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第28話 この身体の妹

その頃、千歳は石の台の前で、まだ固まっていました。


「緑ではない」


自分で言った言葉が、場の中に残っています。

言ってしまった。

そう思いました。

現代なら、ここで笑えばよかったのです。

「あ、ごめん。変な言い方した。今のなし」

そう言えば、たいてい終わります。

でも、ここでは終わりませんでした。


周囲の少女たちは、千歳を見ています。

正確には、イワナガヒメの姿をした千歳を。

この人は本当にイワナガヒメなのか。

それとも、イワナガヒメではない何かなのか。

千歳自身にも、その答えはありませんでした。

その視線が、いちばん逃げ場をなくしました。


首元に翡翠を下げた少女が、一歩前に出ました。


「あなた」


声は静かでした。

けれど、静かなぶんだけ逃げ場がありません。


「わたくしは、ヌナカワヒメ(奴奈川姫)。糸魚川の石を預かる者です」


少女は、翡翠に指を添えました。

名乗り方からして、ただの自己紹介ではありませんでした。

自分の後ろに、川と石と人の手がある。

そういう立ち方です。


「先ほどの『緑ではない』という言葉。詳しく説明なさい」


千歳は、喉を鳴らしました。

「言った、と思う」

「思う?」

「言った。……ごめん」

すぐに謝ると、少女の眉がわずかに動きました。


「謝る前に、意味を説明なさい」

その言い方はきつい。

でも、切り捨てる声ではありませんでした。


千歳は、台の上の石を見ました。

緑。

確かに緑です。

でも、ただの緑ではない。

そう思ってしまったことだけは、消せませんでした。

消せないなら、説明するしかありません。


上品で、近づきにくくて、でも逃げない。

千歳の頭の中で、勝手に呼び名が生まれました。

お嬢。

もちろん、口には出しません。

出したら怒られそうです。


お嬢は、台の上の翡翠を指先で押さえました。

「もう一度、聞きますわ」

その目が、千歳をまっすぐ射抜きました。

「緑ではないとは、どういう意味ですの?」


千歳は、反射的に下がりそうになりました。

その時、隣に誰かが来ました。

その顔にも、見覚えがありました。


コノハナサクヤヒメ。


周りの子たちは、彼女をサクヤと呼んでいました。


近い。

近すぎる。

肩が触れそうな距離です。


「大丈夫。言いなよ」

サクヤは、当たり前みたいにそう言いました。


千歳は、思わず横を見ます。

「なんで、そんな近いの」


「え?」

サクヤはきょとんとして、それから少し首をかしげました。


「だって、お姉ちゃんだし」

その言葉が、千歳の中で遅れて落ちました。


お姉ちゃん。

誰の。

そう思った瞬間、身体の奥が小さく反応しました。

その反応が、千歳をさらに混乱させました。


千歳に妹はいません。

少なくとも、現代の千歳には。

でも、この身体は違いました。

知らないはずの名前。

知らないはずの関係。

それなのに、サクヤが隣に立つと、足の置き場だけが分かる。

肩の近さに、身体が驚かない。

むしろ、少しだけ懐かしさに似たものがありました。

サクヤは、イワナガヒメの妹。

その事実を、千歳は知識ではなく、身体の反応として受け取りました。


「妹……?」

小さくつぶやくと、サクヤはぱっと笑いました。


「そうだよ。何それ、本当に忘れてるの?」

その目の奥には、少しだけ不安が混じっていました。

笑顔なのに、置いていかれたような寂しさがありました。


「お姉ちゃん、雰囲気変わった?」

サクヤは、千歳の顔をのぞき込みました。


「前は、ちょっと怖かったんだよね」

「怖い?」

「うん。見られると、全部ばれる感じ。好きだけど、ちょっと寄れなかった」


好きだけど。

その言葉が、千歳の胸に引っかかりました。

サクヤは続けます。


「でも今は、なんか可愛い」

「かわいい?」

「うん。困ってるし、すぐ謝るし、すぐ逃げようとするし。だから、くっつきたくなる」

千歳は、返事に困りました。

妹に、そんなことを言われている。


千歳は、イワナガヒメを演じているだけのはずでした。

けれど、この身体は、妹に触れられる距離を覚えていました。

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