エリュプティオ⑥
ガルディアから受け取った鍵を使って、鉄格子の扉を開ける。
相変わらず表情を変えない天狐が見上げてきたので、クレヴォは薄く笑ってみせた。
「あのフットマンが扱いやすい奴で良かったよ」
言いながら、手錠と足枷の鍵を外す。
重かった手足が久し振りに自由となった感覚に、天狐は少しだけ息を吐いた。
「あの男、本当に執事にしてやるつもりか?」
「え? あはは……俺はそんな事一言も言ってない。 うちの執事はリカルドだけ。 リカルドもそう思ってるから、親父について行くことはないよ」
「……やはり双子だな」
ヒトの良さそうな顔をして懐に入り込む術はフロガと同じだ。
決定的に違うのは、フロガはただのお人好しで、クレヴォは計算したうえでお人好しを演じているというところだろう。
「さて、立てるか? とりあえず俺の部屋で身なりを整えようか」
ゆっくりと立ち上がる天狐を見て、クレヴォが歩き出す。
階段を上がり、忌々しい地下室からようやく抜け出すと明るい照明に目を細めた。
構わず進むクレヴォの後ろに付き、屋敷の中をぺたぺたと歩く。
柔らかな絨毯の上は地下の石畳とは違って、歩きやすかった。
──やがてクレヴォの部屋の前につく。
大きな扉を開けて中に入るクレヴォに続くと、ふわりと爽やかな花の香りが吹き抜けた。
「おかえりなさい、クレヴォ様……そちらは?」
花の香りの先にいたのは、聖母のような笑みを浮かべた女。 口ぶりから察するにクレヴォの妻だろう。
手に持っていた紅茶を置き、透けるような白い髪を揺らして天狐を見た。
「こいつはフロガの嫁。 ほら、この前話しただろ」
「あらあら、まあ……ごきげんよう、天狐さん。 フォリエンヌと申します」
優雅にカーテシーをするフォリエンヌに、天狐は軽く会釈をして一歩下がる。
美しく気品があり、暖かな笑みを浮かべているフォリエンヌだが、その黒い瞳の奥に底知れぬ何かを感じた。
──あまり関わらないほうが良い。
ただの勘だが、天狐の勘はよく当たる。
一歩下がって警戒する天狐に、フォリエンヌは優しく笑いかけた。
「フォリー、こいつの身なりを整えてやってくれ。 俺は一服してくる」
「かしこまりました」
早々にクレヴォが部屋から出て行く。
二人きりにされて気まずくなった天狐が視線を逸らしていると、フォリエンヌの合図でどこからともなく三人のメイドが現れた。
「まずはお風呂かしら? それから御髪を整えて、香油はミュゲにしましょう。 ドレスはわたくしのものを……」
丁寧に指示を出し終わるとメイドがそれぞれの場所へ散っていく。 一人は天狐を連れて浴室へ、一人はヘアオイルの用意など、もう一人はクローゼットへ向かった。
部屋に備え付けられている浴室は、こぢんまりとしているものの、高い天井やアイボリー色のタイル床、薄い花模様の絨毯と猫脚の優雅なバスタブ、と調度にぬかりは無かった。
窓際に置かれている花々の柔らかな香りが、バスタブからあがる湯気に乗って運ばれてくる。
どこまでも心地良く整えられている空間ではあるが、天狐は警戒を緩めずに足を進めた。
「お手伝い致します」
メイドがカーテシーをして天狐を見やるが、無言で手のひらを出し、拒否をした。
察したメイドが「では、こちらをどうぞ」とバスタオルを差し出したので、それを受け取りバスタブへ近付く。
白い花びらが浮かぶバスタブは入るのを躊躇したが、大人しく湯に浸かる。
良い香りのお湯は丁度よい温度だ。 思わず深い溜息を吐き、ゆったりと肩まで体を沈めた。
こうして気持ちが落ち着いてくると、考えることはフロガのことである。
あの地下室で再会したフロガは、何かしらの魔法にかけられているとすぐにわかった。
しかし、魔力が無い天狐にはそれが何の魔法なのかわからなかったのだ。
(この指輪さえ外せればフロガにかかってる魔法がわかるはずだ。 催眠か洗脳か……どちらにせよ厄介だ。 解除に時間がかかるな)
指輪に触れられるのはエリュプティオの人間のみだろう。
昔付けられたものと同じだ。
ベルフは対象外として、残りはフロガ、クレヴォ、トリアの三人。
クレヴォとトリアはおそらくフロガをこの家に引き留めておきたいだろうから、きっと指輪を外すことを拒むだろう。
今後距離が近くなるであろうフロガが一番可能性が高い。
(フロガがこいつを外してくれるとは思えない)
初めて会ったときがそうだった。
指輪を外してくれるまで、一年かかったのだ。
(仕方が無い)
今回もそれぐらいかかるだろうか。
それとも、今のフロガならもっと時間が必要か。
とにかく、何かしら天狐を利用しようとしているフロガの考えに乗りつつ、この指輪を外すことを条件として出してみるしかない。
(あいつの考えている事なんか大体想像がつく。 どうせまた馬鹿な提案でもしてくるんだろう)
──ならばそれを叩き返してやる。
浮かぶ花びらを握りつぶす。
掌の中でくしゃりと形を失ったそれが、湯の中へ沈んでいった。
*****
湯から上がると、天狐は用意されたローブを羽織り、鏡台の前へと案内された。
先程のメイドと入れ替わりで別のメイドが後ろに立ち、てきぱきと髪や尻尾を丁寧に拭き、櫛を通し始める。
タオルで水気を取ったあとは魔具の風をあて、仕上げに香油を手に取り、指先で髪を整えていく。
天狐はただ黙って鏡の中を見つめていた。
視線の先には自分の姿と、その背後で動くメイドの手。
つい先程まで薄暗い地下に閉じ込められていたとは思えないほど、穏やかで優雅な時間が流れている。
「とても美しい髪ですわね。 瞳の色も素敵だわ」
不意に声が響く。
僅かに眉を動かした天狐は、視界の端にフォリエンヌを捉えた。
いつの間に現れたのだろう。
「わたくしね、美しいものってとても好きなの」
「……嫌いなやつなんていないだろ」
「そうね。 でも、何が美しいかなんて誰にもわからないものだわ」
微笑みを浮かべたままの黒い瞳が、どこか遠くを見ている。
底の見えない黒目がちの瞳。よく見てみれば、瞳孔は山羊のように横長であった。
天狐はその目をあまり見ないようにして、視線を逸らす。
「私に話を聞いて欲しいのか?」
「察しがよろしくて助かりますわ。 この屋敷のヒトはみんな無口で……クレヴォ様しか話し相手がいないの」
「そうか」
浴室にいたメイドが椅子を持ってくる。
天狐から少し離れた位置に置くと、フォリエンヌはそこへ座ってゆっくりと話を始めた。
「クレヴォ様、とてもお優しいでしょう」
「外面だけな」
「ええ、きっとフロガ様の真似をしているのね。 フロガ様に初めてお会いしたとき、確信しましたわ」
意外な台詞に天狐は少しだけ驚いた。
フォリエンヌは続ける。
「実際のあのヒトはちょっとだけ臆病で、ちょっとだけ我儘……でも優しいのは本当よ。 フロガ様ほど、みんなに平等に優しい訳ではなくて、冷酷なところもあるけれど」
「フロガは優しいんじゃなくて、自分勝手なだけだ」
「あらそうなの? でも、そういう所も含めてフロガ様を愛しているのでしょう」
思わずフォリエンヌの顔を見る。
鈴を転がしたような笑い声を上げたフォリエンヌは、とても楽しそうだ。
「わたくしも、クレヴォ様の全部が大好き。 いつもとても良い音を出してくれるわ」
「……音?」
「ええ、音がするの。 何かに傷ついたとき、大切にしていたものが壊れたとき……とても美しい音よ」
「……聞いたことがないが」
「わたくしには聞こえるの」
ヒヤリ、と頭の先から冷たいものをかけられた気がした。
香油だろうか。
おそらくそうだろう。
そう思うことにして、天狐はフォリエンヌを見ないままメイドの動く手を眺めた。
「ねえ、天狐さん。 わたくしね、以前、子供がいたのよ」
唐突な告白だった。
はるか遠くを思い出しているように空を見上げ、優しく微笑んでいる。
手元は何かを抱くように持ち上げられていた。
「とてもちいさくて、やわらかくて、天使みたいな可愛らしいわたくしの子供……でも、すぐに冷たくなってしまったわ」
ようやく憂いの感情が見えたと思ったが、フォリエンヌはすぐに口許へ微笑みを浮かべた。
「あのときのクレヴォ様は、とても美しい音だった。 透明感があって、それでいてキシキシと裂けてしまいそうな、なんともいえない音……あんなに美しい音、他には知らないわ!」
どこか愉悦に満ちた声。
楽しそうに上がる口角。
しかし唐突に、フォリエンヌの口許から笑みが消えた。
「でも、わたくしの音は聞こえなかった。きっと壊れるものがなかったのね」
質問なのか、独り言なのかわからない。
しかしその声は、今まで聞いていた声からは想像できないほど淡々としていて、まるで感情を感じられなかった。
天狐が黙っていると、フォリエンヌは再び微笑みを浮かべた。
「あなたが壊れたら、フロガ様はどんな音がするのかしら」
フォリエンヌの小さな呟きと同時に天狐の耳元で魔具を畳む音が響く。
声はその音にかき消されていた。
「……なんだ?」
「天狐さんに似合いそうなドレスをいくつか用意したのよ。 準備が出来たらクローゼットに案内させますわ」
椅子から立ち上がり、フォリエンヌが天狐の横へ立つ。
深くカーテシーをして、にこりと笑うと静かに部屋を出ていった。
その微笑みは何処か自嘲を含んだような、今までとは違う笑みであった。
*****
フォリエンヌの用意した衣装は、柔らかな白地のドレスだった。
肌を覆う布は滑らかで肌触りがよく、全身をしっかりと包んで露出が少ない。
腕の透け感があるシフォンはふわふわと揺れ、ミルクのような淡い白色の生地には、胸元や裾に銀糸で刺繍が施されていた。 光の加減で浮かび上がるそれは、なんとも上品である。
「とても良くお似合いよ。 そちら差し上げますから、持って帰ってくださいね」
「まだ帰れると決まった訳じゃないがな」
自虐気味に言ったつもりだったが、フォリエンヌはただ朗らかに微笑んでいた。
話し相手ができて嬉しいのかもしれないが、その真意はやはり不明である。
「きっと帰れますわ」
フォリエンヌは天狐のドレスの袖を優しく整えながら、まるで祈るように言う。
「今日はお話できてとても楽しかったわ……ありがとうございます、天狐さん」
カーテシーの所作は優雅で、微塵の狂気も感じさせない。
だが天狐は、胸の奥にうっすらと残る不穏な違和感を拭いきれなかった。
扉の向こうから、軽いノックの音がする。
「終わったか?」
開いた扉の隙間からクレヴォが顔を出す。
天狐の様子を見て察したのか、早く行こうと言わんばかりに大きく扉を開けた。
「また遊びにいらしてね、天狐さん」
「さあ……どうだろうな」
扉が閉まる。
歩き出したクレヴォの後ろを、天狐は黙って付いていった。
ドレスの裾が絨毯の上でささやかに音を立てる。
入浴後にかけられたミストの香りがまとわりつき、胸元の刺繍がきらきらと淡く浮かぶ。
そんな天狐を一瞥して、クレヴォはぽつりと言った。
「フォリーはセンスが良いだろ。 優しくて包容力もあるし、俺には勿体ないくらい良い奥さんだよ」
そう言ってふっと目を細めたその横顔は、どこか夢を見るようにやわらかい。
こういう顔をしていると、本当にフロガそっくりだ。
クレヴォはまた独り言のように続ける。
「俺の事を一番理解しているのは、フォリーだけなんだ。 いつも傍にいてくれて、俺を支えてくれる」
「……そうか」
クレヴォはきっと、心の奥底からフォリエンヌを信頼しているのだろう。
フォリエンヌも心の底からクレヴォを愛しているが、二人の愛の形には大きなズレがある。
それがうまい事噛み合って、融合しているのだ。
天狐は余計な事は言わず、黙っていることにした。
「ああ、そうだ。 フロガのやつ、記憶は戻ってないけどお前に興味があるみたいだな」
「興味、ね」
「悪くないことだよ。 無関心よりずっといい」
その声から、わずかににじむ執着を天狐は聞き逃さなかった。
フロガのこととなると、この男の声色はどこか熱を帯びる。
家出をされて手紙の一つも貰えなかった自分と、記憶を失ってもなお、興味を持たれる天狐を比べてしまったのだろう。
それはそれで、哀れな男でもある。
「ここがフロガの部屋。 うまく催眠が解けると良いな」
「お前はそれでいいのか?」
クレヴォが薄く笑う。
フロガと同じ顔で、フロガと違う笑い方をして、部屋の扉へ視線を移した。
「当たり前だろ、いない方が俺にとって都合が良い。……邪魔なんだよ、あいつ」
「その割には慕っているようだが」
「慕ってなんかいない。 ほら、さっさと行くぞ」
クレヴォが部屋の扉を叩く。
「どうぞ」という返事と共に重い扉を開け、クレヴォは天狐の背中を押した。
「あれ、クレヴォ。 お前が連れてきてくれたんだ」
「親父がごねてたからな。 感謝しろよ」
「ああ、ありがとう」
少し驚いているフロガと軽く会話を交わし、クレヴォは早々に部屋を出た。
続けて、軽食の準備をしていたメイドも出て行くと、部屋の中はフロガと天狐の二人だけになる。
「どうぞ、座って」
促されて、フロガの向かいに座る。
アンティーク調の柔らかな椅子に身を預け、目の前のテーブルに並ぶ軽食を眺めた。
紅茶にクッキー、サンドイッチやタルト、フルーツの盛り合わせ、色々なものがところ狭しと並べられている。
それらを一周見回してから、天狐はフロガを一瞥した。
目が合って、フロガは軽く微笑む。
この微笑みは、よく客に向けているものだ。
いつも天狐に向けている笑みとは、少し違う。
だから、本当に自分のことを覚えていないのだと、天狐は確信した。
確信してから、急に胸が締め付けられるような感覚に襲われて、勝手に耳が垂れ下がる。
「大丈夫?」
そんな天狐の様子を察したのか、フロガが心配そうに小首を傾げた。
この顔も、いつもとは違う顔なので本当に心配してるわけではないのだろう。
「ああ」
「良かった。 それで早速だけど、君の名前は?」
「……天狐」
「てんこ。天狐……やっぱり知らないな。 私は君に会ったことあるのかな」
「そうだな」
名前を聞いたところで、何一つ思い出すことはないようだ。
当然といえば当然だろう。
こんな簡単な単語一つで催眠が解除されるはずがない。
考える素振りをして斜め上を見ていたフロガだったが、やがて再び天狐に向き直って人好きな笑顔を浮かべた。
「覚えて無くてごめんね。 とりあえず、食べなよ。その様子だと、碌なものを与えられてなかっただろ? 食べながら話をしよう」
「いらない」
「食べ物に薬でも盛られてた? ま、あのヒトがやりそうなことだ」
フロガが紅茶を一口飲み、果物をつまむ。
それから自分の飲んだ紅茶を天狐に渡した。
「ほら、何も入ってないだろ。 私は別に君に何かしようと思ってここに連れてきた訳じゃない」
「お前は私が変だと思わないのか」
「変って何が?」
「……殺しても死なないんだぞ。 普通、バケモノだとか言って遠ざける」
出会ったときから、フロガは天狐を避けるようなことはしなかった。
危険人物だとは思っていたようだが、突き放すこともせずに世話を焼いたのだ。
出会った頃と状況は違うが、天狐が得体の知れない化け物であることに変わりはない。
それなのに、あの頃と同じように接してきたフロガが不思議だった。
記憶のない今なら、フロガの考えていた事が少しはわかるのだろうか。
天狐が探るように目線をあげると、フロガは少しだけ笑った。
「あはは、そんなこと。 私は君のことをまだよく知らないし、断片的な情報だけで判断しないよ。 それに、不老不死は君の長所だ。 もっと誇って良い」
「私がお前を殺すかもしれないとは思わないのか」
「私を殺して、君に何か利益があるのか? そんな単純な思考だったら、今殺してるでしょ。 それよりも、私を利用したほうがずっと良いんじゃないかな?」
「……記憶がなくてもお前らしいな。とっとと話を始めろ。 どうせ碌でもないこと考えてんだろ」
フロガらしい。
自分を利用しようとしている相手を取り込んで、うまく使う。
相手は使われている事にすら気付かないまま、掌の上で転がされるのだ。
それに気付かない天狐ではないが、天狐の見てきたフロガと決定的に違うのは自分以外の者を「駒」としか見ていないところだ。
フロガが今まで優しさというもので抑えて包み込んできたあらゆる物が溢れ出てしまっている。
それは逆に、天狐にとって非常にわかりやすい考え方だった。
このフロガなら、うまく使う自信がある。
そんな天狐の心の内を知ってか知らずか、フロガはまたにっこりと笑った。
「よくわかったね。 君は賢い。そう、私は今、碌でもないことを考えている」
フロガが自分の紅茶を一口飲む。
そして、天狐を見た。
「さっき、私の後ろにいたヒト。 私の父親なんだけどね、もう役に立たなさそうだし、今後余計なことをされても困るから秘密裏に君に処分してもらいたいんだ」
天狐が目を細める。
言葉の意味は理解できた。 しかし、情報の処理が追いつかない。
とりあえず、フロガが碌でもないことを提案してきているのはわかった。
だが、こんな事を提案されるほど、今のフロガと信頼関係にあるわけではない。
「……会ったばかりの私にどうしてそんな重要な事を任せる? お前を裏切ったらどうするんだ」
天狐は軽い溜息を吐いて、フロガを鋭い視線で見つめる。
その視線を受け流して、フロガはまた紅茶を一口飲んだ。
「私は、この家の関係者全員信用してないんだ。 かといって、暗殺者を雇うのもバレたときのリスクが高い」
「まったく関係ない私の存在の都合が良かったと? 今まで虐げられてきた恨みがあるから、簡単に承諾すると思ったか?」
「それも少しはあるけど……なんでだろうね。 実は私もよくわからないんだ。 君の目を見た瞬間、何故か君なら信用できると思った」
ほんの一瞬だけ、天狐の知っているフロガの表情が見えた。
思わず黙ってしまうと、フロガは天狐へ紅茶を飲むように促した。
「さて、話は一旦切り上げよう。 紅茶が冷めてしまうよ」
渡された紅茶を一口飲む。
いつも家で飲んでいる紅茶の味に似ていた。
それからクッキーも食べる。
いつも家で食べているクッキーの味に似ていた。
「おいしい?」
「……ああ」
ふわふわと尻尾が揺れる。
少しだけ柔らかくなった天狐の表情と、もぐもぐと動く頬。
二枚目のクッキーを取る手。
──そんな天狐を眺めていると、フロガは突然、胸が苦しくなるような感覚に苛まれた。
これまでずっと平坦だった感情が、薄らと昂る気配すら感じる。
フロガは一旦目を逸らし、気持ちを落ち着かせるために声を出した。
「クッキーが好きなの?」
話題なんて何でも良かった。
それなのに、柔らかな表情を浮かべていた天狐は少しだけ悲しそうな顔をした。
大きな狐耳がぺたりと下がり、ふわふわと揺れていた尻尾も動きが止まる。
同時に、また胸が苦しくなる。
先程の苦しさとは、別の物のような気がした。
「……お前の作った物が好きだった」
「俺が料理を? ……いつの話だろう」
「本当に、何も覚えていないのか」
「……何か、忘れている気はするけど」
(やはり、そう簡単には思い出せないか)
天狐が顔を伏せる。
──会って話をすることで、催眠が解けるという事はない。 それはわかっていた。
わかってはいたが、こうして目の当たりにすると辛いものがあるのだ。
「天狐?」
フロガの声で顔を上げる。
いつもと変わらない紫紺色の瞳、人好きな表情、落ち着いた声。
見慣れているはずなのに、別人のようにも思えた。
もしかしたら、この男はフロガではなくクレヴォなのではないかとも思ったが、表情の作り方も声の出し方もフロガがいつも店に立っている時と同じなのだ。
天狐はまた、無言で顔を伏せた。
──そんな天狐の顔を見て、フロガは無意識に伸びかけた手を諌める。
手持ち無沙汰になった指はティーカップへ触れてみた。
(今、俺は何をしようとしていたんだ……?)
触れたいのはティーカップではない。
あの艷やかな髪に、柔らかそうな頬に、自分より幾分も小さな手に、触れたいと思った。
そんな溢れ出そうになった気持ちを逸らすように、再び話題を変えようと天狐を見る。
左の手の薬指に光る指輪へ意識がいった。
そこは恋人などの大切な者からの贈り物をする指だ。
その意味を考えると、フロガは背中が粟立つのを感じた。
形容し難い感情が背中から胸へ、胸から全身へ、ざわざわと駆け巡る。
気持ちを逸らすために話題を探したのに、結局掻き乱されてしまった。
「君は指輪をしているね。……恋人でもいたのかな」
なんとか落ち着くために、指輪のことを聞いてみた。
返答次第ではフロガの乱れた感情に収拾がつかなくなるのだが、聞かずにはいられなかったのだ。
「あ? ああ……これはお前の父親が私の魔力を抑える為につけた魔具だ」
フロガは心の奥底で安堵した。
同時にそこに指輪が付いている事が煩わしく思えてきた。
「自分では外せないの?」
「ああ。 それにこれがあると魔力を回復できないから魔法も魔術も使えない」
「それじゃあ困るな……よし、俺が外してあげよう」
驚いた天狐が顔を上げる。
思わず「えっ」と声が漏れたが、フロガは構わず席を立って天狐の隣へ移動した。
片膝をつき、手を差し出す。
「さあ、手を」
促されて、天狐はフロガのほうへ体を向け、怖ず怖ずと手を差し出す。
大きな掌が、優しく天狐の細い手を包み込んだ。
ひんやりとした金属が、天狐の指から滑り抜けていく。
──その感触と同時に、フロガの心の奥で何かがほどけた気がした。
知らないはずの記憶が、遠い光景が、天狐へ触れた指先の奥でかすかに脈打つ。
断片的な記憶が脳裏を埋め尽くし、溢れていく。
長い静寂に天狐が首を傾げたところで、フロガは小さく息を吐いた。
「お前にこんなことをするのは、二回目だな」
「……二回目、だと?」
──天狐は耳を疑った。
記憶のないフロガは、天狐の指輪を外してやるのが二回目だなんてわからないはずだ。
困惑していると、フロガはゆっくりと顔を上げた。
「天狐」
優しい声が名前を呼ぶ。
その瞳は慈しむように天狐を見上げ、凛々しい眉が困ったように八の字を描いていた。
締まりのない笑顔で、天狐の手を握ったまま立ち上がる。
この顔は、天狐のよく知っているフロガの顔だった。
「フロガ、お前、私がわかるのか」
「何言ってるんだよ。……それにしても、ここはどこだ? 俺はどうして……」
言ってから、フロガはふと頭を抱えた。
おそらく、今この瞬間だけ消えていた催眠にかかってから今までの記憶が溢れてきたのだろう。
紫紺の瞳は大きく見開かれ、蹌踉めいた足がその場へ力なく折れる。
床へ膝を付く間際、天狐がフロガの身体を支えた。
「天狐……俺は……俺は、お前に、なんて……ことを……いや、これからお前に何をさせようとしていた? こんなの……おかしい、どうして俺は……」
「落ち着け、大丈夫だ」
「大丈夫……? 大丈夫な訳ないだろ!?」
混乱するフロガを、天狐は抱き締めた。
今までにないくらい、強い力で。
「思い出せたのなら、それで充分だ」
「でも……」
「もう良いんだ。 フロガ」
滅多に聞くことのない、優しい声色。
幾分か細くなった肩に顔を埋め、フロガは天狐と同じように強く抱き締めた。
求めていた天狐の甘い香りを深く吸い、ゆっくりと吐き出す。
吐いた息と共に混乱が去り、荒かった呼吸と微かな震えは落ち着いていく。
やがて、天狐の腕から離れたフロガの紫紺色の瞳には、先ほどまでの狼狽や焦燥はなくなっていた。
視線は迷わず天狐を捉え、言葉を紡ぐ前に心を整えているようだった。
「……ありがとう、天狐」
「帰ったら美味いものを作れ」
「ああ、わかってる」
言ってから、フロガは天狐を椅子に座らせ、自身も向かい側へ座って状況を整理する。
ここに来たのは天狐を迎えに来ただけ。
こうして会えたのなら、もう留まる必要はない。
しかし、催眠状態にあった自分がしたことを整えなければ気持ちよく帰ることはできない。
「で、どうする。 もう帰るか?」
天狐が目の前のクッキーを齧りながら、思考するフロガに問う。
フロガは小さく首を振ると、天狐を見据えた。
「いや。 ちょっと気になることがあるから、整えてから帰ろう。 次の夜会で会わなきゃいけないヒトがいるんだ」
気になるのはオフェリアのことだ。
彼女へ故意に嘘をついたことを謝らなければいけない。
できるなら、オフェリアとミレイユの仲をある程度取り持ちたいとも思った。
「そうか。 なら、ついでのお前の兄貴もなんとかしろ。 あいつ、相当拗らせてるぞ」
「え? どういうこと?」
「わかってないのか……」
他人については鋭い癖に自分の事となると鈍感になる。
そうなってしまうのは、自分というものを勘定に入れていないからだ。
フロガの悪いところである。
「まあほら、食べながらゆっくり教えてよ」
呆れている天狐へ、フロガがふにゃりと笑う。
見慣れた笑顔に、思わず天狐も口の端を吊り上げた。




