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第38話 選ばなかった石

お嬢は白を取りました。

「翡翠の交易は、外との駆け引きですもの。当然ですわ」

その口調には迷いがないようでいて、目だけが一瞬、台の上の黒い石を見ていたのを、千歳は見逃しませんでした。


ククリは、しばらく台の前で動きませんでした。

やがて、黒でも白でもなく、両方の石にそっと指を触れてから、小さく言いました。

「……黒、で」

その声には、迷いというより、諦めに近い響きがありました。


そして、千歳の番が来ました。

千歳は、台の前に立ったまま、動けませんでした。

白い石も、黒い石も、同じくらいの重さで自分を待っている気がしました。

前に出る自分も、内で支える自分も、どちらも本当ではない気がして、でもどちらも嘘ではない気もして、手が動きませんでした。


「取らないと、始まらないぞ」

バキ教官が言いました。

その声には、急かす響きはありませんでした。

むしろ、困っているように聞こえました。


「取らなかったら、どうなるの」

「上へ送る記録は、未選択になる」

「未選択でいい」

千歳は、思わずそう言っていました。

「今は、決めたくない」


訓練場が、少しだけ静かになりました。


そこへ、カミムスヒがゆっくりと歩いてきました。

「今日、覚えていてほしいことが一つあります」

カミムスヒは、静かな声で言いました。

「選ばないことも、今の正直な答えです。空欄を、勝手に埋めてはいけません」


バキ教官は何も言わず、空欄の脇へ小さく書き添えました。


本人選択――保留。


千歳には、その表情が、少しだけほっとしているように見えました。


バキ教官は、記録板を閉じる前に、千歳へ言いました。

「覚えておけ。前へ出る者だけが戦うんじゃない。見えた穴を伝える者がいなければ、前線はまとめて死ぬ。白か黒かだけでは測れない役目もある」


記録板に残った「本人選択――保留」の文字を見ながら、千歳は自分の胸の奥が、少しだけ軽くなるのを感じました。

役に立つか、立たないか。

その二つだけでは測れない、まだ名前のない役目の場所に、自分が立っている気がしました。


訓練場の柱の陰では、ヤマ先輩が腕を組んでいました。

千歳と目が合うと、ふっと表情を緩めます。

「逃げ道は、塞ぐな」

誰に向けた言葉かは分かりません。

ただ、その一言だけが、やけに耳の奥に残りました。


その後の実戦訓練で、バキ教官は一人で複数の戦士を相手にしました。

矛は速く、誰も正面へ入れません。

それでも左側だけは、何度も空きました。

サクヤが好機だと思って踏み込むと、バキ教官は見る前に身体を引き、攻撃を外させました。


「そこ、隙じゃないよ」

柱の陰から、ヤマ先輩が言いました。

「二十年前、盾が立ってた場所。体がまだ、誰かが来る前提で動いてる」

「二十年も?」

サクヤが驚くと、ヤマ先輩は肩をすくめました。

「留年生の勘だけどね。待ってるというより、変えられないんじゃないかな」


バキ教官の矛が、地面へ強く突き立てられました。

「見世物じゃない。次」

否定しない声だけが、訓練場に残りました。


訓練が終わったあと、サクヤが隣に来て、いつものように腕を組んできました。

「お姉ちゃん、迷ってたね」

「迷ってたっていうか……分からなかった。決めるの、怖かった」

「わたしは、あんまり怖くなかったよ」

サクヤは少し照れたように言いました。


「前に出るの、嫌いじゃないから」

「知ってる。サクヤ、いつもそうだもん」

「それ、褒めてる?」

「褒めてる」

千歳は少し笑いました。


「でも、羨ましくもある」

サクヤは一瞬だけ、驚いた顔をしました。


それから、いつもより少しだけ優しい声で言いました。

「決めなくても、いいと思うよ。わたしがお姉ちゃんの分まで、前に出るし」


その言葉に、千歳は何も言えませんでした。

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