第41話 動けない女神
現代では、修学旅行二日目の午後になっていました。
病院の窓から見える青森の空は明るいままです。
* * *
千歳がいる世界では、同期のずれによって、さらに何日かが過ぎていました。
その朝、ナミ教官が新入生と上級生数名を集めました。
「境界に近い村へ行きます」
同行するのは、千歳、サクヤ、セヲ様、ゲツ先輩、カグ先輩。
詳しい説明はありません。
ナミ教官は褪せた赤い紐を確かめると、朝霧の道を先頭に立って歩き始めました。
千歳は、説明より、その指がいつもより強く結び目を押さえたことを覚えました。
「線はありません。ただ、空気が変わる場所があります。今日、あなたたちにはそれを、肌で覚えてもらいます」
道の途中、サクヤが小さく肩を寄せてきました。
「お姉ちゃん、この前の男の人たちの話、覚えてる?」
「見極めの儀のこと、賛成してた人たち?」
「うん。あの話、境界の村の方が、もっと濃いんだって。ゲツ先輩が言ってた」
先を歩いていたゲツ先輩が振り返り、いつもの緩い声で言いました。
「境界の村ってね、日高見とチホ、両方の考え方が、混ざって流れ着く場所なの。悪いものだけが流れ着くわけじゃないけど……薄まらずに残っちゃうものも、あるのよね」
セヲ様が扇のように手を軽く振りました。
「濁った水は、流れが緩いところに溜まるものよ。悪いことじゃないけど、注意はいる」
村へ入る直前、道脇の水場で子どもが転び、濁った水へ手をつきました。
セヲ様は誰より早く膝をつき、傷へ指をかざします。
青白い流れが、泥と痛みだけを薄く連れ去りました。
「見惚れるのは許すわ。けれど、泣いている子を放っておくのは許さない」
自分の美しさを隠す気はないのに、癒やす時だけ視線を子どもへ戻す人でした。
立ち上がると、今度は水場全体の濁りを一筋に集め、村の外へ流します。
女王様のような言葉と、祓いの細やかさが、同じ人の中にありました。
子どもが泣き止むと、セヲ様は当然のように髪を整え、先頭へ戻りました。
石の多い坂を上ると、岩木山を背にした村が見えました。
斜面には石が輪になって並び、その中心へ供物が積まれています。
「きれい」
サクヤが言いました。
千歳は返事をしませんでした。
輪の石が、全部同じ向きで中心を見ていたからです。
外へ向いた石が、一つもありません。
石の配置だけで、歓迎より先に、逃がさない意思が見えました。
中心には、アンジュヒメ(安寿姫)が座っていました。
女神たちは、アンジュと呼んでいました。
その横顔を見た瞬間、転生の途中で見た五色石盤の女神が重なりました。
けれど断片の顔は白い光で切れていて、同じ人だとは断定できませんでした。
村人たちはアンジュの髪を丁寧に整え、食べ物と織物を捧げます。
大切にされているように見えました。
けれどアンジュが立とうとすると、膝へ入れた力だけが石の輪へ吸われます。
立つための力が、先に岩木山へ運ばれてしまうのです。
アンジュはまた座り、村人は安心したように頭を下げました。
異常が穏やかな景色に隠れていました。
千歳は輪の石へ触れました。
冷たさが指から輪の中心へ吸われ、そのまま岩木山の方へ抜けます。
「これ、声を外へ通す石じゃない。出ようとする声を、同じ場所へ戻してる」
ナミ教官はうなずきました。
「向きが変えられています」
アンジュがもう一度腰を浮かせると、内向きの石が一つ鳴り、膝から力が抜けました。
「よくいらっしゃいました」
アンジュは、ナミ教官たちを一人ずつ見ました。
「あなた方なら、わたくしの名を忘れていないと思っていました」
「忘れていません」
ナミ教官は即答しました。
「東の水路で、わたくしの衣を泥だらけにしたことも、覚えているわ」セヲ様が言いました。
「冬越しの木の実、味見で半分にしたよね」ゲツ先輩が笑います。
「あれは、保存状態の確認です」アンジュの口元が、ほんの少しほどけました。
それでも、石の向きは変わりません。




