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エリュプティオ②



「フロガ様は私をあやしいと思いますか」


 庭園の銅像を魔法で持ち上げながら、ミーティスがぼやいた。

 隣の銅像を調べる手を止めて、フロガはミーティスを見る。


「まあ、正直」

「よく言われるんですよ。 どの辺があやしいとお思いですか?」


 全体的に胡散臭い雰囲気が漂っている……とは言えない。 あまりにも漠然としすぎた表現だ。


「えーと……表情、とか?」

「親しみ易いように、なるべく笑顔を心掛けているつもりなのですが」

「そうか……良いことだと思うよ」

 

 にこり、とミーティスが微笑む。

 それから宙に浮かせていた銅像を元の位置に戻した。


「フロガ様の奥様の件も、私だけ仲間はずれなんですよ」

「……仲間はずれ?」

「ええ。 私に誘拐だけさせて、あとは他の三人で奥様を隠したんです。……何故なんでしょう? やはり、信用されていないのでしょうか」


 裏切りそうな顔と雰囲気だから……と言う言葉をフロガは呑み込んだ。

 実際、ミーティスはフロガの手伝いをしている。

 これは、雇主であるベルフへの裏切り行為といっても良いだろう。


「ミーティス。 その三人に天狐の居場所を聞けないかな」

「残念ながら、三人とも休暇を取って出かけてしまいました。 私は今日から休み無しです」

「そう……」


 フロガはミーティスがなんだか哀れに思えてきた。

 雰囲気から思い描く人物像とは違うのかもしれない。

 このままミーティスと協力すれば、天狐を見つけることができるのではないだろうか。

 そんな事を考えていると、フロガは不意に自分の足が重くなっている事に気付いた。


「……なんだ?」


 足を止める。

 振り返ったミーティスの眉が、微かに上がった。

 その瞬間、足の感覚が完全に無くなる。

 思わず前へ倒れ、受け身を取るが腕の感覚もなくなってきた。

 首を捻ってミーティスを見上げると、申し訳なさそうに苦笑している姿が見える。


「ああ、申し訳ございません。 フロガ様」


 言い終わってから、何者かがフロガを腹を蹴り上げる。 くぐもった声を上げると、黒革のブーツが胸の上に乗り、のど元に黒い日傘の石づきが当てられた

 

「よお、久し振りだなぁ」


 シルバーブラウンのハーフアップに、黒い革のコート、そして黒いレースの手袋。  

 いつしか食堂に来た女だ。


「あなた、は……あのときの、お客さん……?」

「やっぱ俺の顔を忘れてるか。 ま、そうだよなぁ。 テメェにとって俺はその程度の存在ってことだ」

「……?」


 要領を得ない台詞に、フロガが首を傾げる。

 見兼ねたミーティスが、しゃがんでフロガを覗き込んだ。


「フロガ様。 こちらはトリア様ですよ」

「トリア!?」


 記憶の中のトリアはまだ幼くて、絵本の読み聞かせをねだるような愛らしい少女であった。

 目の前にいる者とは印象がまるで違うのだが、よくよく瞳を見てみればフロガと同じ紫紺色だ。

 何故、気付いてやれなかったのだろう。

 

「一回ぶん殴ってやりたくてうずうずしてたんだよ! よくも俺を裏切りやがったな!」

「裏切るって、一体……」

「そもそも、そうやって忘れてんのが気に食わねーんだよ!」


 胸ぐらを掴まれ、頬を殴られる。

 そのまま突き飛ばされたフロガの体は受け身をとることができず、重い音をたてて芝生へ転がった。

 続けてトリアが日傘を勢いよく振り上げる。

 傘の鋭い石づきが再び喉元へ向いた時、フロガは全身が硬直していくのを感じた。

 これは、何らかの魔法だ。

 そして、術者はトリア。


 ──いつの間に魔法なんて使えるようになっていたのだろう。

 そんな事を考えているうちに、フロガの意識は遠のいていった。

 

 

*****


 カビと血の匂いが、天狐の鼻をつく。

 重い瞼を開けてみれば、薄暗い天井が見えた。

 反射的に身体を動かすと、その拍子で全身へ痛みが走る。

 腕と足に着けられた手錠と足枷は重く、固くて冷たい石の床は身体の痛みや倦怠感を更に増幅させた。

 

(これが悪い夢なら良かったんだが)


 満足に動かせない身体、天井から伸びる鉄格子と冷たい部屋。

 まるで昔に戻ってしまったかのような、悪夢ともいえる日々を天狐はじっと耐えていた。

 あのときと違うのは、鉄格子の先に見張りがいることくらいだろうか。

 ちら、と横目で見ると、見張りの男が目を逸らした。

 この男の役割はたまに出てくる食事を運ぶことと、天狐が汚れた時にある程度綺麗にすること、奥の階段の上にある扉がノックされたら開けること、その他ちょっとした雑務。

 ただそれだけの仕事。


 おそらく、彼らは関係者ではなく日雇い労働者か何かだろう。

 ご丁寧に探知妨害の魔具まで付けているあたり、雇い主がこの場所を知られないように必死なことが伺える。

 

「お前、誰に雇われているんだ」


 声をかけると、男は驚いたように目を丸めた。

 天狐が喋るとは思っていなかったらしい。


「目的はなんだ?」


 続けて話し掛けるも、男は再び目を逸らしてしまった。

 仕方がないので、天狐は改めてこの狭い牢屋を見回す。

 頑丈な鉄格子で仕切られた見張り側には、テーブルと椅子がひとつずつ。

 明かりはランプと、小さな照明魔具が天井にひとつ。

 薪を燃やすタイプのストーブがあり、いくつかの薪と火かき棒が置かれている。

 天狐側には何も無い。


 次に、自分の手足にかけられた手錠と足枷。

 これは市販品のようで、単純に動きづらいだけのものだ。

 一際目立っているのは左手の薬指に嵌められた、金の指輪。

 奇しくも封印された時と同じ場所に付けられた指輪は、魔力制御が付与されている違法魔具のようだ。

 おかげで、全く魔力が回復しない。


(まずいな……) 

 

 普段なら、食事をとって眠れば勝手に魔力は回復していた。

 昔ならば、ギリギリ魔力を回復できる程度の食事が出された。  

 しかし、今は違う。

 監禁している者から明確な殺意を感じる。

 誰が何の目的でこんなことをしているのかわからないが、次第に焦燥の念が募っていく。

 天狐は不老ではあるが、不死ではないのだ。


(心当たりがない。 私かフロガに恨みでもあるのか?)


 とにかく、このままでは本当に死んでしまう。

 今のところ、首を斬られたり腹を刺されたりしたが意識を取り戻すことができた。

 あと一回死ねば終わりだと思っていた天狐だったが、どこかで計算が間違っていたようだ。

 それとも、九回死ねば本当に死ぬ、という情報自体が間違っていたのだろうか。

 天狐は頭を抱えた。


(あのとき、あいつは確かにそう言った。 それから私を何回も……)


 昔のことを思い出して、天狐は気分が悪くなってきた。

 牢屋の隅にもたれかかり、膝を抱える。

 

(フロガ……)


 フロガの顔が浮かぶ。

 こんなことになるのなら、もっと甘えておけば良かった。

 素直な言葉を伝えていれば良かった。


 楽しかった記憶が走馬燈のように走り抜けて、消えていく。

 本当に、夢のような日々だった。

 夢だったと思ったほうが、幸せなのではないだろうか。

 フロガの声も、体温も、匂いも、全て夢だった。

 今までの生活は、幻だったのだ。

 初めて会ったあの瞬間ですら。


(初めて会ったときか。確かあいつはあの時、ドラゴンに追われていたな)


 ──ふと、初めて会ったときの事を思い出して、天狐はフロガを独りにしてしまった時の危うさに気付いた。


 あの男は自分がいなければ暴走するかもしれない。

 また勝手に命を放り出して、好き勝手し始めるに違いない。

 半ば諦めていたが、こんな所で死ぬ訳にはいかない、と天狐は思い直した。


(仕方無い。 まずはあの見張りからどうにかするか)


 希薄であるが、魔法も魔術も使えない今、対話でなんとかするしかない。

 天狐は再び見張りの男に声をかけようと、口を開いた。

 瞬間、階段上の扉がノックされる。

 

 見張りの男が扉を開けに行く。

 ギイ、と扉の軋む音がして、閉められる。

 それからすぐに話し声が聞こえてきた。


「伯爵様!? まさかこのような所にいらっしゃるとは……」

「見張りご苦労。 で、死なないというのは本当なのか?」

「はあ……首を切り落としても死ななかったそうです」


 伯爵、ということは監禁を命じた張本人だろうか。

 天狐は身を強張らせ、男が階段から降りてくるのを待った。

 石の階段をおりる音が複数聞こえる。

 人数は四人。 見張りの男と伯爵と呼ばれた男以外に、体積の大きそうな足音がふたつ。


 薄暗い部屋の中、ランプの明かりが先頭に居る男の顔を照らしたとき、天狐は思わず息を飲んだ。


「ほう、これがフロガのペットか。 思っていたよりヒトだな」


 冷たい紫紺の瞳。

 顔や声や身体の造形に、少しずつ見覚えがある。

 この男はフロガの父親だと、瞬時にわかった。


「なかなか上物だ。 おい、何か話してみろ」

「……何故、こんなことをする。 目的は何だ」


 紫紺の瞳が細く歪められる。

 フロガの父親、ベルフは見張りから鍵を受け取り、近くにある火かき棒を手にとって、牢屋の中へ入ってきた。

 その様子を、見張りの男と連れの大柄の男二人が眺めている。


「口の利き方がなっていないな。 何故こんなことをするか? フロガを使うのに貴様が邪魔だからに決まっているだろう」 

「フロガは家とは縁を切ったと言っていた。 必要ならすぐに連れ戻せば良かっただけの話だ。 今さらあいつを連れ戻す理由はなんだ?」

「縁を切った覚えはない。 今まであいつの我儘を見逃してやっただけの事。 フロガはエリュプティオの人間だ、私の跡を継ぐのは当然のことだろう」


 理解が追いつかない。

 フロガには双子の兄がいて、年の離れた妹もいる。

 二人に何かがあったのか、あるいは二人と不仲でフロガに固執しているのか。

 どちらにせよ、厄介な父親だということはわかった。

 こうなると、フロガが今どうなっているのか心配になってくる。


「フロガはどうした?」

「ああ、フロガは貴様と別れたいそうだ。 もう一緒にいたくないと言っていた」

「見え透いた嘘をつくな。 あいつがそんな事を言うはずがない」

「ふむ……フロガは随分甘やかしていたようだな。 これを利用する手もあるか……」


 床を火かき棒で突きながら、ベルフが何かを考えている。

 小さな金属音が、規則的に響く。

 やがて考えがまとまったのか、ベルフは天狐へ向き直った。


「よし、このままペットとして飼ってやっても良い」

「はっ、失せろ」


 天狐が言い終わると同時に、火かき棒が振り上げられた。

 驚く間もなく、それは天狐のすぐ横に振り下ろされ、石の床が削れる。


「違うだろう? この私が提案しているんだ。次は殴る。 まずは謝罪からだ、言ってみろ」


 火かき棒の先端が、天狐の肩へ押し付けられる。

 この瞬間、天狐は蓋をしていた昔の出来事が頭の中に溢れていくのを感じた。

 冷や汗がじっとりと背中に沸き、恐怖と嫌悪感が蘇る。

 そして、つい反射的に意図してない言葉が口から漏れた。


「ご、めん……な、さい……」


 これは昔の口癖だ。

 天狐は顔を伏せ、口を固く結んで奥歯を噛んだ。

 その様子にベルフが満足気に笑う。


「ああ、いい子だ」


 空いている手が、震えている天狐の尻尾を撫でる。

 柔らかな被毛がベルフの指股を滑り、ほのかに甘い香りがした。


「毛並みが良いな。 顔も身体も極上だ。……フロガはこれから嫁探しに子作りと忙しくなるし、まずは私のペットにしてやろう。 具合によっては愛人してやっても良い」

「……何を言っているんだ」

「私が直々に躾し直してやろう。 跡継ぎが出来てフロガの手が空いたらフロガの愛人にでもなればいい。 どうだ?」

 

 天狐は絶句した。

 こんなこと、フロガが耐えられる訳が無い。

 この男はフロガを自分の所有物としか考えていないのだ。

 

「黙れ、色ボケジジイ」


 思わず出てしまった言葉と共に火かき棒が再び振り上げられた。

 宣言通り、天狐の肩に振り下ろされる。

 激痛と共に伏せる天狐を踏みつけ、ベルフは薄く笑った。

 

「私の提案には「はい」しか聞かん」

「……おめでたいやつだな。 魔力が戻ったらこの屋敷の奴ら全員皆殺しだ。 貴様は最後に殺してやる、感謝しろ」


 ベルフが面白くなさそうに顔を顰めた。

 先程より強く天狐を殴り、牢屋から出る。

 血のついた火かき棒は、床へ投げ捨てられた。


「躾が必要だな。 もう二度とそんな口が利けないように、死ぬより酷い目に合わせてやる」


 ベルフが言い終わると、軽く手を挙げて連れてきた男たちに目配せをする。


 ランプの火が、ゆらりと大きく揺れた。

 


*****



 ドッドウェルは困っていた。

 今日はヴァルムで美味いつまみと共にエールを飲みたい気分だったのに、臨時休業の張り紙が張られていたのだ。

 達筆ではあるが流れるような走り書き具合を見るに、何かに焦っていた様子が伺える。

 

「天狐ちゃんの具合が悪いのかな……」


 それならば仕方がない。

 しかし何処へ行こう。

 張り紙を眺めながら棒立ちしているドッドウェルの横に強面の若い男が立つ。


「あれー……奥さんの具合悪いのかな」


 ドッドウェルと同じ言葉を呟くその男には見覚えがあった。

 

「アタック? 久し振りじゃん」

「ドッドウェル! 久し振りだなぁ! 良い飲み屋知らない?」


 アタックも考えることは同じのようで、結局二人で案を出し合ってアタックおすすめの飯屋へ行くことになった。

 安くて美味い飯屋で好物の唐揚げを頬張り、いつの間にか貴族の仲間入りをしたアタックの近況を聞く。

 夜会の食事も美味いが、やはりこういった飯屋のほうが好きだと語るアタックと話が盛り上がり、食事が終わってからはバーへと向かった。

 バーはドッドウェルのお気に入りである、アルコリズモ。

 席は少ないしマスターの愛想も悪いが落ち着いて飲める良い場所だ。


 店へ入ると、常連の娼婦以外誰もいない。

 いつもの光景である。


「やっほー、ドッドウェル。 なんかイイ男連れてるじゃん〜」

「ハニー、初見の客に絡むな」


 すでにへべれけになっている娼婦のハニーがふにゃふにゃとしながらアタックに絡む。

 そこへマスターの苦言が飛んだ。

 

「アタックだ。 よろしくな」


 臆せずアタックがウインクを飛ばす。

 それに苦笑しがら、ドッドウェルは水割りを注文した。

 程なくして、水割りが二人の前に置かれる。


「マナーの講師がめっちゃ怖くてさ……」


 アタックが話を始めると、バーの扉が開いた。

 客が来るなんて珍しいことだ。

 自然とそちらのほうへ視線をやると、見慣れた男が早足で歩いてきて、ドッドウェルの隣へと座った。


「マスター、強いものをくれ」

「クリフじゃん」


 黒い白衣に自分と同じ顔。

 ドッドウェルよりは顔色が悪いが、並べば双子のようであった。

 アタックが驚いたように二人を見比べる。


「双子なの? 」

「いや〜、うん、まあね。 なんか機嫌悪いけど……どうしたんだよ、クリフ」


 出された酒を一気にあおる。

 それからクリフは深いため息を吐いた。


「エリュプティオが図々しく連絡を取ってきた。 この私にした事を忘れているようだ」

「エリュプティオって……いや、なんであんた、エリュプティオ家と交流があるんだ?」


 ドッドウェルより早く声を上げたのはアタックだった。

 クリフの澱んだ瞳がアタックを一瞥し、伏せられる。


「ああ、君はオラージュ家の……私は一時、エリュプティオの領地であるメロウラージュの小さな村に住んでいた。 もう無くなってしまったがね、その時に色々あったんだよ」

「え、俺それ初耳なんだけど。 それじゃあ、あんたヴァルムのマスターとは面識あったってこと?」

「彼は私を覚えていないようだったが、無理もない。 まあ、その話は置いておいて」


 置いておいて良い話なのか、と言い掛けたドッドウェルだったが、クリフはいつもの早口で次の話を始めてしまった。

 

「で、そのエリュプティオ伯爵が私に会いたいと手紙を寄越した。 誰のおかげでこの私が偽名まで使ってこんなひもじい生活を送っていると思っているのか……」

「あんたが偽名使ってんのは違法な事してるからだし、ひもじい生活してんのはあんたが仕事しねーからだろ」

「まあ、それもある」

「ちょっと待ってくれドッドウェル。 このヒト頭おかしいのか? もしかして貴族と関わりがあると思い込んでるだけの被害妄想家なんじゃ……」


 それは多分そう。

 ドッドウェルはまたも言いかけて黙り、アタックに目配せした。

 アタックは無言で頷くと、目の前の水割りを見つめることに集中する。

 あまり関わらない方が良いと判断したのだ。


「で、手紙にはなんて?」

「領地を荒らす害獣を捕獲したが、特殊な魔獣でどうやっても死なないので見に来て欲しいそうだ。 要領を得ないから、何かの罠かもしれん」

「今更あんたを罠にはめる理由って何よ」

「私が天才だから……」

「あっ、そうね。 マスター、水割りおかわり」


 一旦、クリフの話をスルーした。

 それから水割りを飲みつつ、アタックのいるほうへ身体を向ける。


「なあ、アタック。 メロウラージュって何が有名なの?」

「あ? ああ、フルーツが美味いよ。 桃とかブドウとか……一度食ったら忘れられないくらい美味い。 最近は香水なんかも出し始めたな」

「へえ、桃もブドウも高いからなあ。 香水も使わないし、俺には縁が無いかも」


 呟くと、話を聞いていたマスターのニクスが徐ろにドッドウェルの前へワインを二本並べた。

 

「え、なに?」

「こいつはメロウラージュ産のワインだ。 ブドウと桃。 飲んでみるか?」


 如何にも高そうな、お洒落なラベルのワイン。

 描かれているのは、メロウラージュの街並みだろうか。

 やや古めかしいそれは、入荷したは良いものの客が少なすぎて誰も注文しなかった物かもしれない。

 ドッドウェルはラベルを眺めながら、眉を寄せた。

 こんな高い物を買う金は無い。

 そんなドッドウェルを見ていたアタックが、ワインを手に取る。

 

「奢るから飲んでみる?」

「えっ、いいの!?」

「良いよ! みんなで飲もーぜ」


 さすがは貴族。

 値段を聞くこともせず、この場の全員にワインを二本振る舞う気前の良さだ。

 きっと今後飲むことはないであろう高級ワインが目の前で注がれ、豊かな香りが店内に広がる。 

 ドッドウェルはアタックに心の底から感謝した。

 

「このまま放っておいたら俺が開けちまっただろうな……」


 ニクスが小声で呟く。

 それからワイングラスを揺らし、まずは香りを楽しんでから一口含んだ。

 ドッドウェルも同じように一口。

 そして、その繊細な香りに目を見開いた。

 舌の上を滑るしなやかな渋みと芳醇な味わい、飲み込んだあとも口の中に香りが残り続けて、一口しか飲んでいないのに幸せな気分に満たされた。

 

「うま……こんな美味い酒があるのか……」


 一度食べたら忘れられない、とアタックが言うのも頷ける。

 これだけ美味しいワインがあるなら、ブドウも桃も、もちろん美味しいのだろう。 

 ふわふわとした気持ちのまま、グラスの中のワインを飲み干すと二杯目が注がれた。

 こんなに幸せなことがあっていいのか。

 ドッドウェルは再びアタックに深く感謝した。


「美味しいよね〜! こういうのがあるから、伯爵のアフターが一番好き!」

「……アフター? 誰の……?」

「エリュプティオ家の当主」


 ハニーがとんでもない事をさらりと言った。

 これにはアタックも眉を顰めていたが、少し興味があるように身を乗り出した。


「うち、エリュプティオ家と仲が良いんだけどさ、俺は伯爵にあんまり会ったことないんだよね。 どんなヒトなの?」

「えっとねぇ、渋くて優しいオジサンで……好きなタイプは銀髪で大人しそうな子。 私も良く指名されるけど、一番贔屓にしてるのは、エルフ専門の娼館だって噂! 結構な援助してるらしいよ」


 くるくるとワイングラスを回しながら、ハニーが軽快に語る。

 一同が「へぇ」と相槌を打つ度に、伯爵の個人情報がどんどん流れていった。


「伯爵、ディナーや演劇の趣味も良いし、プレゼントとか差し入れもめっちゃわかってるー!って感じなんだよねえ。 ドSで独占欲強めだけど、ちゃんとフォローしてくれるから許せるし、娼婦から人気あるんだよ」


 ドSで独占欲強め。

 ドッドウェルはそのワードを聞きながら、なんとなくフロガの顔を思い浮かべた。

 そんな父親から、あんなに優しいフロガが生まれたのは何かの間違いなのではないだろうか。

 それとも、貴族という立場がそうさせているのか。


「貴族ってみんなそういうもんなの?」


 ドッドウェルがぼやくと、ハニーは頬杖をついて考えた。

 

「うーん、政略結婚が多いから飽きちゃうんじゃない? 奥さんにも愛人いるって伯爵が言ってたし。 アタックのところはどうなの?」

「うちは仲いいよ。 まあ俺、愛人の子供だけどな」 

「そんなもんだよね〜」


 ハニーがけらけらと笑う。

 アタックも笑ってみせると、ワインを一口飲んだ。

 釣られてドッドウェルもグラスの中を空にする。

 

 貴族の世界というのはわからないものだ。

 夫婦なんてものはもっとわからない。


 ぼんやりとワインのラベルを眺めながら、ドッドウェルはそんな事を思った。 


「あー……早くヴァルム再開しないかな」


 こんなときは、フロガに話を聞くのが一番良い。

 夫婦の話なんてすれば、きっと惚気話になってしまうのだろうが、それも楽しそうだ。


 注がれたワインに映るドッドウェルの瞳は、どこか遠くを眺めていた。

 



*****





 地下室の扉が開く。

 薄暗く、黴臭かった地下とは打って変わって、眩しい照明と花の香りがベルフを包んだ。

 表現ひとつ変えないベルフに、扉の前で待っていた細身の若い男が深々と頭を下げる。

 

「お帰りなさいませ、旦那様。 あの魔獣はいかがでございましたか?」


 彼はフットマンのガルディアだ。

 灰褐色の短髪に、真夜中のような群青色の瞳が暗く光る。

 最近はリカルドの代わりにベルフの側にいることが多い。

 

「やはり死なないようだ。 クリフから連絡は来たか?」

「いえ、まだです。 代わりに専属錬金術師のメリオラを呼びました。 三日後に来るそうです」

「そうか。クリフには引き続き連絡を取れ」

「かしこまりました」


 短いやりとりを終え、ベルフはダイニングルームへと向かう。 

 革靴の軽快な音が静かな廊下に響き始めると、ガルディアは礼を解いて顔を上げ、ベルフの後ろを歩いた。

 灰色の混ざった焦げ茶の髪を眺めるガルディアの瞳が、微かに細くなる。


(旦那様は随分苛立っているな)


 こういうときは、話しかけないほうが良い。

 話しかければ、八つ当たりされるからだ。

 今日の夕飯のメニューも、明日の予定も、監視しているリカルドの動向も、全て聞かれたときに答えれば良いのだ。

 

 無言で後ろを歩きながら、曲がり角を曲がる。

 ふと、ある部屋の前でベルフの歩みが遅くなった。

 ここは執事室、リカルドのいる部屋だ。


「……リカルドはどうしている?」

「フロガ様と共にいましたが、すぐに職務へ戻りました。 今は探知魔法を最大値で稼働させているようです」

「ふん、無駄なことをしているな」


 無表情だったベルフが笑う。

 この男はリカルドが困っていると嬉しくなるのだが、それを知っているのはガルディアだけである。

 また速足になったベルフの後ろを、ガルディアは歩く。

 

(ああ、わかるぜ旦那様。 俺もあいつが困っていると嬉しいよ。 だから早くあいつを失脚させて、俺を執事にしてくれよ)


 ベルフは雇い主で、ガルディアはフットマン。 立場は全く違うがその気持ちには強く共感していた。

 あのエルフの取り澄ました顔が曇る姿を想像すると、ガルディアは優越感を抱くのだ。

 耳を削がれた時の驚いた顔が、最近では特に好きだ。

 きっとあの出来事は、リカルドの胸に深い傷として残っているのだろうと思うと、ガルディアは心が躍る。


 ──しかし、そんなガルディアの抱く感情と、ベルフの抱く感情は、全く別のものである。

 そのことに、ガルディアは気付いていない。

 おそらく、気付くこともないのだろう。


 ベルフの革靴が、再び忙しなく廊下を叩く。

 まだ苛立ちの残る靴音は静かに迫る雷鳴に似ている。

 この雷鳴はいずれ何処かへ落ちるのだろういうことを暗示しているようであった。

 

 ダイニングルームの前まで来たので、ガルディアは先回りして扉を開く。

 長テーブルの両端に座るクレヴォとトリアを捉えた瞬間、ベルフは静かに言った。


「フロガはどうした?」


 クレヴォが興味無さげにワインを揺らす。


「さあ、部屋にいるか……帰ったんじゃないですか」


 一瞬、ベルフの肩が揺れる。 その瞬間、ベルフの内に溜まっていた苛立ちがビリビリとガルディアの肌に伝わってきた。

 ああ、これは落ちるな。

 ガルディアはそっと壁際に立って、雷が落ちる瞬間を待った。


「帰っただと? それで何故呑気にしていられるんだ?」


 ベルフの静かな憤りを感じたのか、クレヴォは揺らしていたワイングラスを置いて眉を顰めた。


「え、まさか本気でフロガに家督を継がせるつもりなんですか? 私はてっきり脅すだけかと、」

「黙れ! 貴様がいつになっても子供を作らないから、面倒な事までしてフロガを呼び戻したんだ!! この、役立たずが!」


 この落雷を皮切りに、ベルフの怒りが頂点に達した。

 「役立たず」という言葉から始まったそれは「不能」「種無し」と耳を塞ぎたくなるような暴言の数々をクレヴォに浴びせた。

 暴言一つにつき目線を少しずつ落としていたクレヴォが完全に俯き始めたころ、トリアが堪らず声を上げる。


「お父様! そこまで仰らなくても……」

「黙れ! 貴様もいつになったら結婚するんだ? 選り好みなんかせずにさっさと出ていけ!」

「で、ですが、わたくしはエリュプティオに入ってくださる殿方を……」

「邪魔だと言っているのがわからないのか? 察しが悪い……これだから女は駄目なんだ。 まったく、兄妹揃って役立たずの穀潰し共め!」


 トリアが唇を固く結ぶ。

 クレヴォと同じように俯くと、大きな瞳から小さな雫が落ちるのが見えた。

 だが、そんなトリアを気にする様子もなく、ベルフは勢いよく食堂を出る。  

 その後をガルディアが追い、食堂は沈黙に包まれた。

 トリアが涙を拭く。 その様子をクレヴォは目の端に捉えて顔を上げた。


「……俺のせいだよね」

「兄貴は悪くねーよ」


 涙ぐむ声が痛々しい。

 トリアの赤く腫れた目の周りをメイドが濡れたタオルで冷やしている。 クレヴォはそこから目を逸らし、残っているワインを飲み干した。


「お前が婿探ししてるの、俺たちに子供ができないからだろ。 親父にそう言えば良いじゃん」

「そんなんじゃねえよ。 ……もう部屋に行く」


 クレヴォの言葉を待たず、逃げるようにトリアは食堂を出て行った。

 クレヴォも席を立ち、自室へ向かう。

 重い足で部屋に入れば、妻が紅茶を飲んでいた。

 

「あら、クレヴォ様。 どうなさったの? すごく良い……いえ、酷いお顔よ」

「フォリー…………俺は、ずっとうまくやっていたよな?」


 クレヴォがソファに深く座り、髪を掻き乱して頭を抱える。

 フォリエンヌは紅茶を静かに置き、クレヴォの隣に寄り添って手を取った。


「ええ、もちろんよ。 クレヴォ様のおかげで、エリュプティオのお友達の輪が広まりましたわ。 それに、最近始めた香水だって、御婦人方にとても好評よ」

「そう……そうだよな。 フロガなんかいなくても、俺はうまくやってきたんだ」

「フロガ様? ……クレヴォ様はフロガ様とは違うわ。 いても居なくても同じではなくて?」


 クレヴォが蒼白になった顔を上げる。

 紫紺の瞳は血走り、怯えとも狂気とも言えない光を抱えて何処か一点を睨みつけていた。


「え? ああ……そうだ。 俺はフロガとは違う」


 うわ言のように呟いたクレヴォの背中を、フォリエンヌが優しく撫でる。

 その顔は、まるで美しい音楽に聴き入っているかのように、うっとりとしていた。


*****



 大股で歩くベルフとの距離を一定に保ちながらガルディアも廊下を蹴り、言葉を待つ。

 やがて執事室を通り過ぎて大広間を渡り、階段を登った頃、ようやくベルフが口を開いた。

 

「リカルドを呼べ」

「は……すぐに。 ディナーは如何なさいますか?」

「外で食ってくる。 どうせアリッサも愛人の所にいるんだろうから、私も今日は帰らん」

「かしこまりました」


 曲がり角の先にベルフの自室がある。

 その扉が見えてから執事室へ向かおうとしたガルディアだったが、ベルフの自室が見えると同時に扉の前で誰かが立っている事に気付いた。


「旦那様、お呼びでしょうか」


 リカルドだ。

 線の細い銀髪がまるで光でも纏っているかのように輝き、深い銀の瞳がベルフを穏やかに見つめている。

 

「部屋で話す。 ガルディアは下がれ」

「……かしこまりました」


 頭を下げた拍子にガルディアは下唇を噛んだ。  

 何故、話に同席できないのか。

 ベルフの信頼は確実に掴んでいるはずなのに、未だガルディアは深い話に関わることができない。  

 それどころか、こうして邪魔だとでも言うように下げられる事が多い。  

 扉の開く音がして、頭を上げて見ればリカルドの涼しい視線がガルディアを一瞥し、ベルフに続いて部屋に入った。

 まるで床に残った埃でも見るかのような目だ。  


(俺が旦那様のそばにいるのが妬ましいのか) 


 きっとそうだ。

 ガルディアはそう思うことで優越感を覚える。

 どうせ近いうち、あのエルフはフロガ関連で問題を起こすはず。

 そうしたら、ベルフは今度こそリカルドに暇を出すだろう。   

 固く閉じられた扉を睨みつけて、ガルディアは踵を返した。




「フロガは何をしている?」


 大きなソファに身体を預け、ベルフが鋭い視線をリカルドに投げた。

 それを肯うように微笑みを口許に浮かべているリカルドが静かに答える。


「お部屋で眠っておられます」

「そうか。 で、言う事は聞きそうか?」

「いえ」

「なら、お前やミーティスの魔法で何とかしろ」

「魔法……と仰いますと?」 


 苛立ちを含んだ大きなため息が漏れる。

 それから大きな舌打ちをしてリカルドを睨みつけたが、穏やかな表情はそのままに小さく首を傾げてベルフの言葉を待っていた。


「催眠でも洗脳でも何でも良い。 私に皆まで言わせる気か」

「お言葉でございますが、魔法も魔術も万能ではございません。 フロガ様の負担を考えますと……」

「いい加減にしろ! どうしてそこまで私に歯向かう!! もう片方の耳も削がれたいのか!?」

「滅相もございません。 かしこまりました、ミーティスと相談して善処致します」


 流れるように礼をしたリカルドが顔を上げる。

 怯えも狼狽えも一切無い表情は、慈愛すら含んでいるように見えた。

 ベルフはその顔から視線を逸らし、また大きなため息を吐く。


「どこかお身体の具合でも……?」

「ああ、胃が痛くなるよ」

「それは大変です。 すぐに医者を呼びます」

「いや、いい」

「さようでございますか……」


 ようやく表情が崩れた。

 眉間に刻まれた小さな皺が面白くて、ベルフは思わず笑みを浮かべて満足する。

 それからソファから立ち上がり、扉へ向かった。


「出かけてくる。 明日の昼には帰るから、それまでにフロガを何とかしておけ」 

「承知致しました。 お出かけでしたら、エテルネルのハニーを手配致しましょうか」

「いや、今日はファタールのメルロスにする」

「かしこまりました。 では、ファタールに連絡致します」


 屋敷の外までベルフに付いて歩き、馬車を見送ってからリカルドはミーティスを執事室に呼んだ。

 程無くして、胡散臭い笑顔を浮かべたミーティスが執事室にやってきた。


「どうしました? リカルド」

「旦那様からのご命令で、フロガ様を従わせるように、とのことです」

「おやおや、強引ですね」

「随分焦っておられた」


 ミーティスが喉を鳴らして笑う。

 その様子を眺めながら、リカルドは招待状の整理を始めた。


「従わせる……となると、洗脳か催眠ですが。 どっちにします? フロガ様は頑固な方ですから洗脳は難しそうですね」

「ですねぇ。 となると催眠魔法ですが……」

「催眠は解除のトリガー設定をしなければいけません。 でも、旦那様は急いでおられるから仕方ありませんね」

「ええ。 解除のリスクはありますが、旦那様の希望に沿うとなると催眠でしょうね」

「では私がやっておきますね」

「私も行きましょう」


 整理し終わった招待状を机の上に並べ、リカルドが席を立つ。

 先を歩くミーティスの後に続き、フロガの部屋の前に着いた。

 ミーティスが振り向き、部屋の扉を指差して首を傾げる。 それに頷くと、ミーティスは扉を軽くノックした。


「フロガ様、失礼致します」


 扉を開ける。

 先に入ったミーティスが広い部屋を見渡すが、ベッドで眠っていたフロガの姿が見えない。


「おや……」


 疑問の声を上げ、もう一歩踏み出した瞬間、空気が動く気配がした。

 微かな気配。 まるで影が忍び寄るような感覚だ。

 しかしその気配を感じた頃には遅く、ミーティスの首に硬い腕が周り込み、喉元に食い込んでいた。

 後頭部には片方の手が添えられ、首が不自然な角度に固定されて圧迫感が襲ってくる。


「俺と天狐をこの屋敷から出せ。 従わないなら、お前の首をこのまま折る」


 耳元でフロガの低い声が響く。

 ミーティスはいつものように小さく笑ってみせた。


「お優しい貴方にそんな事ができますか」


 ぎち、とフロガの腕の筋肉が鳴る。

 ほんの少しだけ圧迫感が強まったと思った瞬間、フロガの腕から力が抜けた。

 同時に拘束が解かれ、背後で倒れる音がする。

 振り返れば、フロガが倒れていた。


「まことに申し訳ございません、フロガ様。 旦那様のご命令により、心を静める魔法をかけさせていただきます」


 言いながら、リカルドが部屋のクローゼットの影から現れる。

 いつの間に移動していたのかわからないが、静かに歩いてきて深く礼をした。

 この隙に、ミーティスはそっとフロガの肩に触れて詠唱を始める。


「リカルド……俺はお前を信じていたのに……」


 紫紺の瞳が揺れる。

 その瞳を、リカルドは穏やかな視線で見つめ返し、そっと耳打ちをした。


「その信頼を裏切るつもりはございません。 お心を落ち着け、奥様と再びお会いになれば、この呪縛も自然と解けるかと存じます」


 紫紺の瞳から徐々に光が失われていく。

 自嘲気味に乾いた笑いを吐いたフロガが、虚ろな声を上げた。


「天狐と会うのはそれが最期……じゃ、ないよな」


 その言葉が終わると、フロガの瞳は閉じられた。


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