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第31話 石が寂しい

口にした瞬間、千歳は自分で驚きました。


石に寂しいって何。

さすがにこれは変だ。

今のなし。

そう言いかけた時、お嬢が先に言いました。


「続けて」

短い命令でした。

でも、嫌ではありませんでした。


「きれいって言われるほど、遠くに運ばれる感じがする。大事にされてるのに、元の場所から離れていく。だから、誇らしいけど、少し寂しい」


言い終えたあと、千歳は自分の声が小さく震えていたことに気づきました。

もう、途中で消せないところまで来ていました。


お嬢の顔から、すっと表情が消えました。


怒らせた。

千歳はそう思いました。

でも違いました。


お嬢は、泣くのをこらえるように、翡翠を握っていました。


「あなた、本当に失礼ですわね」

声は震えていません。

でも、指先が白くなっています。

「石に寂しいなどと」


「ごめん」


「謝るのが早いと言いました」

また言われました。

千歳は、今度こそ黙りました。


「でも、間違ってはいません」

その場の空気が、静かに変わりました。


ククリだけが、小さくうなずきました。

「結ばれましたね」


そのあとの沈黙が、いちばん強い返事に聞こえました。

お嬢は、千歳をまっすぐ見ました。

「無礼です」


「はい」


「けれど、誰もが見過ごす感情を掬う誠意は認めます」

千歳は、すぐに返事ができませんでした。

怒られると思っていたのに、違う言葉が来たからです。


お嬢は、少しだけ目をそらしました。

「誠意は嫌いじゃありません」


胸の奥が、ぱっと熱くなりました。

現代で、変なことを言ったあとに待っていた空気とは違う。

「え? 嬉しい、ありがとう、お嬢……」

言ってから、千歳は固まりました。

今、口に出した。

心の中だけの呼び名を。

けれど、今度は消したくない、と胸のどこかで思いました。


サクヤが、ぱっと顔を輝かせました。

ハニチュウが「あ」と言いました。

ククリは、何も言わずに千歳を見ています。

お嬢だけが、少しだけ目を細めました。


「お嬢?」

本人に聞き返され、千歳の口が先に動きました。

「ごめん。今のなし」


けれど、お嬢はすぐに首を横に振ります。

「また消しましたわね」

「あ」

「ま、好きに呼んでください」

「いいの?」

「許可しない方が、面倒そうですもの」

言い方はつんとしていました。

でも、怒ってはいませんでした。

千歳は、胸の奥で何かがほどけるのを感じました。


お嬢は、改めて千歳を見ました。

「では、あなたはなんて呼べばいい?」

その問いに、周囲が少し静かになりました。


イワナガヒメ。


その名を待つ空気がありました。

身体は、その名前に反応します。

でも、千歳の心はまだそこへ届きません。


「チサト」

千歳は、小さく言いました。

「チサトって呼んで」


お嬢は、すぐには返しませんでした。

「イワナガではなく?」


「うん」

千歳は、自分の胸に手を当てました。

「そっちの方が、しっくりくるから」


またざわめきが起きました。

けれど、さっきより刺すような音ではありません。

誰かに名前を待たれるのは、こんなに怖いことでした。


「分かりました」

お嬢は言いました。

「今は、チサトと呼びます」


今は。

その一言が、千歳にはありがたかった。

全部を信じたわけではない。

全部を分かったことにしたわけでもない。

それでも、今ここで呼ぶ名前を選んでくれた。


「ありがとう、お嬢」

今度は、ちゃんと言えました。


お嬢は少しだけ顎を上げます。

「呼び方が軽いですわ」


「ごめん」


「だから、謝るのが早い」


サクヤが隣で吹き出しました。

「あはは。もう仲良しじゃん」


「仲良しではありません」

でも、耳のあたりが少し赤く見えました。


軽いやり取りなのに、そこには確かに居場所がありました。


* * *


その頃、私の画面にも、千歳の反応が少しだけ流れてきました。

会話の全文ではありません。

翡翠について、千歳が口にした言葉の断片です。


── SYSTEM LOG ──

user_expression(ユーザー表現): "samishii_kamo"(寂しい、かも)

target_material(対象素材): jade(翡翠)

emotional_trace(感情痕跡): detected(検出)

────────────


私は、思わず画面に近づきました。


石に対して、寂しい。


昔なら、私は笑っていたかもしれません。

「詩人だな」

とか、「感受性豊かだな」とか。

それで終わらせていたかもしれません。

でも今は、その言い方の奥を考えずにはいられませんでした。

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