第42話 祀ること、留めること
セヲ様が祓いの水を流すと、アンジュの呼吸は少し楽になりました。
けれど固定経路は消えません。
「祓えるのは濁りだけ。これは村の祈りと石の配置で維持されてる」
ゲツ先輩は木の実を差し出しました。
「供物じゃなくて、おすそ分け」
アンジュは木の実を見てから、自分で手を伸ばしました。
村人の一人が供物の皿へ戻そうとすると、ゲツ先輩がその手を軽く止めます。
「これは、アンジュが食べる分」
アンジュは一口かじり、目を閉じました。
「……ありがとう。こんな風に言われたのは、久しぶりです」
そのとき、祭祀場の外側で、村の男たちが立ち話をしているのが聞こえました。
千歳はサクヤと顔を見合わせ、そっと耳をすませました。
「今の女神様は、大人しくていい。座留め前は、うるさかったからな」
「うるさいっていうか……前は、村の決め事に口を出しすぎた。女神なら女神らしく、座っていてくれた方が、こっちも都合がいい」
「チホの連中が言ってたな。動く女神は、村を乱す。祀られる女神は、村を守る、って」
「それも一理あるかもしれん」
そこへ、若い男が一人、割って入りました。
「爺さんたち、それ、本気で言ってるのか」
「なんだ、お前は」
「俺は、座留めされる前のこの人に世話になった。この人が村の決め事に口を出したのは、うるさかったからじゃない。この人でなきゃ気づけないことが、あったからだ」
若い男は、悔しそうに言葉を続けました。
「今の静かな暮らしが悪いとは言わない。でも、それを『女神様が大人しくなったおかげ』みたいに言うのは、俺は違うと思う」
年老いた男たちは、気まずそうに顔を見合わせ、それ以上は何も言いませんでした。
若い男は、それだけ言うと、足早にその場を離れていきました。
千歳は、少しだけ救われた気持ちで、足早に去る若い男の背中を見送りました。
石の輪の外から、カグ先輩が低く言いました。
「動けなくした奴を、守ったとは言わねえ」
村人が振り返ります。
「怖いなら怖いと言え。守ってほしいなら頼め。本人の声を聞かないで、大切だから座ってろに変えるな」
村人の視線が、初めてアンジュの顔へ向きました。
千歳はアンジュへ聞きました。
「ここにいたいと思っていますか」
アンジュは長く考えました。
「分かりません。動く感覚を、長く使っていませんから」
風が変わると、遠くへ行きたかった自分を思い出すことがある。
それだけを話しました。
千歳は石を動かそうとしましたが、ナミ教官に手を止められました。
「今、壊せば、この村の水と道も一緒に切れます」
千歳は手を引きました。水路の向こうで、子どもが桶を満たしていました。
出立の前、ゲツ先輩は包みを開き、残っていた木の実をアンジュの手のひらへ載せました。
「次に来るまで、食べたい時に食べて」
アンジュは木の実を膝の横へ置き、その上に手を添えました。
村人が供物台へ移そうとすると、アンジュは初めて首を横に振りました。
その手が止まりました。
一行が村を出ようとした時、アンジュはナミ教官を呼び止めました。
「次は、あなたが座らされます」
ナミ教官の赤い紐が、風もないのに南へ引かれました。
セヲ様が水の流れを探ります。
岩木山では止まりません。
さらに大きな山筋へ、空の固定先が準備されています。
ナミ教官は、南を見たまま動きませんでした。
村の境を越える前、千歳はもう一度だけ振り返りました。
アンジュは、木の実を手にしたまま、こちらを見ていました。
声は聞こえませんでしたが、その口が、小さく動いた気がしました。
ありがとう、と言っているように、千歳には見えました。
帰り道、誰も、あまり口を利きませんでした。
セヲ様は珍しく黙ったまま歩き、ゲツ先輩は空になった包みを、少し名残惜しそうに見つめていました。
サクヤだけが、時々、千歳の顔をうかがうように見ていました。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「うん……ちょっと、考えてた」
千歳は、ぽつりと言いました。
「祀られるのと、留め置かれるのって、外から見たら同じに見えるんだなって」
「うん」
「見た目が同じだから、余計に、気づきにくい」
サクヤは何も言わず、ただ小さくうなずきました。
二人はしばらく、無言のまま並んで歩きました。




