エリュプティオ⑤
小鳥の囀りが広大な庭園に響く。
柔らかな陽射しのなか、時折吹く冷たい風は庭の美しい紅葉を揺らし、散らした。
秋も終わりに近いが、庭園はまだ彩りに溢れている。
屋敷の近くに設置されたガゼボでは、そんな庭園の風景をオフェリアとフロガがゆったりと眺めていた。
ここはエグランタイン家の庭園。
今日はフロガが持ってきた桃のタルトと紅茶をおやつにして、雑談を楽しんでいる。
「ミレイユ様に聞いたんですが、オフェリア様はミレイユ様と学年トップを争っていたそうですね」
「ええ。 まあ、わたくしの独占状態でしたけど」
「あれ、ミレイユ様の方が一勝多かったって聞きましたよ」
「あの方、強めの幻覚でも見ていたんじゃないかしら」
言いながら、オフェリアが紅茶に口をつける。
淹れたばかりの紅茶はまだ温かく、一口飲めば、芳醇な香りが広がり、身体を中から暖めてくれた。
「美味しい紅茶だわ」
「ありがとうございます。 気に入っていただけたようで嬉しいです」
オフェリアが軽く微笑み、桃のタルトも一口食べる。
琥珀色の瞳がキラキラと輝き、美味しそうに頬を緩めた。
「これも美味しいわね。 とても瑞々しいわ」
「その桃は兄が育てた新しい品種でして、来年辺りに売り出そうと思っているんです」
「あらそうなの。 楽しみね」
タルトを気に入ったのか、オフェリアはぱくぱくと食べすすめていく。
そんな姿を、フロガはつい目を細めて見つめてしまった。
──妙な違和感がある。
オフェリアと食事をするのは初めてなのに、こんな光景をどこかで見たことがあるのだ。
柔らかな陽射しに煌めく髪、楽しげに揺れる琥珀色の瞳、穏やかな微笑み。
その姿が、フロガの中で誰かと重なった。
ほんの一瞬だけ、とてつもなく愛おしく感じて、心の奥底がざわついた。
それはオフェリアに対してではない。
だが、誰なのかわからない。
わからないが、その誰かを今すぐ抱きしめたいと思った。
──必ず取り戻して、絶対に離さない。
そんな気持ちが突然沸き上がってきたのだ。
しかし、脳裏に浮かびかけた影はすぐに霧散した。
同時に気持ちがゆっくりと下へ落ちていき、聡明だった目の前に影がかかる。
「どうなさったの?」
オフェリアの問い掛けで、ようやく我に返った。
「いえ……本当に美味しそうに召し上がりますね」
「あら、だって本当に美味しいんだもの」
にこりとオフェリアが微笑む。
思わず視線を落としたフロガは、まだ暖かい紅茶に口をつけて、小さく息を吐いた。
(俺は何を考えているんだ)
何を取り戻すというのだ。
失ったものなんて、何もないはずなのに。
フロガは落としていた視線を上げ、いつもの人好きな笑顔を浮かべた。
今日はただの雑談をしにきたのではない。
ほんの少しだけ首を傾げて、フロガは口を開いた。
「ところで……オフェリア様は、ミレイユ様のことをどう思っているのですか?」
静かに、しかし真っ直ぐに向けられた問いに、オフェリアの肩がわずかに跳ねた。
「あ、あら……突然なにかしら」
言葉は取り繕おうとするが、視線が泳ぎ、フォークの動きも止まってしまう。
頬に浮かんでいた微笑みは曖昧なまま、形を保てずに崩れていた。
フロガはその様子をじっと観察しながら、柔らかな口調で続ける。
「私には、あなたが彼を好いているように見えます」
「そんなこと……ありませんわ」
途端に語気を強めたオフェリアは、紅茶のカップに口を運ぶふりをした。
だが、カップの中身はほとんど残っていない。
乾いた喉を僅かな紅茶の雫が湿らせる。
「いつもわたくしに突っかかってくるだけの、つまらない幼馴染よ」
フロガは一度うなずくと、あえて少し間を置いた。
オフェリアの紅茶が注がれるのを待ってから、声のトーンを落とす。
「そうですか。なら、安心して話せます」
「……なにかしら?」
「ミレイユ様、近々ジャン伯爵家のジェーネリック嬢と婚約するそうですよ」
その瞬間、カップを持つ手がぴたりと止まった。
オフェリアの視線が宙をさまよい、やがて声が漏れる。
「……婚約?」
「ええ、ジェーネリック嬢本人がそう言っていました。 この間の舞踏会で、少しだけ耳に入りましてね」
事もなげに続けるフロガの口調とは裏腹に、オフェリアの顔から色が引いていく。
「そう」
「ええ。こういった情報の共有は、早いほうが良いでしょう?」
まるで親切心から語っているような微笑みを浮かべているが、フロガの視線は鋭く、オフェリアの様子を見逃さない。
その肩がわずかに震え、口元がきつく結ばれているのを確認して、フロガはさらに一歩踏み込んだ。
「オフェリア様。あなたとミレイユ様、どちらかが素直になっていればもっと違ったのかもしれませんね」
「何の話かしら」
オフェリアの声は、ひどくかすれている。
フロガは柔らかく笑って、ポケットからハンカチを取り出した。
「私の独り言ですよ。 さあ、これを使ってください」
「……?」
訝しげに見上げたオフェリアの頬を、冷たい風が撫でる。
そのとき初めて、オフェリアは自分の頬に流れていた涙に気付いた。
「あ……違うの……わたくしは……」
「大丈夫。 私は何も見ていません」
オフェリアの手にハンカチを握らせ、フロガは背を向けた。
冷たい風が吹く広大な庭園では色鮮やかな紅葉が散り始めている。
ガゼボの中は魔法で一定の温度に保たれているため、然程寒くはないが、天狐がかけてくれていた魔法と比べるとやや弱く感じた。 今の季節ならば丁度良いのかもしれないが、これから厳しい冬を迎える事を思うと少し頼りない。
(そういえば、あいつと離れた時も同じようなことを思ったな)
一度だけ、別れて行動したことがあった。
そのときのフロガは運悪く風邪を引いてしまい、持ち合わせの魔具で暖をとったものの風邪の悪寒には勝てなかった事を思い出して、口許が緩む。
(あの時あいつが来てくれなかったら、風邪を拗らせて死んでたかも)
悪寒に苦しむ体を抱き包んでくれた、柔らかな温かさ。 そうしてそばにいてくれただけで、不安も痛みも不思議と和らいでいった。
ふと、後ろでオフェリアが顔を上げた気配がする。
その拍子に、温かな記憶は霞となって消えた。
(俺は今、何を思い出した……?)
先程と同じ違和感と、胸を掻きむしりたくなるほどの苦い焦燥。
しかし時間が経てば、焦っていたことすら忘れてしまうのだ。
「フロガ様。 ハンカチ、代わりのものを用意させますわ」
凛とした声がした。
つい今まで涙を流していたとは思えない、透きとおった声につられて振り向けば、瞳の周りを赤くしたオフェリアがツンと顎を上げて澄ましていた。
フロガもいつも通りの柔らかい笑みを浮かべてみたが、胸の内では得体のしれない焦燥が消えずにじわじわと広がっていく。
「いえ、気にしないでください。 そのハンカチ、新作のコロンを軽くつけてあるので今度感想を頂けるとありがたいです」
「……ありがとう存じます。 コロンも良い香りだわ」
「それは良かった。 では今日はもう失礼しますね」
なるべく表情を崩さないようにして、フロガはオフェリアの瞳から目を逸らし、踵をかえした。
あの琥珀色を見つめていると、どうにも心が掻き乱される。
特に今日はいつも以上におかしい。
このままでは、オフェリアはすぐにフロガの異変に気付くだろう。 そうなる前に早く屋敷に帰りたかった。
「お待ちなさい」
足が止まる。
そうして、また振り向く。
オフェリアの瞳は、フロガの心の内を貫くように鋭く光っていた。
「何か?」
「今日は貴方に聞きたいことがあるの」
「聞きたいこと?」
平静を保つ。
オフェリアの意図を汲もうと瞳を見つめ返すが、こみ上げてくる胸のざわつきが、微かにフロガの顔を曇らせた。
「あなた、フロガ・エリュプティオで間違いなくて?」
「急にどうしたんですか? もちろんですよ」
「病気で十五年間伏せっていた?」
「はい」
質問の意味がわからない。
だが、その質問で保っていた微笑みが崩れていく。
自分は本当に病気を患っていたのだろうか。
そもそも、何の病気だったか。
オフェリアは鋭い光を宿したまま、何かを探るように腕を組んで小首を傾げた。
「やはり、何か忘れているようね。 会ったときから不思議だったの」
「……どうしてそんな事がわかるんです?」
「目を見ればわかるわ。 貴方、誰かに魔法をかけられているか……それとも呪いかしら。 このわたくしでも見抜けないのだから、かなりの手練れのようね」
未だ、オフェリアが言っている事の意味がわからない。
しかし、オフェリアの目を見ていると、いつも何かを思い出しそうになるのは確かである。
身に覚えのない、不思議な記憶が朧げに浮かんでは消えていくのだ。
「意味がわからないな。 俺に魔法や呪いをかけてどうするって言うんです? そもそも、どうして貴女にそんな事がわかるんですか」
「あら、わたくしはなんでも知っているのよ。 魔学にも少々詳しいの。 魔力だってそれなりにあるわ」
口の端を吊り上げて笑うオフェリアが、自慢げに扇を広げる。
その姿は、いつも見ている傲慢なオフェリアとは少し違って見えた。
「そうね。 貴方に魔法をかけて得するヒトがいるとしたら……身内の方かしら」
「……家族を疑えと?」
「貴族が信頼できる者なんて、ほんの一握りだわ。 そうでしょう?」
敵の多いオフェリアが言うと説得力が増す。
フロガがこうしてお茶会に誘われるまで随分時間がかかったし、土産の品を口にする前には必ず近くにいるメイドが味見をする。
そのメイドはオフェリアが信頼している数少ない者の一人なのだろう。
「そうですね……貴女の言う通りだ」
フロガは少しだけ笑うと、オフェリアから視線を逸らした。
それから軽く息を吐いて、もう一度オフェリアの目を見る。
琥珀色の綺麗な瞳。
どこか懐かしさすら感じる、透き通った色。
「貴女の瞳を見ていると何か思い出せそうなんですが……やっぱり駄目みたいだ」
「随分強力な魔法みたいね。 ……いいわ、このハンカチのお礼に貴方の身辺を調べて差し上げます」
「俺の身辺って……エリュプティオ家の事ですか?」
「それ以外にも何か出てきそうだけど。 ……キャサラ、あとでわたくしの部屋にミミーナを寄越して」
キャサラ、と呼ばれたメイドがカーテシーをして去っていく。
それを見届けてからフロガはオフェリアへ視線を戻した。
「それにしても、魔力まであるなんて凄いですね」
「エグランタイン家の者は完璧ではなくてはならないの」
「なるほど。 それが貴女がヒトを品定めする理由ですか」
「ええ。 この完璧なわたくしを手中に収めるのなら、せめてわたくしと同じくらいではなくては困るわ」
「それもそうだ」
そうでなくては、オフェリアを扱い切れないだろう。
フロガは思わず苦笑したのを整えてから、軽く一礼した。
「じゃあ、今日はそろそろ帰ります」
「ごきげんよう。 次に会う頃には調査結果が出ているんじゃないかしら」
「ありがとうございます。 次は……オラージュ家の夜会ですね」
「楽しみにしているわ」
オフェリアが軽く手を振る。
それにニコリと微笑んでから、フロガはオフェリアから背を向けた。
メイドからコートを受け取り、屋敷の外で待機していた馬車に乗って、ようやく一息つく。
同時に軽い罪悪感が背中を撫でた気がした。
(別にミレイユ様の事で嘘をついた訳じゃない。 ジェーネリック嬢がああ言っていた事は本当だ)
──あのオフェリアが涙を流した事には驚いた。
余程、ミレイユの事を好いているのだろう。
それなら、ジェーネリック嬢がホラ話を振り撒いていた事にそのうち気付くはずだ。
(俺はジェーネリック嬢の嘘に騙されただけ。 今日の事で距離は縮まったけど、婚約は程遠いだろうな)
そもそも、フロガ自身がオフェリアに恋愛感情を抱けないのだ。
ここは婚約というものは捨てて、友人という立場を更に深めたほうが良さそうである。
オフェリアとミレイユを繋げるキューピッドとしての役を立ち回れば、エグランタイン家だけではなく、オルリアン家との友好関係も築けるはずだ。
(よし、そっちでいこう。 やっぱり俺に結婚は無理だ)
伴侶を持つという事へ無意識に抵抗がある。
それよりも大切なものがある気がして、とてもではないがモチベーションが上がらないのだ。
ここはのらりくらりとしながら、うまくベルフを言い包めて結婚を回避しよう。
そう決めてみると、肩の力が抜けた気がした。
(……俺に掛けられている呪いか。 怪しいのは、多分父さんだろうな)
揺れる馬車に体を預けながら、フロガは窓から遠くを眺めた。
*****
新しく淹れた紅茶に口をつける。
ガゼボから自室へ移動したオフェリアは、紅茶とお菓子をつまみながらメイドが来るのを待っていた。
テーブルに並べられているのは、フロガが土産として持ってきたフレーバーティーの他に焼き菓子も置かれている。
ほどなくして、部屋のドアがノックされた。
ノックに応えると静かにドアが開いて、ゆるいツインテールのメイドが顔を出す。
「お待たせしました、お嬢様」
「よろしくてよ。 さて、今日はミミーナにお願いがあるの」
お願い、と言われてミミーナが眉を下げる。同時にツインテールを小さく揺らして、視線を下へずらした。
その表情を一瞥してから、オフェリアは優しく笑ってみせる。
「お察しの通りよ」
「あー……かしこまりました。 それで、どちらの調査ですか?」
「エリュプティオ家を調べてちょうだい。あと、子息のフロガについても」
「え、フロガさん? はあ……またか……」
眉を下げていたミミーナが驚きの表情を浮かべる。
同時にオフェリアも目を丸くして、二人でしばらく見つめ合った。
「お知り合いなの?」
「私が良く行く食堂のマスターです」
「食堂……?」
いまいち、意味がわからないといった風にオフェリアが顎に手を当てる。
ミミーナは少し困ったようにオフェリアを眺めて、小さく口を開いた。
「まさか、お嬢様の想い人だったりしますか? 暴漢に襲われていた所を助けられて、一目惚れしたとか? ミレイユ様はもう良いんですか? というか、フロガ様は既婚者なので結婚は無理ですからね!!」
「このわたくしが暴漢如きに襲われるわけないでしょう。 既婚者ってどういうこと? あなた、一体何の話をしているの?」
「えっと……旦那候補の身辺調査って事じゃないんですか?」
「違います」
即答されて、ミミーナの表情が明るくなる。
「良かったー! お嬢様はミレイユ様一筋ですもんね〜」
「……馬鹿なこと言ってないで、とりあえず貴女の知ってるフロガ様のことを話してくれる?」
「あっはい」
「話が終わったら調査に向かいなさい」
「かしこまりました!」
にこにこと笑うミミーナが、オフェリアの向かいに座る。
置かれているティーカップに紅茶をそそぎ、クッキーをひとつつまんだ。
「私が前に勤めていたお屋敷のお話になるんですが、そこのご令嬢が…………」
どこか遠くを眺めながら、ミミーナはゆっくりとした口調で語り始めた。
前の屋敷での出来事。 フロガには妻がいること。 カレーが美味しかったこと。 屋敷の末娘が行方不明になったあと、記憶喪失になって見つかったこと。 解雇されたことなど。
一通り話し終わってから、一息ついて紅茶を飲んだ。
「……その話が本当なら、やはり何らかの魔法で記憶を操られている可能性があるわね」
「私もそう思います。 フロガさんは奥さんの事でよく惚気てましたし……離婚は考えられません」
「わたくしの目を見ていると何かを思い出せそうと言っていたけれど……」
催眠魔法にかかっていると仮定して、解除方法が瞳に関するものなのだろうか。
オフェリアは紅茶に映る自分をじっと見つめた。
「まさか……」
そして閃いたのだ。
「このわたくしが魅力的すぎて魔法が解けかかっている……ってこと?」
「え? どうしました?」
「ああ……やはりわたくしの美しさって罪なのね……」
ミミーナが飲んでいた紅茶のカップを置いて、軽く笑った。
「も〜、お嬢様ったら。当たり前じゃないですか!」
「いずれわたくしの美貌で最強の解除魔法が生まれるかもしれないわね」
「解除してもお嬢様のお顔に魅了されちゃいますよ!」
「はあ〜〜美しすぎるのも困ったものだわ!」
二人の笑い声が部屋の中に響く。
楽しい余韻をまとったまま、ミミーナは残っている紅茶を飲み干して立ち上がる。
「では、いってまいります」
「ええ、よろしくね」
オフェリアにしっかりとカーテシーをして、軽い足取りで扉を開けた。
*****
日が落ちる少し前、貴族街区のレストランでベルフはお気に入りの娼婦と早めの夕食を楽しんでいた。
今日のメニューは魔獣を使った珍しいものだそうだ。
「どうだ、ハニー。美味しいだろう?」
「ええ、とっても。 メインの轟猛牛って魔獣、いつものお肉と全然違ったね」
「これからはいつでも連れてきてやろう」
「えへへ、ありがとう。すっごく嬉しい」
女──ハニーは、鈴を転がすような声でそう言ったが、目元は笑っていない。
長く伸びた睫毛の奥には、うっすらと退屈の色が滲んでいた。
「息子も戻ってきたし、家も落ち着いた。そろそろ隠居しようと思う。 お前と居る時間も増えるぞ」
「えっ! ほんとに? じゃあもっと色んなところに行けるね。 楽しみだなぁ」
これが心の底からの声ではないことぐらい、ベルフはわかっている。
高級娼婦の良いところは、高い演技力とため息の出るような美貌だ。
歩けば振り向かれるような美女が、金さえ払えば恋人や妻のように振る舞ってくれる。
喋る言葉も内容もこちらに合わせて変え、守秘義務もある。
非常に合理的だ。
家族や恋人などという面倒くさい物とはまるで違う、偽物の愛情。
本物である必要などない。 偽物だからこそ、気楽でいい。
「ああ、こうして好きな女と一緒にいられる時間が増えるのは嬉しいことだ」
隠居すればあらゆる事から解放される。
家の行く末は息子に任せて、ハニーや他の娼婦たちと過ごす時間をゆっくり味わえる。
家族なんてものがいなくても、日々が楽しいのならそれで構わない。
ベルフが改めて言うと、ハニーはちらとベルフを見て、笑顔を作った。
「……そうだ、話変えていい? 今度ね、私の好きな童話が演劇があるの。 行ってみたいなって思ったんだけど、どうかな」
「童話? どんなものだ」
「最後に王子様のキスで目を覚ますやつ。お姫様が長い眠りから目覚めるの。夢みたいな話よね」
ベルフはふっと鼻で笑った。
「ハニーはロマンチストだな」
「童話って大好き! お姫様が、王子様に裏切られたショックで、泡になって消えちゃうのとか……悲しいけど、綺麗だと思うな」
その話を聞いて、ベルフはふと思った。
──不老不死の姫がいたとして。
もし、その姫が「愛しい王子様」に裏切られ、手に掛けられたとしたら?
死ねないはずの存在でも、もしかすると想いの強さが奇跡を呼ぶのではないか。
童話のように泡となり、儚く、消えてしまうかもしれない。
──キスで目覚めるのなら、剣で終わりを迎えることも物語のひとつと言ってもいい。
錬金術師のクリフは未だに動かない。
ならば、こちらがやるしかないだろう。
もし失敗しても、フロガの記憶に自分の手で最愛の妻を刺したという事実が残れば、万が一催眠が解けてしまっても、それが枷となって一緒にはいられないはずだ。
ベルフは口元に薄い笑みを浮かべて、ワインを飲み干した。
最後に運ばれてきたデザートは、鏡のように艶やかな赤いドーム。
ナイフをそっと入れると、中心から濃厚な果実の真っ赤なソースが流れ出した。
それはまるで、誰かの胸に突き立てられた刃のようにすべり、ゆっくりととめどなく、赤を零す。
ふと、天狐の琥珀色の瞳を思い出した。
反抗的な目つきで睨み上げてくる琥珀色は、殴れば涙で潤んだ。
もっと酷いことをすれば、このソースのように涙が溢れ出た。
「……美しいな」
ベルフは低くつぶやき、ひと口食べる。
酸味が際立ち、舌に痺れるような余韻を残した。
──食べ終わったあとは、ハニーと軽い会話を楽しんで、ワインを飲み、椅子を引く音と共に立ち上がる。
ハニーも同じように席を立ち、二人でレストランを出た。
「ハニー、今日は付き合ってくれて感謝する。良い夕食だった」
「ううん、こっちこそ。とっても楽しかった」
そう返しながらも、ハニーの目はベルフの背中の向こう側、遠くの夜空を見ていた。
彼女にとって、次の客の予定こそが本当の仕事であり、今はその合間の暇潰しにすぎない。
「また、近いうちにな」
「もちろん。呼んでくれたら、すぐに飛んでいくから」
ハニーの微笑みを背に、ベルフはレストランをあとにした。
夕暮れの貴族街区には、すでに灯火がともり始めている。
夜の冷気が肌を撫でる中、まるですべてが整った舞台の上を歩く役者のように、ベルフは石畳を落ち着いた足取りで進んだ。
全ては順調だ。
あと少しで、本当に欲しかった暮らしが手に入る。
爵位をフロガに継がせ、どこかにもう一つ屋敷を作らせて隠居生活を楽しむのだ。
連れて行くのリカルドだけで良い。
街灯の明かりに照らされながら、ベルフは静かに歩く。
そこに他の足音は重ならなかった。
*****
重厚なカーテンの隙間から煌々と輝く月が、シガールームの室内を淡く照らしている。
フロガは革張りのソファに身を沈め、葉巻の煙をゆったりと口の中で転がしながら、今日のことを思い返していた。
オフェリアに言われて気付いたが、この屋敷に戻ってきてからというもの、どこか現実感が薄い。
気の所為だと思っていたが、十五年ぶりの我が家、そして家族だというのに温かな懐かしさも、居心地の良さも全くといっていい程感じないのだ。
それどころか、見えない膜に心と記憶が覆われているような感覚が付き纏っていた。
(何か、大事なことを忘れている……?)
しかし思い出すことはできなかった。
もどかしい気持ちを転がしていた煙と共に吐き出し、ウイスキーを一口含む。
どこかクリーミーでウッディな味わいの煙と、ウイスキーから醸し出されるフルーツやスパイスの香り。 その二つが口腔に満ち、鼻から抜けていく。
そんな香りの層に目を細め、しばし葉巻から立ち昇る煙を眺めた。
どことなく、物足りない。
酒が足りないのだろうか。
追加の酒を持ってこようと、手に持っていた葉巻を置く。
部屋の扉がノックされたのは、そんなときだった。
「フロガ」
ベルフの声だ。
フロガは視線を扉に向け、立ち上がる。
「はい、なんですか?」
扉を開けると、灰色のマントを羽織ったままの格好で、ベルフが立っていた。
ついさきほどまで外出していたのだろう。
何か満足げな気配をまとい、唇が微かに緩んでいる。
「オフェリア嬢とは、うまくやっているか?」
その問いに感情はこもっていない。 形式的な確認のような口調だった。
「はい。今日、お屋敷にお招きいただきました」
フロガが静かに頷く。
用意された答えのように、口から言葉がすらすらと出てくる自分に、どこか冷めた自覚があった。
「それは良いことだ。……ところで、お前に見せたいものがある。 時間はあるか?」
「ええ、構いません」
「では行こう」
ベルフは踵を返し、フロガを案内するように先を歩き出した。 その後ろを静かに歩く。
屋敷の奥、廊下に二人分の足音が反響する。
とある部屋の前で、フットマンのガルディアが立っていた。
ガルディアが深々と礼をし、重厚な扉を開ける。
扉の先には下へと続く階段が見えた。
「こちらへどうぞ」
言われるまま、階段を下る。
下へ行くごとに空気は冷たくなり、肌に纏わりつくような湿気とカビの臭いが鼻をつき、やがて微かな血の臭いが混ざりはじめた。
──薄らと話声が聞こえる。
聞いたことのある声だ。
「親父はずっと娼館通いだし、お袋は愛人のところに入り浸ってるし、うちはもう終わりだよ」
「そうか」
「そっちはどうだったんだ?」
「……あいつはたまに馬鹿なことをするから、金のことは私が管理していた」
この声はクレヴォだ。
相手は女のようだが、知らない声のように聞こえる。
だが相手なんてどうでもいい。 問題はその内容である。
フロガは前を歩くベルフの様子を見ながら、軽く咳払いをしてみせた。
こちらに気付いたのか、声が聞こえなくなる。
階段を下りきれば予想通り、クレヴォがいた。
大きな鉄格子の前に椅子を置いて座っていたようだったが、驚いた顔をしてこちらを見あげている。
鉄格子の中の様子は薄暗くて見えない。
「フロガ……どうしてここに……」
クレヴォの声が微かに震えているように聞こえた。
フロガは小さく首を傾げ、ベルフを追い越してクレヴォの前に立つ。
「父さんが案内したいって言うから……一体ここは何なんだ?」
言いながら、クレヴォの奥にある鉄格子を覗き込む。
薄暗い様子の狭い部屋の隅で、金色の毛玉がふわりと揺れた。
「……フロガ?」
女の声が名前を呼ぶ。
揺れた毛玉は九つに割れ、それらが尻尾なのだとわかった瞬間、フロガは息を呑んだ。
別れた尻尾の中には、粗末な布を纏った女。
大きな狐耳に、赤みを含んだ長い金髪、目鼻立ちの整った端整な顔立ち、琥珀色の瞳。
──奴隷だろうか。
フロガは女から目を逸らさず、顔を傾けた。
「……このヒトは誰ですか?」
何故か視線を逸らせない。
顔だけベルフへ向けて問うと、女は大きな狐耳をぺたりと倒した。
琥珀色の瞳はフロガを捉えたまま、何かを悟ったように鋭く細められる。
警戒しているようだ。
そう思った瞬間、酷く心が軋んだ気がした。
「こいつは領地を荒らしていた魔獣だ」
「……ヒトのように見えますが。 言葉も喋ります」
大きな狐耳と尻尾以外はヒトの女だ。
鉄格子に近付いてみれば、女がこちらへ寄ってくる。
薄暗い照明の中でもわかるほど綺麗な顔立ち、痩せているが妙に艶かしい身体。
その細い体に似合わない、重くて頑丈そうな手錠と足枷。
魔獣と言っているが、ベルフが闇市で買ってきたセリアンスロープなのでは、とフロガは疑いの目でベルフを流し見た。
「魔獣だ。 処分しようとも思ったがこの容姿だろう」
何かを含んだ言い方だ。
フロガは明らかな嫌悪の表情をベルフに向けたあと、女に視線を戻した。
「きみ……私の名前を知っているようだけど、どうして?」
女は答えない。
代わりにフロガをじっと見つめ、何かを考えるように瞳を揺らした。
まるで警戒した猫のような目だ。
「……随分怯えているようですね。 で、この魔獣をどうしたいんですか?」
顔の良い女を奴隷にしている。と、自慢でもしたかったのだろうか。
フロガが呆れながら問う。
「この魔獣は不老不死だ。 フロガ、試しに斬ってみないか?」
いつもの淡々とした声ではない。
少し上擦った、何かを期待しているかのような声色。
思わず振り返ると、同時にクレヴォも振り返って立ち上がった。
「父さん! いくらなんでもそれは……」
「黙れクレヴォ。 フロガ、この魔獣を殺すには何か条件があるそうだ。 だから手当たり次第、皆に斬らせている。 お前もやってみろ。 死ねばそれで良いし、死ななくてもまた誰かに斬らせるだけだ、遠慮するな」
早口で捲し立て、立てかけてあった剣をフロガへ渡そうとするベルフは何処か様子がおかしいように見えた。
女を横目で見ると、大きな目を見開いてベルフを見つめている。
命乞いをしないあたり、死なないというのは本当なのかもしれない。
やけに興奮しているベルフを見るに、一種のプレイなのだろうか。
「……私を巻き込むのはこれっきりにしてくださいよ」
フロガはこの場を早く去りたくて、ベルフから剣を受け取った。
鉄格子の扉の鍵が開けられ、中へ入る。
「フロガ……お前……」
女が呟く。
それは怯えや哀しみや怒りといったものではなく、確かめるような静かな声。
フロガは応えず、女の喉元へ剣先を当てた。
恐怖も拒絶もなく、琥珀色の瞳がじっと静かにフロガを見据える。
近くで見ると、一層綺麗な琥珀色だ。
黄昏の空に似た、どこか懐かしく切ない、胸を締め付けられるような色合い。
その瞳に吸い寄せられて、フロガは一瞬だけ呼吸の間を忘れた。
女が瞬きをしたタイミングで、ようやく腕を動かして剣を引く。
このまま勢いをつけて喉元へ突き立てれば、この女は死ぬだろう。
だが、フロガはどうにも女の瞳から目を逸らせずにいた。
この瞳をずっと眺めていたい。
ずっと、見つめられていたい。
オフェリアの時とは比べものにならないような、理屈を超えた、どうしようもなく深く強い何かが胸の奥に波紋を広げているのだ。
「何をしているんだ、フロガ」
ベルフの声で、宙に浮いていた気持ちが戻ってきた。
正確には、また頭の中に霧がかかってきたのだが、今のフロガはそれが正常な状態なのだ。
ふっ、とため息をつく。
それから引いた剣を下げ、床へ投げ捨てた。
「父さん、不老不死の魔獣だなんて珍しいとおもいませんか。それをわざわざ殺すなんて、馬鹿げてますよ」
「なんだと?」
その言葉にベルフがわずかに目を見開いた時、二人の間でじっとしていたクレヴォが小さく息を吐いた。
安堵の呼吸か、落胆の溜息か、どちらかはわからないが、クレヴォは再び椅子へ腰を下ろして成り行きを眺めた。
「なあ、きみ。 きみはヒトの言葉を理解して喋ることができるね。 そんな魔獣、見たこと無いよ」
「……私は、魔獣ではない」
静かに答えた女はフロガから視線を逸らしたまま、尻尾を丸めた。
「じゃあ……セリアンスロープ?」
「違う」
「そう……まあいい。 ああ、ちょっとそこの……フットマン。 このヒトを綺麗にしてあげて、私の部屋に連れてきてくれ」
「……はい?」
ベルフの後ろでぼんやりとこちらを眺めていたガルディアが顔を顰める。
何か言いたげにベルフを見やったが、フロガは構わず続けた。
「ちゃんとした服も着せてあげてくれ。頼んだよ」
言いながら、鉄格子をくぐって、すれ違いざまにガルディアの肩を叩く。
そのまま階段を上がるフロガの前へ、ベルフが立ち塞がった。
「おい、フロガ! どういうことだ!?」
「父さん、アレはうまく扱えば良い兵器になります」
「し、しかし、魔獣だぞ!」
「魔獣ではないそうですよ。 それにきっと、頭が良い。 父さんが使わなくても私が使います」
「だが……」
「扱い切れなかったのは察しますが、父さんにしてはずいぶんと単純な解決法ですね。 思考の放棄…………そう、愚行と言ってもいい」
軽蔑とも無関心ともつかない、冷え切った紫紺の瞳が薄暗い照明に反射した。
思わず言葉を失ったベルフを追い越して、フロガは再び階段を上がっていく。
クレヴォの顔も、天狐の姿も、もう見ようとはしなかった。
*****
ベルフの肩が怒りで震えている。
フロガが扉を閉めた瞬間、壁へ拳を叩きつけた。
「ガルディア! ミーティスを呼んで今すぐフロガに催眠魔法を上書きさせろ! あの女に会った事を忘れさせるんだ!」
声を荒げるベルフに、ガルディアは頭を下げて恐る恐る口を開いた。
「恐れながら……ミーティスは現在メロウラージュの屋敷におります。 呼び出しても、すぐに来れるかどうか……」
「ならリカルドを……」
言いかけて、ベルフが喉を詰まらせる。
ミーティスもリカルドも、メロウラージュへ行くように命令を出したのはベルフだ。
必要の無い書類整理を命じ、転移魔法禁止の結界を張り直し、しばらく帰ってこれないように仕向けた事をすっかり忘れていた。
他の魔法使いも有給で居ない。
有給を取るように勧めたのも、ベルフ本人である。
眉を下げて見上げるガルディアから目を逸らし、ベルフは落ち着いた声を出した。
「……フロガの指示には従うな。 女が拒否しただとか、適当に誤魔化せ」
「は……かしこまりました」
階段を駆け上がったベルフが、勢いよく扉を閉める。
それを見届けてから、ガルディアも業務に戻ろうと足をあげた。
が、強い力で肩を掴まれる。
「ガルディア。 天狐をフロガの部屋まで連れて行け」
クレヴォだ。
ずっと息を顰めていたので気付かなかったが、肩を掴まれたことでその存在を思い出す。
振り返って一礼するが、クレヴォの命令に従うつもりはなかった。
ガルディアの主人はベルフなのだ。
「申し訳ございません。 旦那様のご指示がございますので」
「親父の言う事は聞かなくていい」
「……私の雇主はベルフ様です。 ベルフ様の言葉が最優先事項となります」
「確かに今の雇主は親父だ。 が、俺がいずれお前の雇主になる」
「遠い未来のお話でございますね。 そのあかつきには、今後ともよろしくお願い致します」
ガルディアがそっと背を向けようとした時、クレヴォは静かな声で呟いた。
「親父は隠居を考えている」
足が止まる。 ゆっくりと振り返ったガルディアに、クレヴォは冷静な目を向けたまま続けた。
「あの様子を見ればわかるだろ? 毎日遊び歩いて、家に帰ってくるのは月に二、三回程度。 仕事は俺やリカルドに任せきり。 正式に発表するのも時間の問題だ」
ガルディアは目を伏せ、言葉を選びながら応じた。
「旦那様は、フロガ様にご期待を……」
「フロガの催眠魔法が一生解けないとでも思っているのか? リカルドとミーティスは親父に敢えて言わなかったけど、恐らく魔法が解けるトリガーは天狐だ。 そうだろ?」
鉄格子の先にいる天狐を見やると、大きな狐耳がぴくりと動いた。
「私がトリガーかは不明だが……魔法は万能じゃない。 このまま催眠を掛け続けたところで、いずれフロガは精神異常を起こしてぶっ壊れるだろうなぁ」
クレヴォの口元に薄っすらと笑みが描かれる。
しかし、ガルディアはそれに気付くこともなく、思考を巡らせていた。
抑えきれない出世欲。 薄れていく義務と忠誠。
ベルフとクレヴォの間で、心の中の天秤がクレヴォの方へ傾きかけている。
「残るのは俺だ。 俺がエリュプティオの当主になる。 なあガルディア、早めに未来の主へ恩を売っておくってのも悪くないと思うよ」
ガルディアは目を細め、クレヴォを見た。
先程までベルフとフロガの間で顔を青くしていたクレヴォと同一人物だと思えないほど、自信に満ち溢れた顔をしている。
「貴方がエリュプティオ家の当主に……?」
「ああ。 フロガはもうじき客人になる。 隠居した親父は何処か遠くに住んで、この家には寄りつかなくなる。 そのとき、親父はきっとリカルドを連れて行く。となれば、執事の席が空くよなぁ」
クレヴォの言わんとしている事が見えてきた。
リカルドがいなくなれば、この屋敷で一番目をかけられている使用人はガルディアだ。
少なくとも、ガルディアはそう思っている。
リカルドの代わりにベルフの下に着いているのだからそうに違いない。
「執事……私が……」
「なあガルディア、俺は俺にとって都合が良い奴が好きなんだ。 この屋敷の執事はリカルドみたいに忠実で、融通の利く、優秀な奴じゃないと困るんだよ。 俺の言っている意味、優秀なガルディアならわかるだろ?」
静寂が落ちる。
やがて、ガルディアは小さく息を吐いて、頭を下げた。
「……恐れながら、正式な命令には従います。ですが、覚えておきましょう。クレヴォ様がその地位に立たれた時、私が貴方の右腕となれるよう、力を尽くす所存です」
クレヴォが薄く笑った。
「頼んだよ。 お前が気の利く奴で良かった。じゃ、鍵だけ俺に渡してくれる?」
「こちらでございます」
「よし、行っていいよ。 ああ、親父には上手く誤魔化しておいてくれ。 どうせ明日からまた家を空けるだろうから、ちょっとここから遠ざけるだけでいい」
「承知致しました。 失礼致します」
足早に階段を登るガルディアは、どこか誇らしげであった。




