エリュプティオ⑦
「おや、催眠魔法が解除されたようです」
メロウラージュの名物である桃を使ったパフェをつつきながら、ミーティスが呟いた。
紅茶を飲んでいたリカルドは、特に驚く様子もなく淡々と本のページをめくっている。
「ということは、フロガ様が奥様に触れたのですね。 無事に再会できて良かったです」
「良いんですか?」
「あなたも諄いですねぇ。 私が仕えているのはエリュプティオ家なんですよ。 フロガ様の幸せも私の願いの一つです」
そういえばそうだった、とミーティスが頷く。
それから再びパフェへ集中した。
ラディエンへ帰る前に食事をしようと言い始めたのはリカルドだ。
夜もすっかり更けたがメロウラージュの中心は酒場や飯屋の営業が続いている。
食事を済ませたあと、デザートを食べたいと言い始めたのはミーティスである。
「夜パフェってやってみたかったんですよ。 中々背徳感があって良いですね」
「そうですか」
「帰るのやめます?」
満腹になったので帰るのが面倒くさくなったのか、ニコニコと悪びれもなく提案してくるミーティスを一瞥したリカルドは、軽くため息を吐いた。
天狐が見つかり、フロガの催眠が解除された今、急いで戻る必要はない。
ただ、ベルフはきっと早く帰ってこいと言うだろう。
「旦那様は早く帰れと仰るはずです」
「ではこう考えましょう。 私たちが遅く帰ることで、フロガ様は何の滞りも無く帰宅する事ができます。 私たちが早く帰ってしまっては、二人を邪魔しろと旦那様が命令するはずですから」
「フロガ様の邪魔をするつもりはありません。 ほら、帰りますよ」
ミーティスは眉をひそめた。
そして察した。
この男はフロガを見送りたいから早く帰ろうとしているのだと。
「わかりました……」
食べ終えたパフェのグラスが悲しみに揺らぐ。
満腹で怠い体を引き摺りながら、ミーティスはリカルドと共に夜行馬車の乗り場へ向かった。
*****
眩しい朝日が重厚なカーテンを滑り抜ける。
太陽が上がりきったのか、部屋の中が明るくなってきたのを確認して、フロガはゆっくりと身を起こした。
隣で眠る天狐は気持ちよさそうな寝息をたてている。
長い睫毛が影を作り、幾分か細くなった肩は緩やかに上下していた。
頬にかかる金色の髪をそっと直してやると、大きな狐耳がピクリと動き、重たそうに瞼を開いた。
「ごめん、起こしちゃったね」
琥珀色の瞳がフロガを見上げる。
やや沈黙が流れたあと、天狐は軽く息を吐いた。
「寝てないのか」
「寝たよ」
「寝た顔じゃない」
苦笑いをするフロガの肩を、天狐が軽く叩く。
その手を取って抱き竦めれば、甘い香りが広がった。
このままもう一眠りするのも悪くない。
──そう思ったのも束の間、部屋の扉がノックされた。
ここがヴァルムではなく実家であった事を思い出したフロガは、ゆるりと身を起こした。
「フロガ様、朝食のお時間です」
これは昨日会ったフットマンの声だ。
名前はガルディアだったか。
フロガは寝不足の頭の中で顔を思い出そうとしていた。
「ああ……部屋で食べるから持ってきてくれ。 二人分頼むよ」
「承知致しました」
顔を思い出す前にガルディアは扉の前からいなくなってしまった。
──ガルディアはメイドへ指示を出したあと、ダイニングルームへと向かった。
元からダイニングルームにいたクレヴォ、トリア、そして今しがたやってきたベルフが席に付いて、各々食事をとっている。
ベルフへ朝の新聞と手紙を渡そうとしたとき、その機嫌の悪さを察した。
「ガルディア、フロガはどうした」
「本日は自室で召し上がるそうです」
「あの雌狐を外に出していないだろうな」
「はい。 フロガ様には、女が暴れるので手を付けられない。 と伝えました。 それと、こちらは今朝届いたリンドール様からのお手紙です」
「ふん、ようやくか。 根暗の錬金術師め」
ベルフが満足そうにガルディアから新聞と手紙を受け取る。
その目の先でクレヴォがガルディアに向って小さく頷いたので、ガルディアも軽く頷いてみせた。
それを知らずに、ベルフが手紙を広げる。
「あの根暗、三日後に来るそうだ」
言って手紙を投げ捨てる。
それを回収し、ガルディアは「承知致しました」と一言答える。
続いて、ベルフは新聞を広げた。
「リンドールといい、フロガといい、自分勝手には困ったものだ。 いい気になりおって……」
「父さん。 お言葉ですが、昨日の事は私も理解できかねます。 どういうつもりであんな事をさせたんですか?」
クレヴォの言葉でベルフの手が止まった。
ガルディアはそっと後ろへ下がり、扉の横へ付いて気配を消す。
きっとまた、雷が鳴り響く。
「……催眠魔法が解けたときのための保険だ。 あれだけ溺愛していたペットを手に掛ければ、もう二度とここを出ようなどとは思うまい」
ベルフは一旦怒りを内へ押し込んだようだ。
淡々と語ったあと、じろりとクレヴォを睨む。
しかし、クレヴォは眉を顰めるだけであった。
「……正気ですか。そんなことをしたら、フロガが狂ってしまうのでは」
「なら、もう一度催眠魔法をかければ良いだけだろう」
「お待ち下さい、お父様。 催眠は負担の大きい魔法です。 何度もかけ直すなんて事をしたら、フロガお兄様の精神が持ちませんわ。 廃人になってしまう可能性だって……!」
まだ状況を理解していないトリアだったが、口を出さずにいられなかったようだ。
魔法の事ならきっと父親や兄よりも詳しい。
だからこそ、トリアなりの善意で口を挟んだつもりだったのだが、どうにもそれがいけなかった。
「ならどうやってフロガを足止めする? そもそもお前たちが役に立たないからこういうことをせざるを得なくなったんだぞ!」
雷が落ちた。
額に血管を浮かべたベルフが、食器の並ぶテーブルを拳で叩きつける。
怒声と共に食器が鳴り、トリアは驚いて目を見開いた。
そんなトリアを尻目に、ベルフはまずクレヴォを睨み付けた。
「クレヴォ。愛人を作れと言った私の言葉を何故無視した? 子供がいなければどうにもならんだろう」
「ですが、養子という選択も」
「お前はすぐそうやってフロガに影響される。 自分に都合の良い選択ばかりして、これだからお前はいつまでたっても役立たずのままなんだ」
クレヴォが唇を硬く結ぶ。
「役立たず、ですか」
同じ紫紺色の瞳は、ベルフを冷たく見据えて伏せられた。
地下室でフロガがしていた眼と同じもの。
ベルフは思わずクレヴォから視線を逸らし、トリアを睨み付けた。
見慣れた怯えの色に、少しだけ安堵して優越感を得る。
「トリア、お前もそうだ。 そもそもエリュプティオに女はいらないと私は何度も言っている。 早く出て行け」
「わ、わたくしは……お兄様の、役に立ちたくて……」
「役に立ちたいなら消えろ」
怯えていた瞳から、大粒の涙が溢れて伏せられる。
女という生き物はこうしてすぐに泣くから嫌いだ。
感情で物事を考えて行動し、周りを振り回すのだ。
ベルフの妻もそうだった。
「私はエリュプティオにはいらない人間なの……?」
「そうだと何度も言っているだろう。 お前がせめて男ならこんな面倒な事にならなかったんだがな」
トリアの涙が、一瞬止まった。
その一瞬の間、紫紺の瞳がベルフを捉えてフロガやクレヴォと同じ目をした気がした。
頬から落ちた雫が敷き詰められたカーペットへ染みる前にトリアが立ち上がる。
クレヴォがフォローの言葉を口にする間もなく、再び溢れ出した涙と共にトリアはダイニングルームを早足で飛び出して行ってしまった。
「父さん、言って良い事と悪い事があります」
「うるさい! フロガの真似事しかできない能無しは黙っていろ!」
「……そうですか。 もう、俺の意見はいらないのですね」
クレヴォが低く答える。
しかしその声のトーンも、冷え切った瞳にすら、ベルフは耳と目を背けていた。
ガルディアを呼びつけ、いつものように外出の準備をする。
きっとリンドールが来る三日後まで帰ってこないだろう。
クレヴォは冷めた目でベルフの背中を追う。
よく見れば、父は昔に比べて随分老いた。
その分、言動も老いてしまったのだ。
(やっぱり、フロガの言う通り父さんはもう駄目なのかもしれない)
──愚行。
フロガはそんな一言を投げつけた。
フロガなりに父親の行動に失望したのだろう。
今のクレヴォと同じだ。
「……ワインを持ってきてくれないか」
近くにいたフットマンに声をかける。
誰もいなくなったダイニングルームで、クレヴォはゆっくりとワインを流し込んだ。
*****
刺繍入りのテーブルクロスの上には、金縁の食器に盛られた数種類の焼きたてパンが置かれている。
パン以外にもたくさんのフルーツと、黄金色に輝くスクランブルエッグ。
ハムとソーセージは自家製らしい。 ハーブが練り込まれたソーセージはパツパツに張り詰めていて、フォークを刺せば肉汁が溢れるだろうと想像できる。
他にも朝から目が回りそうな程の品数であるが、それらを丁寧に少しずつ盛り付けて敷き詰めているフロガを、天狐はじっと見つめていた。
「……フロガ、もういい」
「え、そう? じゃあ欲しくなったら言って。 食べようか」
天狐の向かいにフロガが座る。
銀のスプーンを手に取り、ゆっくりとスープを口へ運んだ。
天狐も同じようにスープを口に入れる。
透き通ったオレンジ色のコンソメスープは口当たりが軽やかでスルスルと胃へ運ばれて朝でも飲みやすい。
「ところで、昨日言ってた夜会ってのはいつあるんだ?」
「三日後。 ドレスの仕立てが間に合うか微妙だよな。 ああ、それと、夜会までなるべく俺から離れないようにしてほしいんだ」
「……心配なのはわかるが、指輪も外れた事だし結界程度ならこの部屋に張れるぞ」
驚いたフロガが顔を上げる。
「もう魔力回復したの?」
「完全じゃないがな。 だからもう張った。 これで夜も眠れるだろ」
部屋を見渡すと、うっすらと魔法の膜が見える。
侵入者が入ればすぐに気付く事ができるし、必要なら天狐が燃やすなりフロガが斬るなりできるのだ。
「これも渡しておく」
テーブル越しに天狐が何かを投げて寄越す。
慌ててキャッチして手を広げると、琥珀色の魔石が手の中で朝日を反射した。
「なに?」
「私の魔力を込めておいた。 三日程度なら、それ持っておけば催眠魔法なんてかけられないはずだ。 ポケットにでもいれておけ」
だから無闇矢鱈に心配するな。
そう言いたいのだろう。
「わかった。 ありがとう、天狐」
天狐なりに気を使ってくれているのが嬉しくて、フロガは朝食をとりつつもじっとその魔石を見つめていた。
ゆっくりと時間が過ぎていく。
たくさんあった朝食がある程度無くなって、天狐の手が止まってしばらく経ったところでフロガは食事を下げた。
食後の珈琲を飲み干し、ようやく着替えを始める。
「ちょっと、妹の部屋に行ってくる」
「ああ、私はここにいる」
兄と同様に拗らせてそうな妹。
天狐はそんな事を思ったが、あえて口には出さなかった。
ただし後腐れないように話はしておくべきだと言ったのだ。
それはフロガも思っていたようで、こうして行動に移すのは早い。
部屋を出て、長い廊下を歩く。
階段を降りて、また歩いた先。 ちょうど、つきあたりにトリアの部屋がある。
まわりの音を吸い込むような灰青色の扉。
表面には細やかな銀の彫刻が施され、ユリの花が左右対称に咲いている。
女性らしい華やかな彫刻だが、妙な冷たさを感じる扉だ。
軽くノックをしてみるが、反応はない。
「トリア。 少し話をしたいんだ」
声をかけるが、やはり反応はない。
出かけているのだろうか。
近くのメイドかフットマンに聞いてみようと踵を返したところで、自分と同じ顔が後ろにいた。
「……クレヴォ」
「フロガ。 どうした? 部屋で飯食ってたんじゃないの」
そう言うクレヴォからは酒の匂いがする。 これはワインだろう。
目線も言葉も姿勢もはっきりしている。 フロガと同じ体質ならクレヴォはザルだから、おそらく大して酔っていない。
「トリアと話をしようと思って」
「俺もだ」
フロガから視線を外したクレヴォがトリアの部屋を眺める。
見れば見るほど同じ顔だ。
顔だけではない。 背格好も声も仕草すら意図せず似ることがある。
まるで鏡でも見ているかのようだが、クレヴォもフロガも似ているだけの別人なのだ。
「トリアは部屋にいないのか?」
「さあ。 さっきまではダイニングルームにいたんだけど……親父がまた色々文句を言っててさ、トリアが出て行ったから部屋かと思って来てみたんだ」
ということは、部屋に閉じこもっている可能性がある。
酷い事を言われて傷付いているのなら、今はそっとしておいた方が良いのかもしれない。
「ま、フロガが訪ねて出てこないならしょうがないな……暇ならちょっと一服しないか」
クレヴォがシガールームの方を指差す。
特に断る理由は無い。
天狐も部屋に居てくれればそれで安心できる。
フロガは軽く頷いて、クレヴォと共にシガールームへ向かった。
──重厚な扉を開けて、シガールームへ入る。
クレヴォが座るのを待ってから、フロガは少し離れた場所にあるソファへ沈んだ。
フットマンが酒と葉巻を持ってきたタイミングでヒト払いをして、お互い無言で酒を飲む。
葉巻を口の中で燻らせ、吐いた煙を見つめ、やがて灰が長くなってきた頃にようやくクレヴォが口を開いた。
アルコールが回ってきたのだろう。
「最近ネズミがうろついてるんだ」
「……ネズミ?」
「ああ……いつだったか、お前が食堂をやってるときにもうろついてたけど、そのときとは違う種類だった」
オフェリアの使者だとすぐに察した。
それを誤魔化すように黙っていると、クレヴォが再び口を開く。
「エグランタインの者だって事はわかってる。 お前が動かしたんだろ。 あの女と本当に婚約するつもりか? それとも、自分にかけられた催眠魔法に気付いた?」
「……なんだ、全部わかってて言ってるんじゃないか」
クレヴォが同じ顔でにこりと笑う。
フロガも笑ってみせると、酒で口を潤してからソファを移動し、クレヴォへ向き合った。
「その様子だと催眠が解けたみたいだな。 やっぱり天狐がトリガーだったか」
「ヒトの奥さんを呼び捨てにするなよ……そうだな、お前の言う通りオフェリアさんに頼んで家の事を調べてもらってる。 催眠が解けたから、もう必要ないけど」
「いや、必要だ。 うちの事を調べてるって事は、いずれアレに気付くだろ」
アレというのは、ベルフが個人的に捌いていた違法果実の事だ。
見つからないように隠してはいるが「完璧」を自称するオフェリアがそれを見過ごすとは思えない。
エリュプティオの汚点というべきそれを、クレヴォはあえて晒そうというのだろうか。
「気付かせてどうするんだよ」
「オフェリアはきっとご丁寧に全てを記載した調査表をお前に渡すはずだ。 それを一部公開する」
「……なるほどね。 公開して、父さんから爵位を剥奪するつもりか」
「ああそうだ。 いつまでも父さんに頼ってもいられないだろ? 父さんには何処か遠くでゆっくり過ごしてもらって、家の事は俺がやる。 お互いにとって良い事だと思わない?」
「ついでにエリュプティオの印象をクリーンにできる」
「そういうこと」
いつバレるかわからない汚点を抱えるより、いっそ晒してしまって一からやり直したほうがやりやすい。 ついでに邪魔な父親も排除できる。
クレヴォのやりたいことは大体わかった。
そしてそれを否定するつもりもない。
もし、フロガだったら同じ事をやっていたし、なんなら天狐を使って殺そうとすらしていた。
やはり双子というものは、考え方まで似てしまうものなのだろうか。
「……俺は安心して家に帰れるよ」
「そうだな、ここはもうお前の家じゃない。 嫁さん連れてさっさと帰れば。 部外者にウロウロされると邪魔なんだよ」
「ヒトの奥さん攫っといて良くそんな事が言えたな」
「攫ったのは俺じゃないし、なんなら地下から出したの俺なんだけど」
「ああ、その点は一応感謝してる」
クレヴォが面白くなさそうに顔を背け、酒を一口飲む。
少しの沈黙のあと、再びフロガへ視線を向けた。
どこか戸惑うように揺れた瞳がフロガを見つめたまま、絞り出すように低い声が出される。
「俺は、ずっとお前が嫌いだった」
「……そう」
「俺と同じ顔でヘラヘラ笑って……俺と同じなのにお前ばかりが評価されて、皆がフロガフロガって言っていた」
「俺とお前は違うよ」
「ああ、そうだ! 俺とお前は違う。 なのに、周りはいつだってお前と同じである事を求めてきた!……俺はずっと、惨めで……お前が…………羨ましかった」
一度吐き出したものは止まらない。
絞り出した低い声はだんだんと高くなっていき、やがて視線を下へ逸らしたクレヴォは頭を抱えて髪を乱した。
フロガはじっとクレヴォを見つめる。
──まるで自分を見ているかのようだった。
大切にしていた場所がなくなったとき、ああやって頭を抱えていた。
クレヴォのように割り切って考えることができたら、とも思っていた。
羨望の念があったのは、フロガも同じだったのだ。
「クレヴォ、俺はただの自分勝手な偽善者だ。 お前のように家や領地のヒトたちの為に動く事ができなくて、あげく全部捨てて逃げ出したんだ……最低な奴だよ」
「……それでも、俺はお前みたいになりたかった」
「俺とお前は違うんだろ」
クレヴォが顔をあげる。
今にも泣き出しそうに目の周りを赤くしたクレヴォに対して、顔色を変えないフロガ。
いつも見分けのつかない二人だったが、今はまるで違う顔に見えた。
フロガはさらに続ける。
「それとも……俺がいないと何もできない?」
クレヴォと同じように眉を下げてみせると、クレヴォは眉間を寄せて唇を噛んだ。
そうしてまた、低く唸る。
「違う、お前なんていらない」
「なら、羨ましがる必要も俺と同じである必要もないじゃないか。 お前はエリュプティオの当主として、俺は食堂のマスターとして、それぞれ違うことをやればいい」
「……そうだ」
クレヴォがテーブルの上のグラスを取る。
揺れた琥珀色の液体が暗い灯りを歪ませ、表面に映り込んだ己の顔が揺れて乱れた。
それを一気に飲み干す。
アルコールの熱が喉を抜け、胸を焼き、心地の良い余韻が残った。
「俺は俺のやることをやる。 お前も親父も必要ない。 俺のやり方で家と領地を守る…………でも、そんなこと俺にできる?」
「ああ。 お前ならできるよ」
心の底からそう思ったから口に出したのだが、クレヴォはやや目を細めて顔を背けてしまった。
空になったグラスをテーブルに置き、立ち上がってフロガを見下ろしたクレヴォは、先ほどのような情けない顔をしていなかった。
「当たり前だ。 お前みたいな甘ちゃんとは違うんだよ」
「昔からお前のほうが冷静で現実的だったもんな」
「それに、絵や楽器も俺のほうが上手かった」
「……それは言うなよ」
フロガが苦笑しながら立ち上がって目線を合わせると、クレヴォも少し笑って肩をすくめた。
冷笑でも嘲笑いでもない、柔らかな笑いだ。
「俺はお前の兄貴だからな。 忘れてるだろうけど」
「忘れてなんかないよ。そうだ、今度俺のやってる食堂に来てみない? サービスするぞ」
「貴族が平民の食堂なんか行くか」
クレヴォが扉のほうへ向かう。
その後ろを歩き、開いた扉から差した光に目を細める。
間接照明の柔らかな光から一転、廊下は明るく照らされていた。
「じゃあな、フロガ。 夜会が終わったら、もう二度と帰ってくるなよ」
フロガが口を開くよりも早く重い扉は閉まり、クレヴォの背が消える。
僅かに流れ込んだ風がカーテンを揺らし、薄暗い部屋に眩しい外光が射した。
扉の向こう側では革靴の音が遠のいていく。
その音を聞きながら、フロガは小さく呟いた。
「さよなら、兄さん」
フロガもまた、部屋を出ていく。
──同時に、細く瞬いていた葉巻の火が沈んだ。
立ち上る煙は薄くほどけ、淡いランプの光に溶けてゆく。
やがて煙が立たなくなったころ、空気は葉の香りだけを残して静かに冷めていった。




