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第50話 左側の空白

千歳が新城の主幕舎へ向かったあと、スサノオはその背を追おうとしました。

けれど、バキ教官の矛が進路を塞ぎました。


「目を逃がしたな」

「目は後ろへ行った」


バキ教官は矛を構え直しました。

「前は、俺が持つ」


スサノオの拳が、真正面から振り下ろされます。

バキ教官は矛の柄で受け、力を斜めへ流しました。

桃紫の光が土を裂き、拳の軌道を半歩だけ外します。


その後ろでは、皆で作った撤退線が動き続けていました。


お嬢が、人と水壺を通す順番を変える。

ククリが、短い言葉で次の組を動かす。

ハニチュウが、崩れた足場を締め直す。

サクヤが、下がる者の名前を呼ぶ。

ウズメ先輩が、一、二の拍で足並みをつなぐ。


勝ってはいません。

けれど、まだ切れてもいませんでした。


* * *


スサノオが、矛の内側へ踏み込みました。


バキ教官は右足を引き、左側へ半歩の空間を残します。


スサノオの拳が、その空間へ入りました。


バキ教官の身体は、そこに誰かがいるように傾きます。

受け止められるはずの力を預け、返ってくるはずの道へ矛を振りました。


けれど、左側には誰もいません。


拳が肩をかすめ、血が飛びました。

「そこが空いている」

スサノオが言いました。


「見れば分かる」


「一人では、俺を止められない」


「知ってる」


バキ教官は、血の流れる肩を回しました。

「俺は、もともと矛だからな」

その言葉の後ろに、いない誰かの形が浮かびました。


盾を失った矛が、今は一人で前線を支えています。


スサノオがもう一度、左側へ拳を入れました。

今度も、その半歩だけが空いたままでした。

誰もいない場所へ力を預けるように重心を移し、空いた道へ矛を返します。


二十年前を知る者には、それが不自然には見えませんでした。


その半歩へ、水の盾が滑り込む。

受けた力を流し、開いた道へ矛を返す。

二人で完成していた型を、片方だけで続けているのです。


「まだ、その場所を空けてるのか」

年長の戦士が、傷を押さえながら呟きました。

バキ教官には届きません。

届いても、答えなかったでしょう。


待っているからではありません。

矛として最も強かった形を、身体が忘れていないのです。


スサノオの拳と、バキ教官の矛がもう一度ぶつかりました。

桃紫の光が揺れます。

それでも、左側の半歩だけは、最後まで埋まりませんでした。


* * *


千歳が新城の主幕舎へ着くと、入口で黒い石を差し出しました。


カミムスヒは石を受け取らず、地図の中央にある全戦線の輪を示しました。

「今は、そこへ置いてください」


千歳は、新人線を示していた黒い石を、全戦線の輪の中央へ置きました。


主幕舎の観測石が反応し、全戦線から届く色が、一本ずつ地図へ重なりました。


西の撤退線。

水場の裏。

小牧野から八甲田山へ伸びる黒い線。

前線でスサノオを止める、バキ教官の桃紫。


千歳は、その桃紫の左側にある空白へ気づきました。

「ここだけ、色がありません」


カミムスヒは、しばらくその半歩を見つめました。

「空いているのではありません」


「では、何ですか」


「かつて、盾が入っていた場所です」

千歳は、小牧野へ続く黒い線を見ました。

その先には、今もナミ教官が留められています。


地図の上で、バキ教官の左側だけが、二十年前の形のまま残っていました。


帰る者のために、意識して空けているわけではありません。

それでも、その空白は、何もない場所ではありませんでした。


身体が忘れられなかった、まだ戻っていない人の場所でした。


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