エリュプティオ⑩
朝の光が、木製の床へ落ちている。
窓から射し込む光の柱を這うように細かな埃がキラキラと漂っていた。
ヴァルムへ帰ってきてから、二ヶ月は経っただろうか。
朝でも寒かった日々はいつの間にか終わっていて、今は羽織りが無くても問題無い程度には暖かくなっている。
しかし、ヴァルム再開の目処はまだ立ってはいない。
そんな中、客のいない店内にはコトコトと何かを煮詰める音が響いていた。
カウンターの中ではフロガが料理を盛り付けている。
湯気が立ちのぼる鍋からスープを一掬いして、カップへ注いだ。
野菜が沢山入った黄金色のスープへ、パセリをひとつまみ。
これで朝食が大体揃った。
それを見計らってか、スープの香りに釣られたのか、天狐が階段を降りてきた。
「おはよう。 そろそろ朝食できるよ」
「ああ」
ひと言返事をしてから、天狐は店のドアを開けてポストに入っている新聞を取り出した。
中身を確認する素振りもなく、カウンターの定位置に座り、新聞を隅へ追いやる。
ほどなくして、天狐の前に朝食が並べられた。
キャロットラペ、たっぷりの野菜が入った具沢山のコンソメスープ、ベリーのコンポート入りヨーグルト。
最後に持ってきたのは、メインが乗った大きな白い皿。
軽くトーストされた丸パンに、スモークベーコンとポーチドエッグを乗せて、ふんだんにオランデーズソースがかけられている。
他にはアスパラ、ブロッコリーなどの蒸し野菜とベビーリーフ、ミニトマトが彩り良く配置されていた。
朝から妙に手の込んだ料理を出すのには、理由がある。
そのうち再開するヴァルムに出す料理の予行練習なのだ。
二階のキッチンで作らず、一階で作るのも、練習の一環である。
そうして、料理を食べた天狐が「うまい」と言えば、フロガは安心できるのだ。
料理を並べ終えて、天狐の隣にフロガが座る。
「いただきます」とフロガが言うのを待って、天狐が黙々と食べ始めた。
表情はいつもと変わらないが、大きな耳がピンと上を向き、九つの尻尾が忙しなく動いているのを見ると喜んでいるのだということがわかる。
しかし、聞かずにはいられなかった。
「どう?」
もぐもぐと動いていた口が止まり、ごくりと喉が鳴る。
それから水を飲んで、天狐は一言だけ言った。
「ああ、美味い」
その一言で、フロガは肩の力が抜けた気がした。
少し張り詰めていたものが、緩んでいく感覚。
自然と口角が上がり、フロガは小さく息を吐いた。
「よかった」
フロガもスープを飲み進める。
天狐に美味いと言われたことで、はじめて自分でも美味しいと思えるような気がした。
食べ応えのあるコンソメスープは優しく腹に溜まり、オランデーズソースがかけられたポーチドエッグを割れば、ソースと黄身が綺麗に混ざり合う。
目でも美味しく、口に入れればまろやかで口当たりのよいオランデーズソースがベーコンの脂と溶け合う。
柔らかな酸味と、ピリッと辛い黒胡椒が黄身と脂のもったりとした舌触りとまとめてくれた。
「うん、美味しい。 料理の腕が鈍らなくて良かったよ」
それを聞いた天狐が鼻で笑う。
肯定も否定もせず、ただ黙々と食事を続けた。
天狐にとってはフロガと食事ができるのであれば美味くても不味くても構わないのだが、それを言葉にするほど野暮ではない。
満足気にしながら先に食べ終わったフロガに続いて、天狐は最後の一口を飲み込んだ。
「洗い物ついでに珈琲でも淹れてやる」
「いいの? ありがとう」
食べ終わった食器をシンクへ持っていき、湯を沸かす。
湯が沸くまで、天狐は食器を洗った。
そんな天狐を眺めながら、手持ち無沙汰になったフロガはカウンターの隅に置かれた新聞を取る。
なんとなく広げて紙面へ視線を落とした瞬間、不意に息が止まった。
一面に大きく載っているのは、自分と良く似た顔をした兄のクレヴォの写真。
最後に見たときよりも随分疲れた顔をして、記者から受け答えをしている様子が写っている。
記事には、ベルフが病気で急逝したことが書かれていた。
ベルフの死後に判明した違法果実の密売、そして密売に一部の貴族が関わっているという事実。
妙に細かに書かれているそれは、おそらくオフェリアから渡された資料をクレヴォが使えそうなところだけ各所にばら撒いたのだろう。
クレヴォはベルフの所業を恥じ、深く謝罪すると書かれていた。
記事の最後には「誠実な後継者」と擁護する声が大きい、と記されている。
この記事の書かれ方を見るに、どうやらクレヴォはうまく纏めたようだ。
密売に関わったという貴族達の首根っこも掴んでいるのだろう。
フロガはそっと息を吐き、新聞を畳んでゴミ箱へ放った。
それからすぐに珈琲が置かれて、隣に座った天狐が顔を覗き込んだ。
「どうしたんだ、フロガ」
「何が?」
天狐に目を合わせ、首を傾げてみせる。
大きな耳がぴくりと動いて、やや後ろへ倒れた。
「変な顔をしている」
「そうかな……いや、そうかも」
今度は天狐が首を傾げた。
訝しげに眉を顰ませるも、椅子へ座り直して紅茶を一口飲む。
そんな天狐の横顔を眺めながら、フロガも珈琲を飲んだ。
「クレヴォが、爵位を継いだらしい」
「ふうん。 ってことは、お前の親父が死んだのか」
「……そういうことだね」
一瞬、フロガの返事が遅れた。
天狐はなぜ、ベルフが死んだと決めつけたのだろうか。
爵位を継ぐのは死んだ時だけではない。 隠居という可能性もあるのに。
一つ思い浮かんだことがあるが、フロガはそれを口に出すのをやめた。
その沈黙から察したのか、天狐のふわふわと揺れていた尻尾がピタリと動きを止めた。
正面を見ていた琥珀色の瞳がゆっくりとフロガを捉え、伏せられる。
硬く結ばれていた唇が開きかけたとき、言葉を止めるようにフロガは天狐の手に触れた。
「良いんだ。 気にしてない」
天狐の瞳が揺れる。
また何か言いかけて唇を開いたが、少し考えたあとに閉じてしまった。
動きが止まっていた尻尾は、内側へ丸まっていた。
「……そうか」
ようやく一言絞り出した天狐の手を、フロガは軽く撫でてから解放した。
「さて、今日は久し振りに市場に行こうか。 来週くらいには再開したいし」
「もう少し休んでも良いんじゃないのか」
「十分休んだよ」
笑ってみせると、天狐は少し耳を後ろに倒したがまた上を向いて立ち上がった。
「そうか。 なら、着替えてくる」
飲み終わったカップをシンクへ持って行った天狐が、階段へと向かう。
後ろ姿が見えなくなった瞬間、フロガは胸の奥で小さな焦燥感を覚えた。
それを誤魔化すために、珈琲を一気に飲み干して息を吐く。
口の中に残る苦みと酸味が、焦る気持ちをほんの少しだけ逸らしてくれた。
「さっきは大丈夫だったじゃないか」
言い聞かせるように低く呟いて、席を立つ。
それからシンクでカップを洗った。
「フロガ、バッグは小さいのでいいか? まだ店用の食材は買わないだろ」
二階から天狐の声がして、フロガは安心感に包まれた気がした。
洗い終わったカップを置いて、階段のほうへ顔を出す。
「ああ、それでいいよ」
「わかった。 じゃあ、行くか」
寝巻きから着替え、耳と尻尾を隠した天狐が階段を下りてくる。
手には保冷効果のある買い物用バッグを持ち、ついでにフロガのカードケースを投げて渡した。
それをキャッチして、ポケットの中へ仕舞う。
「帰りにベーカリーへ行こうか。 そろそろプレートパンが並んでるだろうし」
「上出来だ」
天狐が口の端を吊り上げる。
尻尾が出ていたら、きっと忙しなく動いていただろう。
そんな様子を想像して、フロガは思わず満面の笑みを浮かべてしまった。
「なんだよ、その顔。ベーカリーに行きたかったのか?」
「ん-、そうかもね」
ヴァルムの扉を開けると、眩しい春の陽気に目を細めた。
こうして外に出るのは、帰ってきてすぐに市場へ行って以来である。
その時は、まだ肌寒くて冷たい風が吹いていた。
あまりの変わり様に少し驚いてしまったが、一度振り返って鍵をかけ、細い路地を広場へ向かって歩き始める。
そのまま後ろへ続いた天狐の手を取り、しっかりと握った。
突然のことに戸惑ったのか、天狐の指先が強張ったが、すぐにフロガの手を握り返して隣に並ぶ。
少し恥ずかしそうに頬を染めて、目を伏せる天狐はとても愛らしい。
「……広場に出るまでだからな」
「うん、わかってる」
掌からは、日差しよりも暖かな熱が伝わってくる。
フロガの胸の奥に残っていた不安が、その熱で溶かされていく気がした。
「なあ天狐。 いい天気だなぁ」
「ああ、そうだな」
フロガは繋いだ手を、少しだけ握り返した。
なんだか、手を離すのが惜しい気がしてきたのだ。
しかし、広場が見えてきたところで天狐の手がするりと抜けた。
先を歩き始めた天狐は、早くも帰りのパンをどこにするか探し始めている。
店の前を通る度にチラチラと目線を泳がせながら、何を買おうか考えているようだった。
「甘いのにするか……いや、昼食を兼ねた惣菜パンも良いな。 フロガ、お前は何が良いんだ?」
「あはは……帰りに寄るんだから、市場で買い物しながらゆっくり決めれば良いだろ」
「それもそうだな」
振り返って意見を求めた天狐だったが、くるりと前を向いて早足で歩き出す。
その拍子に長い金髪がふわりと揺れた。
春の陽射しを浴びる細い金髪は、まるで上質な金の糸のように煌めき、波打っている。
思わず見惚れそうになったところで、測ったかのように青い花びらがどこからか舞ってきた。
ついこの間まで黄色い花を咲かせていたはずの大樹が、青い花を咲かせているのだろう。
天狐に続いてベーカリーのショーケースを流し見れば、そこかしこにプレートパンが並んでいる。
道行くヒトの中には、青い花を胸に付けて、綺麗な衣装を着たヒトが目立った。
皆、大茶会に参加するのだ。
たった二ヶ月。
引き籠っていた二ヶ月間で、風景はこうも変わるのだ。
長い冬がいつの間にか明けていたことを、フロガはようやく知ることができた。
小さく溜息を吐く。
やはり、ヴァルムは早めに再開するべきだ。
意味のない不安など、抱えている場合ではない。
それよりも、目を向けるべきところは沢山あるのだから。
「天狐、やっぱり店用の食材も少し買おう」
「なんだよ、急に。 バッグの容量足りないんじゃないのか」
「昼だけの短時間だけ営業すれば大丈夫だよ」
天狐が怪訝そうに口を尖らせる。
渋々「勝手にしろ」とぼやくと、フロガの横に並んだ。
「俺のこと心配してくれてる?」
「……まあ、少しは。 だが勘違いするなよ、店の手伝いをするのが面倒なだけだ」
「あはは、大丈夫。 無理のない範囲でやる」
柔らかな春風が吹く広場を、二人で歩く。
どこからか舞ってくる青い花びらと、バターの溶けたパンの香りが風に乗って運ばれてくる。
ヴァルムの再開まで、あと少し。




