28
廊下に出たところで、ふいにすれ違った。
バスルームから戻ってきたばかりのアナスタシアは、薄手の部屋着姿。
まだ頬に湯気が残るようで、髪も少し湿っていた。
「……ルカ?」
「あ、ああ……ご、ごめん。通るだけで――いや、変な意味じゃなくて!」
目を逸らそうとして、足を止めて、また焦って向き直る。
アナスタシアはくすりと笑いながら首をすくめた。
「謝ることなんて、ないのに。……私たち、夫婦なのよ?」
ルカが固まった。
「……っ」
「……えっと、だから。あの……」
アナスタシアは少し視線を落として、指先を絡める。
「……この旅で、私たち、とても仲が深まったって……私は、そう思ってるの。
きっとルカも、そうだと思ってくれてるって、信じてるから」
頬が、ほんのりと染まっていた。
「だから……明日の夜。
少しだけ、ふたりきりで過ごせる時間を……つくっても、いい?」
ルカはまばたきも忘れて彼女を見ていた。
「……アナスタシア」
「……うん?」
彼はすぐには言葉を返せなかった。
でも、ゆっくりと頷いたその表情には、いつもよりずっとまっすぐなやさしさがあった。
「ありがとう。…明日、楽しみにしてる」
アナスタシアはそっと微笑んで、すれ違いざまにルカの袖をすこしだけ引いた。
それは、手を取るにはまだ早いけれど、確かに心を結ぶような仕草だった。
そしてルカは、彼女が部屋に消えたあともしばらくその場を動けなかった。
夜がゆっくりと深まっていく中、アナスタシアの寝室には静かな支度の気配が流れていた。
ミレイユの手によって、柔らかく波打つ髪は丁寧に整えられ、
いつもより少し艶を引き立たせるオイルが添えられた。
「……似合ってますよ、お嬢様」
鏡越しにふと囁かれたその言葉に、アナスタシアは小さく頷く。
「ありがとう、ミレイユ。あとは……私ひとりで大丈夫よ」
にっこりと微笑む彼女を見て、ミレイユは少し頬を染めながら礼をして部屋を後にした。
静かになった寝室に、アナスタシアはゆっくりと振り返る。
サイドテーブルの上には、あの旅で受け取ったガラスの花冠。
今宵は髪にはのせず、そっと置いて灯の傍に。
ベビードールは――
レティシアからの衝撃の贈り物として笑って受け取ったもの。
けれど今は、彼女自身の意志で纏っていた。
身にまとうだけで、どこか背筋が伸びるような、
同時にほんの少しの勇気がいるような、そんな感覚。
アナスタシアは小さなガラス瓶を手に取り、
ルカが贈ってくれた精油を香炉に数滴垂らす。
ふわりと広がったのは、白い花の静かな香り。
灯りを少し落とし、寝台の傍へ腰を下ろすと、
胸元に手を添えて、深くひとつ息をついた。
心臓の音が、ほんのり早い。
けれど、それは緊張ではなく、
“選んだ自分”の証のようなものだった。
「ルカ……来てくれるかしら」
そう小さく呟いて、扉の向こうをそっと見つめた。
控えめに、けれど確かに――ノックの音が扉を叩いた。
アナスタシアはほんの一瞬だけ、胸元に置いた手をきゅっと握りしめる。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「……どうぞ」
その声は、震えてなどいなかった。
扉が静かに開かれ、ルカが姿を見せる。
黒の寝間着に上着を羽織った姿は、彼なりに整えてきたのだとすぐにわかった。
だが、目に映ったアナスタシアの姿に、ルカは言葉を失った。
部屋の香に、光に、そして彼女の纏う柔らかなベビードールに。
すぐに目を逸らし、何か言おうとして口を開いたが――声が出なかった。
「いらっしゃい、ルカ」
アナスタシアが静かに笑む。
「精油、使ってみたの。あなたが選んでくれたもの。とてもいい香り……ね?」
ルカは目を伏せたまま、ゆっくりと扉を閉める。
背中で扉が音を立てて閉じるその瞬間、ようやく彼女に正面から向き直った。
「……綺麗、です」
ぽつりと、絞り出すように。
アナスタシアは頬をわずかに染めながら、小さく肩をすくめた。
「ありがとう。でも、そんなに緊張しなくてもいいのよ。……私たち、夫婦なんだから」
ルカは喉を鳴らしながら、ゆっくりと歩み寄る。
寝台の前まで来て、そこでまた足を止めた。
「でも……君がこうして迎えてくれることが、嬉しすぎて、少し現実じゃないみたいで」
「夢だったらどうするの?」
アナスタシアの声はそっと、柔らかく問いかけた。
「……絶対に、醒めたくない」
ようやく目を合わせたルカの瞳は、何よりも真剣だった。
そして彼は、手を伸ばす。
震えながらも、確かに彼女の手をとって、そっと指を重ねた。
もう、言葉はいらなかった。
寄り添うだけで、すべてが通じ合っていた。
静かに、夜がふたりを包み込んでいった。
ルカの指が、そっとアナスタシアに触れた。
その手は――やはり、少しだけ汗ばんでいた。
ずっと変わらず、不器用で、慎重で、
けれど何よりも彼女を大切にしようとする、そんな手。
アナスタシアは、ふわりとその手に自らの頬を寄せた。
「あたたかいわね」
目を閉じて、小さく笑いながら囁く。
「緊張してるの?」
「……はい。ずっと夢見ていたことなのに、今はもう、どうしていいかわからなくて」
かすれた声に、アナスタシアはそっと唇をゆるめた。
「じゃあ……私が、教えてあげる」
彼の掌に、静かに手を重ねる。
「あなたのその手が、どれだけ私を安心させてくれるか――
ちゃんと、伝えるから」
ルカは目を見開いて、それからただ一言だけ呟いた。
「アナスタシア……」
頬に触れる指が、少しだけ強くなった。
その熱が、まるで心に触れてくるようで。
アナスタシアはそのまま、彼の手にもう一度、やさしく頬をすり寄せた。




