第49話 五人の撤退線
バキ教官の矛と、スサノオの拳がぶつかりました。
桃紫の光と黒い圧が押し合い、地面の亀裂が前線の左右へ走ります。
バキ教官が正面を塞いでいる間にも、千歳のもとへ全線の報告が届き続けていました。
「正面の道が切れましたわ。左の水路も、もう長くは持ちません」
お嬢が、割れかけた翡翠を地面へ描いた道筋の上で回しました。
糸魚川から遠方へ石を送る家で育った彼女には、人と物が詰まる場所が分かります。
「別の道は?」
ククリが聞きました。
「あります。ただし、一人ずつしか通れません」
「負傷者を先に」
「それでは、前線の水が切れますわ」
どちらも必要でした。
一方だけを残せば、もう一方がゼロになります。
千歳は、土の下を流れる薄い水の色を見ました。
「水路は、まだ完全には切れてません。負傷者二人のあとに、水壺を一つ。交互なら、両方を残せます」
正解ではありません。
ただ、どちらも消さない方法でした。
「それで行きます」
ククリが、すぐに言葉を削りました。
「左。人二人、水壺一つ。交互」
お嬢が詰まりのない順番を選ぶ。
ククリが短い命令へ結び直す。
ハニチュウが細道の土を揉み、崩れる前から足場を締め固める。
サクヤが一人ずつ名前を呼ぶと、怯えていた戦士たちがもう一度顔を上げました。
千歳は、道の色が消えないように、流れを見続けます。
同じ五人で解いた、土器と翡翠の課題を思い出しました。
あの時と同じように、誰か一人の正解では足りません。
五人の専門が重なって、一本しかなかった撤退線が動き始めました。
* * *
スサノオが、バキ教官の矛を拳で押し下げました。
次の一撃は、バキ教官ではなくサクヤへ向かいます。
人の足を止めないために、名前を呼び続けているサクヤへ。
その瞬間、ウズメ先輩の鈴が強く鳴りました。
サクヤの身体が横へ引かれ、拳が空を切ります。
「一軍キャラ舐めんな!」
ウズメ先輩は、サクヤを抱えたまま地面を転がりました。
いつもの軽口に聞こえましたが、息が切れています。
「声を先に消すか」
バキ教官が低く言いました。
「やっぱり、お前が選んだ順番じゃないな」
スサノオは答えませんでした。
矛を避けると、今度は千歳へ視線を向けます。
サクヤが士気を支える声なら、千歳は全線をつなぐ目です。
そこを消せば、一本になった撤退線は、自分から崩れます。
「お姉ちゃん、下がって!」
サクヤが叫びました。
千歳は一歩下がりました。
けれど、後ろでは負傷者が細道へ入る順番を待っています。
ここで自分だけ逃げれば、スサノオの進路が、そのまま彼らへ開きます。
逃げ道を残すことと、自分だけ逃げることは違いました。
スサノオが地面へ拳を落としました。
バキ教官の矛が腕を横へ逸らします。
それでも、地面へ逃げた力までは止まりません。
土が波のように持ち上がり、撤退線を横からめくりました。
「伏せて!」
ウズメ先輩の声と同時に、ハニチュウが千歳の前へ低い土壁を上げます。
お嬢が翡翠の欠片を投げ、黒い力の流れを一瞬だけ反らしました。
ククリは負傷者へ退く順番を叫び続けます。
サクヤは千歳の腕をつかみました。
皆で、できることを全部重ねました。
土壁が砕けます。
翡翠の光も消えました。
それでも、その一瞬で負傷者は二歩だけ下がれました。
二歩。
皆で作れたのは、それだけでした。
けれど、その二歩の先には、まだ生きている人たちがいました。
「悪くない」
スサノオが言いました。
褒められたのではありません。
次は、その二歩ごと壊すと告げられたように聞こえました。
拳の周りへ、地面から黒い力が集まり始めます。
バキ教官が、その前へ立ちました。
「イワナガ」
「はい」
「経路は見つけた。ここで見る仕事は終わりだ」
千歳は首を振りました。
「まだ、みんながいます」
「だから戻れ」
バキ教官は、スサノオから目を離しませんでした。
「前線の維持は俺がやる。お前は主幕舎へ戻って、全部を見ろ」
「でも、ここを離れたら――」
「全線の指揮を渡した。前線一つに残れとは言ってない」
矛が、黒い拳を受け止めました。
バキ教官の足が土の上を滑ります。
「戦い方を一人で決めろとも言ってない。見えたものを一つも捨てず、必要な奴へ返せ」
千歳の胸の中で、逃げ道だった後方が、役目へ変わりました。
バキ教官は懐から、小さな黒い石を投げました。
千歳は両手で受け止めます。
新城の地図で、新人線を示していた石でした。
「主幕舎でそれを見せろ。全線を預けた印だ」
「教官は、どうするんですか」
「言っただろ」
バキ教官は矛を立て直しました。
「前は、俺が持つ」
* * *
「お姉ちゃん!」
サクヤが呼びました。
千歳は振り返ります。
サクヤは泥だらけの顔で、それでも笑おうとしていました。
「こっちは任せて」
「無理しないで」
「それ、今そっちが言う?」
一瞬だけ、二人とも笑いました。
お嬢は細道の流れを見ています。
ククリは次の命令を短くしています。
ハニチュウは砕けた土壁を拾い直していました。
ウズメ先輩は、一、二の短い拍で戦士たちの足を整えています。
皆で作った撤退線は、千歳が離れても動き続けていました。
千歳は、新城の主幕舎へ向かって走り出しました。
後ろへ走っているのに、逃げている感じはしません。
手の中の黒い石は、見た目よりずっと重く感じられました。




