第43話 ゼロではない
その夜、女神アカデミーの一室で、千歳は今日見た光景を、何度も思い返していました。
祭祀場の石の向き、供物の配置、女神の穏やかな、けれどどこか遠い目。
白と黒を選ばなかった自分の空欄とは逆なのに、どこかでつながっている気がしました。
千歳の空欄は、決めないために残されたものです。
アンジュの静けさは、本人に聞かないまま、周りが答えを書き込んだ結果でした。
同じ部屋にいたサクヤが、千歳の様子に気づいて、隣に腰を下ろしました。
「まだ、考えてる?」
「うん。ナミ教官、今日、ちょっとだけ様子が違った気がして」
「様子?」
「アンジュに『次は、あなたが座らされます』って言われた時。初めて聞いたような顔じゃなかった」
サクヤは、すぐには答えませんでした。
* * *
千歳の記録が届いた管理画面で、私は白黒の儀の記録を開きました。
五色石盤が隔離した二値上書きと、白黒の儀が再現した処理の形が一致することは、すでに確認しています。
私は、五色石盤を祭祀具としてではなく、処理の流れとして見直しました。
入力を受け取り、内部で組み合わせ、結果を返す。
その意味では、スマホやパソコン、AIと同じです。
古代のパソコンなのではありません。
時代も材料も違う二つが、どちらも情報を処理する装置だということです。
ただし、答えの出し方が違う。
白黒側の処理は、最後には二つの値へ分けます。
あるか、ないか。
進むか、止まるか。
Yesか、Noか。
五色石盤は、白と黒の間にある赤、青、黄を捨てません。
自然の波長を五つの値として受け取り、複数の状態を残したまま答えを出す。
同じ情報を扱っていても、処理方式が違う。
白黒の儀は、その二値処理を人の制度へ写したものに見えました。
ただし、白黒の儀を動かしたのは、隔離された処理ではありません。
採用を決めたのは女神アカデミーの上層部。
執行したのはアラハバキです。
チホから持ち込まれた二値の考え方を、人が制度として再現したものでした。
次に、アンジュヒメの座留めで得られた記録を開きました。
── SYSTEM LOG ──
target_entity(対象存在): ANJU_HIME
process_type(処理種別): SEAT_LOCK(座留め)
state_transition(状態遷移): standing -> seated(立位から座位)
movement_energy(移動力): diverted_to_IWAKI(岩木山へ転送)
process_family(処理系統): TSUKUYOMI
implementation_mode(実装形式): DIRECT_APPLICATION(直接適用)
execution_actor(実行主体): unresolved(未解決)
────────────
アンジュヒメが立とうとすると、その力は岩木山へ流され、座った状態へ戻される。
白黒の儀が固定したのは、人の役割です。
アンジュヒメの座留めが固定したのは、身体でした。
用途は違います。
けれど、複数の可能性を削り、許された一つの状態へ戻し続ける処理は同じでした。
白黒の儀では、人がツクヨミ処理系統を外側から再現した。
アンジュヒメの座留めでは、その処理系統が直接使われている。
私は、同じ処理系統を検索条件にして、接続先の処理索引を調べました。
── SYSTEM LOG ──
search_key(検索条件): TSUKUYOMI_PROCESS_FAMILY
pending_matches(未起動一致): 1
process_template(処理形式): SEAT_LOCK(座留め)
reference_match(参照一致): ANJU_LOCK_HIGH(アンジュ座留め・高一致)
target_candidate(対象候補): IZANAMI
required_anchor(必要固定先): mountain_range_class(山脈級)
progress(進行): 0.0
────────────
未起動の座留めが、一件だけありました。
アンジュヒメのものと、ほとんど同じ形式です。
違うのは規模でした。
アンジュヒメを留めるために使われたのは、岩木山です。
次の処理は、一つの山では足りません。
山脈級の固定先を要求しています。
「対象は、本当にイザナミなのか」
── AIツクヨミ 応答 ──
現時点では、最上位候補です。
対象の確定は、処理の起動後になります。
────────────
見えたことは、三つでした。
白黒の儀とアンジュヒメの座留めは、どちらもツクヨミ処理系統と一致する形を持っている。
白黒の儀だけは、誰が決定し、誰が執行したのか分かっている。
そして、イザナミを対象候補とする、同じ形式の座留めが起動を待っている。
0.0は、安全を示す数字ではありません。
まだ始まっていない。
それだけでした。
私は、監視を解除できませんでした。
見ただけでは、アンジュヒメを救えません。
けれど、千歳がアンジュヒメの座留めを観測したからこそ、次の処理が同じ形をしていると分かりました。
祀られることと、留め置かれること。
その境目は、たぶん、私たちの暮らす時代にも、どこかにあるのだろうと思います。
* * *
その夜遅く、千歳は眠れないまま、宿舎の窓から外を見ていました。
星の位置が、現代のものとは少し違って見えます。
千歳は、アンジュの小さく動いた口の形を思い出していました。
ありがとう。
それとも、別の言葉だったのか。
千歳には、まだ分かりませんでした。
ただ、あの女神の静かな目が、しばらく頭から離れそうにありませんでした。
隣の寝台で、サクヤはとっくに寝息を立てています。
千歳は、その規則正しい寝息を聞きながら、自分の手のひらを見つめました。
石に触れた時の、あのすうっと吸われていく感覚が、まだ指先に残っている気がしました。
動かせなかった石。
今壊せば、この村の水と道も一緒に切れるという、ナミ教官の言葉。
理由は分かっていました。
それでも、見えているのに何もできないことには、納得しきれない自分がいました。
それでも千歳は、今日、あの女神の目を見て、言葉を交わしたことを、無駄だったとは思いませんでした。
何も変えられなかったわけではない。
ゼロではない。
そう静かに繰り返してから、千歳はようやく目を閉じました。




