第39話 赤い紐
サクヤと別れたあと、お嬢が隣に並び、小さく言いました。
「わたくし、正直、あなたが石を取らなかったこと、ちょっと羨ましく思いましたわ」
「お嬢が?」
「わたくしは、取らないという選択肢が、最初からありませんもの。翡翠の家に生まれた時点で、白は決まっていましたの」
その言い方には、悔しさというより、諦めに似た静けさがありました。
千歳は、何と返していいか分からず、ただ黙って隣を歩きました。
二人で訓練場を出る途中、外縁の広場で、何人かの男衆が立ち話をしているのが見えました。
「見極めの儀、悪くないんじゃないか。前と内、はっきりした方が動きやすい」
「そうだな。この頃、外から来る話にも、そういう考え方が多い」
その会話は、まだ小さな声でした。
午後の訓練は、ヤマ先輩が担当しました。
課題は、森の中で追われた時、戦わずに全員を戻すこと。
ヤマ先輩は開始の合図と同時に、目印を半分消し、通りやすい道へわざと倒木を置きました。
サクヤが正面の道を開こうとすると、「敵にも見える道を、逃げ道とは呼ばない」と止めます。
通りやすい道は塞いだまま、倒木の陰に隠れていた獣道を一本だけ開きました。
「最強とは、敵を全部倒すことじゃない。最後の一人まで生きて戻すことだ」
子どものような外見と、古すぎる判断が、まるで噛み合っていませんでした。
新入生たちは、強さではなく、帰る人数を数える訓練を初めて受けました。
訓練の最後、ヤマ先輩は千歳とサクヤを別々の道へ立たせました。
「二人とも、前だけ見すぎ。片方が咲かせるなら、片方は崩れる場所を見ろ」
姉妹の役割を最初から知っているような言い方でした。
「先輩、私たちのこと詳しいですね」
サクヤが笑うと、ヤマ先輩は一瞬だけ目をそらします。
「富士の同郷者だからな」
それ以上は言いません。
ただ、二人が戻るまで自分だけは出口を離れず、最後に人数を数えました。
千歳は、逃げ道を残すのも前線の仕事なのだと知りました。
ヤマ先輩の訓練の後、千歳はサクヤに誘われて、火の鍛錬場へ足を運びました。
「カグ先輩の鍛錬、見応えあるよ」
サクヤはそう言って、千歳の手を引きました。
鍛錬場に着くと、地面に組まれた石の炉から、赤い炎が立ち上っていました。
その炎の中心で、一人の女神が、炎そのものと組み合っているように見えました。
「行くぞ!」
声と同時に、炎が大きく揺れて、彼女の周りを渦のように巻きました。
長い髪を後ろで一つにまとめ、腕には何本もの布が巻かれています。
火の勢いだけでなく、倒れても立ち上がる人の声が、鍛錬場全体をさらに強く押していました。
動くたびに、火の粉が飛び散りました。
「あれが、カグ先輩……」
「カグヤマビメ。上級生の中でも、いちばん熱い人」
サクヤが小さく笑いました。
カグ先輩は、炉から立つ火を腕の動きだけで左右へ流しています。
跳ね返った火の粉を受けても止まりません。
「熱っ……でも、まだいける!」
傍らの下級生が止めると、カグ先輩は炎越しに叫び返しました。
「赤ん坊のときだって、焼けた森で生き残ったんだ!」
ただの勢いに聞こえた言葉に、サクヤの笑顔だけが少し曇りました。
その言葉の由来を知る者には、笑って聞き流せない強がりでした。
鍛錬が一区切りついたあと、サクヤが声を落としました。
「カグ先輩、北の焼けた森で見つかったんだって」
サクヤの話では、カグ先輩はまだ赤ん坊で、焦げた布に包まれ、腕には切れた赤い紐が一本だけ残っていたそうです。
見つけた山の女たちがカミムスヒ様のもとへ連れていきました。
火の力が強すぎて普通の集落では育てられず、物心がつく頃からアカデミーで暮らしてきたといいます。
カグヤマビメという名も、火と山の資質を見たカミムスヒ様が与えたものでした。
カグ先輩自身は、親の名も、生まれた場所も知りません。
だからカグ先輩の「生き残った」は、根性論ではなく、自分の始まりそのものだったのです。
「見極めの儀、選ばなかったんだって?」
カグ先輩は煤だらけの顔で笑いました。
「別に悪くない。あたしも選べって言われたら、両方つかんで投げ返してた」
「先輩は、自分がどっちか分かってるから言えるんじゃないですか」
千歳が聞くと、笑顔が一瞬だけ止まりました。
「火のことは分かる。あたし自身のことは、よく分かんねえよ」
腕の布の下から、焦げた短い赤い紐がのぞきました。
「誰の子かも知らないのに、人に白か黒か決められるの、嫌なんだ」
赤い紐は、カグ先輩の始まりから残っている、たった一つの物でした。




