エリュプティオ⑨
宵1ツの鐘が鳴る。
誰もが寝静まったエリュプティオの屋敷に、黒い白衣を着た錬金術師が訪れていた。
クリフ・リンドールである。
フットマンのガルディアに案内されて現れたクリフを、ベルフは快く自室へ招き入れた。
そのままガルディアを下げ、ヒト払いをする。
「遅くなってしまって申し訳ございません」
「ああ、構わんよ。 まあ座りたまえ」
大きなソファへクリフが座り、ベルフもその向かいへ座って足を組む。
傍らにはキャスター付きの大きなスーツケースが置かれていた。
「クリフ。 君には申し訳無いことをしたとずっと後悔していた。 こうしてまた会えて嬉しいよ」
「……あの村のヒトたちには世話になっていました。 それに天才である私がミスなどする訳がありません」
「ああ、その通りだとも。 君は村人たちと随分仲が良かったようだな。 フロガから聞いていたよ」
何処か上の空で答えるベルフは、きっと心からの謝罪などしていないのだろうとすぐにわかった。
目的は魔獣の始末、ただそれだけ。
それだけの為に、罪を擦り付けたクリフを呼び寄せ、金を積んで仕事をさせようとしている。
よほど、その魔獣が邪魔で困っているのだろう。
「それで、魔獣の件ですが。 どういった魔獣なのですか?」
「狐だ。だが、ただの狐じゃない。 何をしても死なないんだ」
「……不老不死の狐ですか」
「ついでにヒトの言葉を喋って理解しているからたちが悪い。 殺したら剥製にしたいんだが、そこまで頼めるかね」
「ヒトの言葉を喋る不老不死の狐……なるほど、大体検討がつきました。 殺して剥製にするんですね、わかりました」
「……まさか、あの雌狐の事を知っているのか」
ベルフが呟くと同時に、扉が叩かれた。
口を閉じ、扉の方を見やる。
「お茶をお持ちいたしました」
「……入れ」
長い黒髪のメイドが優雅にカーテシーをする。
ティーポットから紅茶を注ぎ、ベルフとクリフの前へティーカップを慣れた手つきで置く。
紅茶の用意を済ませると、メイドは早々に部屋を出て行った。
「手紙にも書きましたが、まずは前金をいただきます」
「用意してある。 そこのスーツケースだ」
「中を確認しても?」
「構わんよ」
席を立ち、スーツケースを開けるクリフを尻目に紅茶を口に含む。
薔薇のような華やかな香りが鼻を抜け、深いコクと渋みが舌の上で転がる。
美味い紅茶だ。
クリフが中身を丹念に確認している間に、ベルフは熱い紅茶を楽しんだ。
「確認しました。 いただいていきます」
やがて紅茶を飲み終わる頃、クリフがスーツケースを抱える。
「すぐにでも処分を頼む。 今、案内を……」
ベルフが腰を上げる。
が、すぐに膝から崩れ落ちてしまった。
柔らかな絨毯の上へ吸い寄せられるように体が倒れ、起き上がることができない。
「なん……だ、これ……は……」
辛うじて動く眼球で見回していくと、クリフを視界に捉えた。
「ずっと、貴方に会う機会を探していた。まさかそっちから連絡してくるとは思わなかったが」
「貴様……なにを……」
声を絞り出した喉が異様に熱い。
喉だけではない。
体全体が焼けるように熱く、穴という穴から体液が流れていくのがわかった。
「クリフ・リンドールの名を汚した罪は重い。死んで償え」
淡々と、表情すら変えずに答えた後、クリフはベルフの視界から消えた。
*****
──重いスーツケースを引き摺り、扉を開ける。
開けた扉の横には、先ほど紅茶を運んできた黒髪のメイドが立っていた。
メイドはクリフを見るなり、エメラルドグリーンの瞳を細めてにこりと笑う。
「俺って演技うまいよなぁ。 このままメイドとして食っていけるかも」
「気色悪いな、君は」
「えー! 結構可愛いと思うんだけどなー」
黒髪のメイド……元い、ドッドウェルはヒラリとスカートを持ち上げてカーテシーをしてみせた。
腰ほどのロングヘアがふわりと揺れ、女性特有の丸い背格好とふくよかな膨らみは普段のドッドウェルとは程遠い。
クリフはそれを怪訝そうに眺めていたが、ふと頬へ冷たい風が当たった気がして、辺りを見回した。
──廊下の窓が、一つ開いている。
それに気付いた瞬間、背後に気配を感じた。
「なんで貴様がここにいるんだ」
女の声が響く。
聞いたことのある声だ。
声のした方へ目を凝らしてみると、照明の当たらない片隅で二つの丸い金色が光った。
よく見ればそれは、九つの尾を持つ狐であった。
「よお、天狐ちゃん。 あんたこそ、何しにきたんだ? 今ごろマスターとよろしくやってると思ってたんだが」
「フロガは寝かせ……なんだ、お前。 まさかドッドウェルか?」
「せいかーい! かっわい〜でしょ?」
ドッドウェルが飄々と話しかけると、狐はヒトの姿へと変わった。
暗闇から眩しい照明の下へ出てきて、訝しげに二人を睨み付ける。
「……それより、あいつは死んだのか」
にこにこと笑うドッドウェルから視線を逸らし、クリフを見やる。
「ベルフの事か? 彼ならそろそろ死ぬと思うが、別れの挨拶でもしにきたのか」
「世話になったからなぁ」
そう言って天狐は二人の間をすり抜け、部屋の扉を開けた。
ひゅーひゅーと聞こえる息の方へ向かい、横たわるベルフの脇へ立つ。
血走る紫紺色の瞳を、天狐はじっと見下ろした。
「おお……お前……どうして……」
「貴様は最後に殺すと言ったなぁ」
ベルフがハッとする。
そうだ、天狐はこの家の者全員を殺すつもりなのだ。
ベルフも勿論殺すつもりだが、狡猾な天狐の事だから楽しみは最後に取っておくのだろう。
つまり、今死にかけているベルフを天狐は生かしに来たのだ。
ベルフは、そう解釈した。
「そ……そうだ……はやく、この毒を、なんとかしてくれ!」
天狐が口の端を吊り上げる。
金色の瞳が美しく揺れて、長い睫毛が影を落とした。
「あれは嘘だ」
ひゅ、とベルフは息が止まった気がした。
天狐が踵を返す。
扉へ歩いて行く後ろ姿に向かって、ベルフは無意識に声を張り上げていた。
「このっ……! 雌狐がああああ!!!」
叫びは虚しく、閉まった扉に遮断された。
*****
ガルディアは大きな欠伸を掻いていた。
黒い服を着た不審者らしき者を屋敷内で見たと言うメイドに起こされて、玄関の戸締りを確認しに来たのだ。
しかし鍵は閉まっている。
他の使用人に指示を出して別の箇所も戸締まりを確認したが、どこも施錠が外された形跡はない。
結局、メイドの見間違いだったということにして、ガルディアは再び自室へ戻ろうと一歩踏み出した。
時だった。
突然、玄関の扉が開いた。
「ただいま戻りました」
驚いて振り返った先には、銀髪のエルフと青髪の男。
リカルドとミーティスが帰ってきたのだ。
「……リカルド。 資料整理は終わったのですか」
「終わりましたよ。 フロガ様はもうお帰りになられましたか」
ガルディアは察した。
このエルフはフロガを見送る為にこんな深夜であるにも関わらず帰ってきたのだと。
しかし、残念ながらフロガはもうここには帰ってこない。
一足遅かったのだ。
「フロガ様はお帰りになられましたよ。 残念でしたね」
「そうですか……では、旦那様にご挨拶だけして執事室へ戻りますね」
「旦那様は既にお休みになられています。 お声がけするのは控えたほうが良いかと」
「おや、部屋の明かりがついていましたが……」
「まあ好きにしたら良いんじゃないですか」
首を傾げたリカルドを尻目に、ガルディアは自室へ戻る。
リカルドの後ろで気配を消していたミーティスがそっと口を開いた。
「一応、ご挨拶に行きましょうか」
「そうしましょう。 なんだか胸騒ぎがします」
外套を脱ぐ事もなく、二人は早足でベルフの部屋へ急いだ。
重厚な扉をノックする。
しかし返事はない。
「……旦那様、リカルドでございます」
そんな声がけを二度ほど行ったが、やはり返事はない。
「眠っているのでしょうか」
「旦那様は明るいと眠れないので、あり得ません。 旦那様、失礼致します」
扉は簡単に開いた。
中に入るが、一見誰もいないように思える。
が、ソファの下にヒトの足が見えた。
リカルドはそれがベルフの物だとすぐにわかったのだろう。 急いで駆け寄り、膝をついて声を上げた。
「ミーティス、すぐに警備隊を……いや、手遅れか。 屋敷の者を全員起こしてきてください」
「一体何が……」
「早く」
「承知いたしました」
ミーティスが部屋を出て行く。
リカルドはそっとベルフの手を取ると、ひんやりと冷たかった。
が、まだか細い息があるように見えた。
「旦那様……ベルフ様」
声をかけると、指が微かに動いた。
焦点の合わない瞳へ手を添えると、唇が小さく開く。
「り……か、る……ど?」
「はい、リカルドでございます。 ベルフ様、どうやらお別れの時間が近いようです」
リカルドの細い指が、ベルフの喉をなぞる。
もう何をしても意味は無いが、せめて喋ることができるように回復魔法をかけたのだ。
「私の……遺言状が、机のなかに……」
「承知いたしました。 全て、ベルフ様の仰せのままに」
ベルフが安心したように息を吐く。
力の入らない手がリカルドへ伸び、皺の刻まれた頬と自身が削ぎ落としたとがり耳へ触れた。
美しい銀色の瞳が、静かにベルフを見つめる。
老いてなお美しいのはエルフだからだろうか。
ベルフは愛おしげに目を細め、口許を緩めた。
──ベルフが当主になった際、リカルドへ一番最初に出した命令は、外見を変えろというものだった。
適当な理由をつけて「年相応の姿になるように」と無茶な事を言ったのに、リカルドは快くそれを受け入れて、すぐに美しい青年から萎びた老夫の姿へと変わった。
──この美しさを知る者が自分一人でありたかったのだ。
それから十数年。
美しいとがり耳の片方を削ぎ落としたのは一番新しい記憶だ。
フロガへ肩入れした罰としたが、それはベルフがリカルドへ刻んだ「所有の証」であり、言葉にできなかった唯一の情愛の形だった。
駆け巡る走馬灯は家族の記憶でもなければ、愛人の記憶でもなく、リカルドただ一人だけ。
しかし、今目の前にいるリカルドがどんな顔をしているか、もうわからなかった。
「わたしが……信頼できるのは、お前だけだった……こんな家……なくなって、しまえば……」
全てを言い切る事は無く、ベルフは沈黙した。
紫紺の瞳から、光が消える。
上下していた胸は動きを止め、リカルドに触れていた手から力が抜けた。
「おやすみなさいませ、ベルフ様。 リカルドは、貴方にお仕えできて幸せでございました」
光の失った瞳を、ゆっくりと閉じさせる。
それからリカルドは、ベルフの机の中にある遺言状を探した。
一つだけ、二重底になっている引き出しがある。
その下を開けてみれば、遺言状と思われる便箋を見つけた。
エリュプティオ家の家紋で封蝋が押されたそれは、間違いなくベルフが遺したものだろう。
リカルドはそれを丁寧に開け、中身を確認した。
ベルフの綺麗な筆跡で書かれた内容は、要約するとこのようになっている。
遺産の半分は娼館エテルネルとファタールで二分割にする。
もう半分は愛人であるハニーとメルロスへ。
家族へは一切渡さない。
領地は……
……リカルドはそっと目を閉じた。
三枚あった手紙を破り、灰皿の上で跡形も無く燃やす。
同時にベルフという個人への情は、その煙と共に消えた。
リカルドが守るべきは、ベルフの我儘ではなく「エリュプティオ」の存続である。
完全に燃えたのを確認してから、次はベルフの筆跡で遺言状を書き直した。
爵位を継ぐ者はクレヴォとし、それ以外は当たり障りのない内容のものだ。
新しい便箋に手紙を入れ、蝋を垂らして印を押した。
その一連の動きは、主を亡くした悲嘆など微塵も感じさせず、新しい主を迎え入れるための準備を整える事務的な静謐さに満ちていた。
そろそろミーティスがクレヴォや使用人たちを連れてくる頃だろう。
リカルドは便箋を二重底の下へ押しやり、扉の前で新たな主を待った。
*****
深い眠りに落ちていたクレヴォが叩き起こされたのは、深夜の事だった。
扉を叩く騒々しい音で目が覚めて、ゆるゆると開けてみると、メロウラージュに行っているはずのミーティスが困った顔で立っていた。
「ミーティス……メロウラージュにいたんじゃなかったのか」
「今ほど戻りました。 それより、旦那様が危篤でございます」
「すぐに部屋へ」と促され、眠っているフォリエンヌを起こして、クレヴォはミーティスと共にベルフの部屋へ向かった。
静かな屋敷の中に、三人の足音が響く。
ベルフの部屋はクレヴォの部屋とは反対側にある。
長い廊下を歩き、中央のホールへ一度降りて、また階段を昇っていく。
ホールを見下ろす階段の踊り場には、最近描かれたばかりのベルフの肖像画が飾られていた。
「……この肖像画をようやく外せるな。清々する」
毎年、贔屓の画家に描かせていた肖像画。
ベルフが屋敷にいないときでも欠かさず見下ろしてくるその視線が、クレヴォはずっと嫌で仕方がなかった。
これでようやく見納めだ。
自分と同じ紫紺色の瞳と視線が合う。
それから目を逸らして、先を歩くミーティスの背中を追って階段を昇った。
──瞬間、クレヴォの視界がぐるりと反転した。
「クレヴォ様!?」
遠くでミーティスの驚く声が響く頃、クレヴォは全身に鈍い痛みを感じていた。
腕が思うように動かず、状況を把握するために首を曲げようにも持ち上げることができない。
歪む視界は赤く染まり、天井のシャンデリアがやたら暗く見えた。
──暗いシャンデリアを覆うように、妻のフォリエンヌが顔を覗かせる。
けれども、その表情はよく見えない。
「……クレヴォ様」
フォリエンヌは眉を顰ませながら、その口元だけをわずかに動かす。
小さく震えている指先が恐る恐るクレヴォの腕へ触れ、手を添えたが、クレヴォにその温もりは伝わっていないようだった。
「フォリー……」
か細い声を絞り出すクレヴォに、フォリエンヌはそっと顔を近付ける。
荒い吐息が聞こえ、どろりと流れる血液が床へ広がっていた。
──愛しい旦那がこんな姿になっている今ですら、フォリーは自分の音が聞こえなかった。
クレヴォからは崩れる音がする。
硝子が割れていくような、繊細で甲高い音だ。
とても美しくて、思わず聴き惚れてしまう音。
子供が亡くなった時も、こんな音が聞こえていた。
急いで回復魔法をかけるミーティスからは、鈍い音が聞こえる。
太鼓の鼓動のような音だ。
きっと焦っているのだろう。
これほど音に満ちているというのに、自分の音だけがどこにもない。
「あなた……クレヴォ様、ごめんなさい。 ごめんね」
思わず口から謝罪の言葉が漏れた。
しかし、クレヴォは不思議そうにフォリエンヌを見上げたあと、心配をかけまいと笑ってみせた。
「どうして謝るんだ、フォリー。君は何もしてないじゃないか」
「そうじゃないの。何も感じないの、ごめんなさい」
「何言ってるんだよ。君は今、こんなに悲しそうな顔をしてるじゃないか」
焦点の定まっていない瞳で明後日の方向を見ながら、クレヴがフォリエンヌの手を握る。
その殆ど籠もっていない手を、フォリエンヌは優しく撫でた。
「私、悲しそうな顔をしているの」
「そうだよ。……大丈夫、こんなことじゃ死なない。怪我が治ったら、二人でフロガの食堂を冷やかしにいこう。あいつ、きっと嫌そうな顔をするよ」
「楽しみだな」と笑ったのを最後に、クレヴォは意識を手放した。
フォリエンヌも、同じ微笑みのまま頷いて手を握り直す。
──傍らでそのやりとりを見ていたミーティスの詠唱が、一瞬乱れた。
それに気付いたのか、フォリエンヌがゆっくりとミーティスを見やる。
「ミーティス、クレヴォ様は大丈夫よね?」
「……はい」
ミーティスは視線を逸らした。
視線を逸らさなければ、深海のような黒い瞳に捕らわれてしまう気がしたのだ。
なにより、最初から最後まで一貫して微笑んでいたフォリエンヌが、恐ろしいと思った。
「……クレヴォ様、すぐにお医者さまが来ます」
声が震えた。
しかし、フォリエンヌはもうミーティスを見てはいない。
変わらぬ微笑みのまま、その視線はじっとクレヴォを愛おしそうに眺めていた。




