30
午後の陽射しが、レース越しにやわらかく寝室を照らしていた。
アナスタシアは、鏡の前でそっとリップクリームを引いた。
唇の端が、まだ少し――ほんの少し、ひりついている。
「……ルカったら、加減って言葉を知らないのかしら」
小声でそうぼやいて、でもすぐに口元はゆるむ。
甘やかされることに慣れてきた自分がいるのを、少しだけ自覚していた。
そこへ、廊下の足音が静かに近づいてくる。
「ミレイユ?」
「お戻りになっていたんですね、お嬢様」
ドアをノックして入ってきたミレイユは、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた――けれど。
(……なんだか、ほんのすこしだけ、浮ついてる?)
その頬の赤み、まなざしの奥のきらつき。
アナスタシアはすぐに気づいた。
「ふふ、どうしたの? カフェでなにか、あった?」
ミレイユが「えっ」と目を見開き、
一度視線をそらしてから、そっと椅子に腰を下ろした。
「……なんで、分かったんですか?」
「ミレイユの顔、隠せてるようで隠せてないのよ?」
そう言って微笑むと、ミレイユは観念したように頷いた。
「……タバサに、ちょっと尻を叩かれまして」
「尻を?」
「比喩的に、です。
“返事をしてないの? 早くしないと誰かに取られちゃうかもよ?”って……」
アナスタシアのまばたきが止まる。
「それで、ミレイユはどうするの?」
「……まだ、考えてます。
でも――このままでいいとは、思ってません」
静かに、でもどこか決意をにじませて答えたその表情に、
アナスタシアは、そっと自分の唇を指先でなぞった。
(……ああ、そういう顔)
好きな人のことで揺れている、でも前に進もうとしている顔。
「ねえ、ミレイユ」
「はい?」
「応援するわ。……だから、後悔しないようにね」
ミレイユは目を見開いて、それから静かに微笑んだ。
邸宅の応接間で、バルドーは帳簿に目を通していた。
そこへ、扉が軽くノックされた。
「バルドーさん、あの……今、お時間よろしいでしょうか」
声の主は、ミレイユだった。
けれど、いつもと少しだけ雰囲気が違った。
姿勢はきちんとしている。けれど、どこかそわそわとしていて、
両手を軽く握りしめているのが遠目にもわかった。
「……構いません。お入りください」
静かに答えると、彼女はそろりと入ってきた。
「実は、アナスタシア様とルカ様が……スケジュール調整をしてくださって。
わたしたち、次の土曜日に休暇をいただけることになったんです」
「……そうですか」
バルドーは帳簿から顔を上げ、真面目な調子で返した。
だがミレイユは一拍おいて、少しだけ深呼吸をすると――
「……それで、その……もしご迷惑でなければ。
その日、少しだけ……お時間をいただけませんか?」
その目は、まっすぐに向けられていた。
バルドーは思わず軽くまばたきする。
「私に?」
「はい」
少し緊張したように、けれどどこか嬉しそうに、ミレイユは頷いた。
「ずっと……ちゃんとしたお礼も伝えられずにいましたから。
あの日、髪飾りをいただいたことも、それ以外のことも……」
バルドーは一瞬だけ視線を落とし、机の端に置かれた紙に視線を向けた。
「……承知しました。その日、予定を空けておきます」
ミレイユの目がふわりと和らいだ。
「ありがとうございます。では……その日、また」
軽く頭を下げ、部屋を出ていくミレイユの背中を見送りながら、
バルドーは静かに息をついた。
その指先が、無意識に自分の胸ポケットに触れる。
そこには――ミレイユからもらったお守り袋が、今もなお、ほんのりと残っていた。




