第三十二話:黒竜の恐怖とお土産のバウムクーヘン
一行は、ドワーフ王国の北に位置する山脈でドラゴンに会うために登っていた。
その道中のことだった。
アリアが、不思議そうに小首を傾げた。
「レオンさん、ガルムさん、先ほどから疑問だったのですが、お二人が時々口にされる『ドラゴンステーキ』とは一体何のことですか?」
その会話に、福音団の三人も興味津々な様子で聞き耳を立てている。
レオンは苦笑いを浮かべた。
「あれは、その……。我々がまだ駆け出しだった頃の話でして……」
ガルムが、楽しそうにその話を引き継いだ。
「おう! あれは傑作だったぜ! コノハがな、『ドラゴンのお肉ってどんな味がするんでしょう?』とか言い出してよ!」
コノハは、少しだけ頬を膨らませた。
「だって気になるじゃないですか? きっとジューシーで、歯ごたえがあって最高の味がするはずですよ?」
レオンは続けた。
「それで、我々はあの洞窟の主である黒いドラゴン殿に、本気でそのお肉を少しだけ分けていただけないかと交渉しようとしたのです。……もちろん、ドラゴンは我々をただの不届き者だと思い、心の底から怯えておられましたが」
あまりにも規格外にしょうもない過去の逸話。
アイ、シオリ、スミレの三人は顔を見合わせた。
(……この人たち本当にやることがめちゃくちゃですわ……)
一行が、再びあの黒いドラゴンの棲む北の山脈の洞窟へとたどり着いた時。
洞窟の主は、何か非常に不機嫌そうな雰囲気を漂わせていた。
『……む? この忌々しい気配……。また来たか……』
洞窟の奥の闇から、地響きのような低い声が響く。
そして、ゆっくりと黒曜石の鱗を持つ巨大な姿を現した。
ドラゴンは一行の中に、あの小柄な少女コノハの姿を認めると、その巨大な体をびくりと震わせた。
そして、その顔には恐怖と絶望の色がありありと浮かんでいた。
「ま、まさか……! 貴様、まだ本気でワシをステーキにすることを諦めておらんかったのか!?」
そのあまりにも切実な魂の叫び。
どうやら、彼は前回のコノハの「まな板の上で寝てもらいます」宣言が、本気の殺害予告であったと心の底から信じ込んでいるらしかった。
「ち、違いますよドラゴンさん!」
コノハが慌てて弁解する。
「今日は、あなた様を食べに来たのではなくて、お願いがあって参りました!」
「いかにも、竜殿。我々は、あなたに危害を加えるつもりは毛頭ない」
レオンも剣を鞘に納めたまま、敵意がないことを示す。
だが、ドラゴンの恐怖はそれで収まらなかった。
彼の鋭い黄金の瞳が、コノハたちのその後ろに控える三人の新たな人影を捉えたのだ。
黒を基調とした禍々しい(ようにドラゴンには見える)服装。その身から発せられる、濃密な闇の魔力。
黒姫アイ、宵闇シオリ、宵闇スミレの三人である。
ドラゴンの顔がさっと青ざめていく。
「し、しかもなんだ、その後ろの禍々しい気配をまとった者どもは!?」
彼の巨大な喉がひきつったように鳴った。
「まさか、ワシをより確実に調理するために深淵の闇の魔術師でも新たに雇ってきたというのか! 仲間が増えておるではないか!」
失礼ではあるが、あながち間違いではない評価。
アイはふんと尊大に鼻を鳴らした。
「フン。我をただの美食倶楽部と一緒にするな黒トカゲめ。我は黒姫アイ! いずれこの世界の全ての闇を統べる者!」
その全く場を和ませる気のない自己紹介がさらにドラゴンの恐怖を煽ってしまった。
「もう! アイさんは黙っていてください!」
コノハは、これ以上話がこじれるのはごめんだと思った。
彼女は一歩前に進み出ると、背負っていた鞄から一つの大きな紙の箱を取り出した。
「ドラゴンさん、どうか落ち着いてください! これは戦いのための道具ではありません! あなた様へのお土産です!」
彼女が箱を開けると、ふわりと天国のように甘くそして芳醇な香りが洞窟全体に満ちていった。
箱の中には、美しい年輪を描いた黄金色の巨大な焼き菓子『バウムクーヘン』が鎮座していた。
それは、先日一行が聖アウレア帝国で手に入れた伝説の『黄金小麦』を贅沢に使い、コノハが心を込めて焼き上げた特別な一品だった。
『……こ これは……なんという甘美な香りじゃ……』
ドラゴンは恐怖と食欲の狭間で、激しく葛藤していた。
「わたくしが心を込めて焼きました『黄金小麦のバウムクーヘン』です。どうぞ、これを召し上がって我々に敵意がないことを信じてくださいな」
コノハが一切れを切り分ける。
そのあまりにも抗いがたい誘惑に、ドラゴンはついに屈した。
彼はおそるおそる、その一切れを口に運んだ。
そして、その瞳が驚愕と至福に大きく見開かれた。
「う……美味い……!」
その幾重にも重なったしっとりとした生地。噛みしめるごとに、口の中に広がる黄金小麦の豊かで優しい甘さ。
「なんという慈愛に満ちた味わいじゃ……! ワシのこの数千年の荒んだ心が、まるで赤子のように癒されていくようだ……!」
彼は夢中でバウムクーヘンを頬張り始めた。その顔からはもはや恐怖の色は完全に消え去っていた。
すっかり落ち着きを取り戻し、上機嫌になったドラゴン。
彼は満足げにげっぷを一つすると、ようやく一行に用件を尋ねた。
「……して小娘よ。今日は一体何の用じゃ? ワシをこの神々の菓子で手懐けた上で、何か厄介事を運んできたのじゃろうな」
コノハは笑顔で単刀直入に、本題を切り出した。
「はい。実は今度わたくしたち、ドワーフ王国の火山にいるエンシェント・マグマドラゴンさんに会いに行こうと思っているんです」
『……なに? あの赤いトカゲにか?』
「それで、お願いがあるのですが」
コノハは最高の笑顔で言った。
「マグマドラゴンさんの大好物を教えていただけませんか?」
しん……と。
洞窟は静まり返った。
ドラゴンはきょとんとしていた。
そして数秒後。
彼の中でその言葉の意味が、完全に処理されたその瞬間。
「ぶっふぁーーーーっはっはっはっはっはっは!!」
洞窟全体がびりびりと、震えるほどの大爆笑。
彼は笑いすぎてその巨大な体で地面をばんばんと叩いている。涙さえ流していた。
「あの赤龍を! あの世界で一番強欲で偏屈でプライドの塊のような赤いトカゲを! 食べ物で釣ろうじゃと!?」
「くっ……! は、腹が……! 腹が痛い……! はっはっは! ここ千年で一番面白い冗談じゃ!」
あまりの笑われっぷりに、コノハは心底不思議そうな顔で首を傾げた。
「え……? わたくし、そんなに変なことを言いましたか?」
コノハの純粋な一言が、さらにドラゴンの笑いのツボを刺激してしまった。
しばらく笑い転げていたドラゴンだったが、やがて涙を拭うとぜえぜえと息を整えた。
「…変どころではないわ、小娘。お主は最高じゃ。気に入った。その常識外れの勇気と、あまりの奇抜さに敬意を表して教えてやろう」
そして、ドラゴンはゲラゲラと笑いをこらえながらも確かにマグマドラゴンの意外な「好物」について一行に語ってくれるのだった。
コノハの斜め上の外交術は、またしても完璧な成果を収めたのである。




