第5話 澪のお守り
澪ちゃんは指先を見て、それから布袋を見て、ようやく小さく言いました。
「……お守り」
その一言で、教室の空気が変わりました。
ただの忘れ物ではなくなった。
赤い痕も、古い布袋も、澪ちゃんの沈黙も、ひとつの線でつながり始めた気がしたそうです。
咲良ちゃんが慌てて言いました。
「ごめん、知らなくて触っちゃったかも」
澪ちゃんは首を振りました。
「別に。大事じゃないし」
でも、布袋を見ている目は、大事じゃないものを見る目ではありませんでした。
名前がつくと、意味が変わります。
そしてその瞬間、ただの布袋は、少し怖いものになりました。
布袋の紐は、紅花で染めたものだったそうです。
澪ちゃんがぽつりと言いました。
「母さんが染めたやつ。紅花」
咲良ちゃんは「へえ、すごい」と言いました。
たぶん本当にすごいと思ったのだと思います。
でも澪ちゃんは、ほめられた顔をしませんでした。
「仕事だから」
澪ちゃんの母親は、紅花染めの職人です。
古い布を直し、紐を染め直し、色が抜けたものにもう一度色を入れる。
澪ちゃんのお守りの紐も、母親が結び直したものだったのです。
千歳は澪ちゃんに聞きました。
「試していい?」
澪ちゃんは少し迷ってから、うなずきました。
千歳は、その紐を右手の人差し指と親指でつまみました。
乾いたままでは、何も起きませんでした。
そのまま水道へ行き、指先を水で濡らしました。
しばらくすると、紐に触れた指の腹に、血のような赤い色が浮きました。
「これです」
千歳は、赤くなった指をみんなに見せました。
赤い痕は呪いではなく、紅花の色移りでした。
やっと、線がつながりました。
千歳は、澪ちゃんの手元に視線を落としました。
澪ちゃんは布袋を取ろうとして、取れないでいました。
かごの中にあるのに、ほんの数十センチ先にあるのに、手が伸びない。
千歳は思わず言いました。
「取れば?」
澪ちゃんは首を振りました。
「いい」
「澪のでしょ?」
千歳の言い方は、たぶん少し下手でした。
咲良ちゃんならもっと柔らかく言えたと思います。
でも千歳は、見えたものをそのまま言ってしまう。
そこが長所で、短所でもありました。
澪ちゃんの肩に、千歳の指が軽く触れました。
その瞬間、澪ちゃんは少し身を固くしました。
一歩間違えると、閉じる。
千歳にも、それは分かったそうです。
「母さんのじゃない」
澪ちゃんは、急にそう言いました。
千歳は一瞬、意味が分からなかったそうです。
「え?」
「それ、母さんのじゃない。私の」
澪ちゃんは布袋を自分の方へ引き寄せました。
本当は、ずっと大事だったのだと思います。
ただ、それを母親に知られたくなかった。
大事だと分かれば、母親はまた直します。
紐を染め直し、ほつれを縫い、澪ちゃんのために手を掛けます。
何度も何度も。
子どもは、母親の子どもであるだけで愛されていい。
でも澪ちゃんは、そう思えなかった。
手の掛からない子どもでいれば、愛してもらえる。
その手間が増えるたび、お守りだけではなく、自分も重荷に思われる気がしていたのかもしれません。
千歳はLoveSimを開きました。
「今の、どういう意味?」
画面は少し間を置いて返しました。
── LoveSim 応答 ──
澪さんは、お守りを大切にしていることを、母親に知られたくありません。
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千歳は顔をしかめました。
「大事なら、言えばいいじゃん」
── LoveSim 応答 ──
大事だと伝えれば、母親はまた手を掛けます。
澪さんは、自分が母親の負担になることを恐れています。
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千歳はしばらく黙りました。
AIが人の心を勝手にのぞいているようで、少し怖い。
でも、証拠から分けているようにも見える。
── LoveSim 応答 ──
イザナミは、はじまりの母です。
神話上、イザナミは親から生まれた存在として描かれていません。
何もしなくても愛される子どもでいられる時間を持たない女神です。
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「イザナミなのに?」
千歳は画面に打ちました。
── LoveSim 応答 ──
判定女神は、完成形ではありません。
その人がまだ言葉にできていない部分を示すことがあります。
澪さんの場合、母になる力ではなく、母の前で、何もできなくても子どもでいていい自分を取り戻すことが課題です。
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千歳は、澪ちゃんを見ました。
澪ちゃんは布袋を見ている。
咲良ちゃんは心配そうに横にいる。
美森ちゃんは少し後ろで、逃げ道をふさがない位置に立っている。
母親に愛されたい。
そのために、手の掛からない子どもでいようとする。
その説明だけは、千歳にも少し分かる気がしたそうです。
澪ちゃんの母親は、紅花染めの職人です。
忙しい時期は帰りが遅く、手はいつも少し赤く染まっている。
澪ちゃんはそれを「仕事の色」と言っていました。
でも、その仕事の色がついた紐を、澪ちゃんは毎日持っていた。
大事だから持っている。
大事だと知られるのは怖い。
たぶん澪ちゃん自身にも、その二つをきれいには分けられなかったのだと思います。
咲良ちゃんが言いました。
「お母さんに、色移りしたって言えば?」




