バルドーの日記帳より。3
ある日を境に、ふたりの様子が明らかに変わった。
もともと私の主人――ルカ様は、アナスタシア様を見つめる時間が不自然に長い人物だった。
書類の影から、会話の合間から、ふと目を上げれば必ず“そこ”に視線が向いていた。
だが最近の彼は、見つめるだけでは飽き足らぬと見えた。
いや、正確に言えば――“触れてもよくなった”ことが、たいへん誇らしいようである。
それは表情に出すでもなく、言葉にするでもない。
だが、歩いていれば自然と手が重なり、庭を歩けばそっと腰へ添えられ、
アナスタシア様を見れば、後ろから抱きしめ――
どうやら週に5日は抱き上げているらしい。
最初のうちは人目を憚っていた気配もあるが、今ではほぼルーティンである。
ちなみに雨の日は抱っこ率がやや下がる傾向にある。
木製の廊下が滑りやすいからか? そのあたりはまた観察してみたい。
加えて、最近気づいたことがある。
アナスタシア様の背に回されるルカ様の腕の位置が、一定になってきた。
右手は肩甲骨のすぐ下、左手は腰骨の上。
微妙な角度でずれがなく、毎回ほぼ同じ場所。
これは――完全に“習性”である。
無意識なのか、それとも何か本人なりのこだわりがあるのか。
いずれにしても、その様子を仕事中に真正面から見せられる私の気持ちにも、少しは配慮いただきたい。
……と思っていた矢先、また今日も廊下でくっつき虫になっているルカ様を見てしまった。
あの日の午後、私は通路の角でミレイユ嬢とすれ違った。
彼女は、なんとも言い難い表情をしていた。
嬉しそうでもあり、困っているようでもあり――
つまり、非常に“ルカ様案件”だという予感がした。
「……どうかされましたか?」
そう訊くと、ミレイユ嬢は小さく息を吐きながら、ぽつりとこぼした。
「アナスタシア様の髪のお手入れをしていたんですけど……途中で、ポジションを取られてしまって」
私は一瞬理解できず、眉をひそめた。
「……誰に?」
「ルカ様に、です」
想像どおりの答えが返ってきた。
「……ふむ」
どうやら、アナスタシア様の背後で髪を整えていたミレイユ嬢に、ルカ様が静かに割り込んできたらしい。
まるで交代の時間が訪れたかのような自然さで。
「なにより面白かったのはですね……」
ミレイユ嬢は少しだけ頬を赤くして笑った。
「髪に触れる前に、わざわざ洗面所に行って、しっかり手を洗って戻ってきたんです」
……完全に儀式だ。
「“清らかな気持ちで”というやつでしょうかね」
私は思わず頭を抱えそうになった。
ルカ様の誠実さと真面目さが、美点として尊ばれていた時期が確かにあった。
だが、アナスタシア様関連に関しては――誠実が過剰反応を起こす。
おそらく閣下の中では「髪に触れる=神聖な接触」という位置づけなのだろう。
まあ、髪は女性にとって大切なものだ。
わからなくもない。
だが、せめて横から当然のように滑り込んで交代するのはやめていただきたい。
ミレイユ嬢は最後に、
「でも、……ちょっと、羨ましくなっちゃいますね」
と、ぽつりと呟いて廊下を去っていった。
ミレイユ嬢の背が、廊下の角を曲がる。
その一瞬、揺れた栗色の髪の間から――
金細工の髪飾りが見えた。
あの夜、私が選んで贈ったものだ。
そっと差し出し、震えそうな手で受け取ってもらった。
それが、彼女の髪にそっと収まっていた。
小さく、息をのんだ。
胸の奥に、ふっと火種が灯るような感覚。
「……もしかして……私に……髪を……すいてほしい……ということ、だろうか……」
思わず、声に出てしまった。
次の瞬間、自分の口をあわてて手で塞いだ。
ばかか、私は。
誰がいるとも知れぬ廊下で、独り言を呟くなど。
だが――
耳の奥が熱い。
そして、どこか背筋が伸びるような、くすぐったい気持ちがあった。
「……落ち着け」
静かに呟き直し、私は歩みを戻す。
その足取りは、いつもよりわずかに軽かった。




