第45話 赦しではなく、役目を
バキ教官が空いた左側から目を戻した時、南の外縁で警戒の火が上がりました。
一つではありません。
間を置かず、東寄りの見張り台でも、二つ目の火が上がります。
すぐに伝令が駆け込んできました。
「南の道に武装した集団が入っています。守りの厚い村には近づかず、伝令路を北へ進んでいます」
続いて、別の伝令が息を切らして入ってきました。
「女神候補が外で鍛錬する線にも、複数の影を確認しました。村を襲う動きではありません」
バキ教官は、地面へ地図を広げさせました。
小牧野。
外縁からアカデミーへ続く伝令路。
新入生たちが実地鍛錬に使う道。
報告のあった場所へ石を置くと、小牧野で座留めが進む一方、伝令路と鍛錬線を北上する二本の動きが、女神アカデミーへ向かっていました。
「小牧野だけを狙ったものではありませんね」
カミムスヒが、座留めを示す石の横へ指を置きました。
「イザナミを八甲田山へ固定し、日高見の盾を外す。同じ時刻に伝令路を切り、次の女神たちへ向かう」
座留めが起動した直後に、南の部隊も動き始めています。
偶然ではありませんでした。
小牧野でイザナミを固定する。
伝令路を切る。
鍛錬線から女神アカデミーへ進む。
土地と、情報と、次の世代を、同時に奪うための配置です。
「村を取る戦ではありません」
カミムスヒが言いました。
「日高見が、自分で判断できなくなるようにする戦です」
その言葉が届いた時、武器庫の扉が開かれました。
誰かが命じるより先に、古参の戦士たちは武器を取り始めていました。
小牧野と聞いた者の中には、顔色を変える者もいました。
二十年前まで、アラハバキの矛が開けた道を、イザナミの盾が閉じていた。
今度は、その盾を山へ縛り、敵の境界を引くために使おうとしているのです。
「追えば、アカデミーが空く」
バキ教官は地図から目を離しません。
「追わなければ、ナミが奥羽へ固定される」
どちらも日高見を失う選択でした。
一人を追う者ではなく、全域を残す司令官でいることを、バキ教官はまた選ばされていました。
左の半歩は、空いたままでした。
「なら、あたしが行く」
カグ先輩が言いました。
腕の短い赤い紐は、南へ引かれるたび熱を持ちます。
「待て。小牧野は救出者まで固定路へ取り込む」
「それでも、あの声を知ってる」
自分でも意味を説明できない言葉でした。
親を知らず、自分の始まりを知らないカグ先輩にとって、初めて過去が指した方角でした。
バキ教官がカグ先輩を止めたのは、弱いと思ったからではありません。
同じ固定路へ、二人目を渡さないためでした。
外縁から、もう一度角笛が鳴りました。
バキ教官が振り向いた、その一瞬でした。
カグ先輩は地を蹴り、小牧野へ続く南の道を走り出しました。
「カグ先輩!」
千歳が追おうとしましたが、バキ教官の腕に止められました。
「行くな」
「でも、一人です!」
「分かってる」
その声には、怒りよりも苦さがありました。
今ここからさらに人を出せば、外縁が割れます。
カグ先輩を追うための一人が、前線では十人分の穴になる状況でした。
バキ教官は拳を握り、命じました。
「幕舎を立てろ。全線をつなぐ」
夜が深くなるまでに、前線北側の新城付近へ主幕舎が立ちました。
バキ教官とカミムスヒは、新城へ移りました。
座留めの線を読み取れる千歳も、ナミ教官が残した赤い紐を持ち、観測役として同行しました。
女神アカデミーの前庭には、全線の報告を受ける後方幕舎が急ごしらえで組まれました。
主幕舎の地面へ広げられた布には、外縁の村、川、山道、補給路が描かれていました。
伝令が入るたび、石の位置が動かされました。
バキ教官は、その中央に立ちました。
「東の線を半歩下げろ。北東は捨てるな。逃げ道を一つ残せ。負傷者は女神アカデミーへ運べ」
一つの命令が、次の命令へつながります。
前線配置を決めるため、アカデミーから呼ばれた女神たちも、主幕舎へ集まり始めていました。
「わたしも前へ出ます」
最初に申し出たのは、ウズメ先輩でした。
幕舎の空気が止まりました。
チホ出身のウズメ先輩が、自ら最前線を申し出たからです。
千歳の頭には、その舞の三拍目に残る冷たい通過痕も浮かびました。
ウズメ先輩は、鈴を握ったまま言いました。
「向こうにいた頃、イザナミを連れ去る話を聞いたことがある。全部じゃない。脅しだと思った。本当にやるとは思わなかった」
これまで隠していたことを、初めて自分から口にしました。
誰も急かしませんでした。告白した言葉が、幕舎の全員へ届くまで待ちました。
「なぜ報告しなかった」
古参の戦士が低く聞きました。
「言えば、やっぱりチホの人間だって言われると思った。ここを追い出されて、向こうへ戻されるのが怖かった」
「だから、こちらは何も知らずに迎えた」
「分かってる」
ウズメ先輩は、笑いませんでした。
悪意はありませんでした。
けれど、報告しなかった責任は残ります。
一人の戦士が、彼女の隣から半歩離れました。
その動きを見ても、ウズメ先輩は言い訳を足しませんでした。
「不信を消せるとは思ってない。ただ、向こうの足運びと太鼓は分かる。使って」
千歳には、その半歩が、これまで積み重なった年月の長さに見えました。
カミムスヒが、声を張らずに場を止めました。
「報告しなかった責任は、戦の後に扱います。今ここで、なかったことにはしません」
バキ教官も、ウズメ先輩を赦すとは言いませんでした。
「責任は後で問う。今は、お前しか知らないものを使え」
「疑われるよ」
「もう疑われてる」
「だったら、役に立ってから疑われたい」
ウズメ先輩は、ようやくいつもの言葉を口にしました。
けれど笑顔は戻りません。
「最前線へ行け」
命令を受け、チホを知る女神が、日高見の前線へ走りました。




