を渡る足音が、扉の外で止まった。ヘートヴィヒが立っている。
イレーネは何も言わなかった。膝の上で指を組み直しただけだ。
窓の光が娘の肩の上を動いていく。座っているあいだ、娘は一度も背もたれから離れなかった。イレーネはその姿勢を、目を逸らさずに見ていた。母がその椅子で糸を選んでいたときの、背の丸め方まで思い出せる。母は膝に籠を置いて、光の向きが変わるたびに椅子ごと少しずつ回した。糸の色を選ぶのに、母は窓の光しか信じなかった。蝋燭では色が嘘をつく、と言って。
八年前、この部屋にこの椅子を運び入れたとき、夫は場所を空けるために自分の書見台をどけた。あのときの手つきを、いまここで思い出す必要はない。
炉棚の時計が短く鳴った。
「お客様」
「はい」
「そろそろ三十分になります」
「それが、なにか」
「初めてのご訪問は、三十分を超えないことになっております。お見送りいたします」
娘は椅子から立ち上がらなかった。立ち上がらないことで何かを言おうとしている。
イレーネは待った。急かす言葉を足さない。足せば、それが返事になってしまう。窓の外で鳩が屋根から降り、また上がった。時計の針が動く音が、二人のあいだで四つ数えられた。
ヘートヴィヒが扉を大きく開いた。廊下の冷たい空気が入ってくる。茶器の湯気が、その風でまっすぐに折れた。
「お客様。お足元にお気をつけくださいませ」
娘はようやく立った。椅子の肘掛けに手をついて、そのまま少し撫でるようにしてから離した。
玄関広間まで、イレーネが自分の足で送る。門番が扉を押さえ、娘が敷石の上へ出る。外はもう風の出る時刻で、娘の外套の裾が持ち上がった。
「奥様」
娘が振り返った。頬の赤みは引いていない。
「わたくし、また参りますわ」
「お待ちしております」
馬車ではなく、辻の車を拾って娘は帰った。扉が閉まる。閉まってからも、門番はしばらく手を離さなかった。
外套も脱がずに来た人は、脱がずに帰る。この家の者は誰も、あの外套を預かろうとは言わなかった。今夜、厨房でも馬屋でも、預からなかったという話が回るだろう。
広間には、まださっきの静けさが残っていた。侍女たちが階段を上がっていく音が、いつもより遅い。
イレーネは玄関脇の卓へ歩いた。この八年、朝いちばんに見るのがこの卓で、夜いちばん最後に見るのもこの卓だった。銀の盆が据えてある。ここに置かれた名刺は来る人みなの目に触れるから、格の高い名前ほど上に載せることになっている。いまいちばん上にあるのは、先月置かれた式部官庁の一枚だ。厚紙はクリーム色で、飾りがひとつもない。その下に、狩猟仲間の伯爵。その下に、隣国の商会主。八年のあいだ、上に載せる一枚を選んできたのはイレーネだ。夫は一度も、それを自分でやったことがない。
ヘートヴィヒが横に立った。手には白い茶器を載せた盆がある。器のひとつは、口をつけられないまま冷めている。
「奥様。白の揃いは、洗ってしまってよろしゅうございますか」
「ええ」
「承知いたしました」
侍女頭はそれ以上訊かなかった。
「奥様」
「はい」
「あのお方のお名刺は、いかがいたしましょう」
イレーネは盆の縁に指を触れた。立ち上がった銀の、冷たいところに。
「頂戴しておりませんので、盆には載りません」




