エリュプティオ①
その日、天狐は体調を崩していた。
高熱、頭痛、関節痛、筋肉痛、倦怠感……そんな症状が出始めて、今日で五日目である。
こうして天狐が体調を崩すのは、決まって季節の変わり目だ。
魔法や魔術は一切使えなくなり、狐の姿に変わる気力も体力もない。
長ければ一月、この状態が続くこともある。
「今回は症状が重くて長いな……何か飲む?」
天狐が首を振る。
そんな様子を見ながら、フロガは天狐の手を緩く握った。
「良くなるまで店は休むから、欲しい物があったらすぐに言うんだぞ」
フロガを見上げる天狐の瞳は小動物のようだ。 握った手は弱々しく握り返された。
どうやら人恋しいらしい。
「ふろが……」
絞るように出された声が、名前を呼ぶ。
今にも泣きそうな顔で見上げたあと、間を置いて口が閉じられた。
「どうした?」
天狐が目を逸らす。
ややあって、控えめにフロガの手へ頬を寄せた。
それが何を意味しているのか、フロガはすぐにわかった。
きっと、人恋しくて甘えたいのだろう。
「一緒に寝ようか」
「ん……」
頷く天狐の頭を撫でてやり、隣に入った。
優しく抱き締めると、天狐の腕が伸びてきて胸板に顔を埋める。
しばらくすると、穏やかな寝息が聞こえてきた。
「早く良くなるといいね」
体調を崩すたびに、そう言っている。
天狐の寝息を聞きながら、フロガもゆっくりと目を閉じた。
*****
「フロガ様、 起きてください」
執事の声が聞こえる。
実家にいたころは、よく起こしに来てくれた事を思い出して、今日はどんな予定だったか、フロガはまだ眠っている脳で思考を巡らせた。
「リカルド……今日は……」
言いかけてから、急に頭が冴えてきた。
何故、ここにエリュプティオ家の執事がいるのだ。
フロガが勢い良く飛び起きると、エルフの老夫が穏やかな笑みを浮かべて、フロガを眺めていた。
「リカルド……? どうして、ここに……」
部屋を見回す。
いつもの、小さな寝室だ。
ダブルサイズのベッド、2つの枕、ベッドサイドにあるランプ。
どれも眠る前と同じ。
一つだけ違うのは、天狐がいないということだけだった。
「天狐……天狐は!?」
「奥様は誘拐されました」
「は……? 誘拐って……」
「エリュプティオ家へ、連れて行かれたという事でございます」
耳を疑った。
一体いつ、どうやって、そもそも目的は何なのか。
フロガは様々な思考を巡らせたが、まずは自分を落ち着かせる為に深いため息を吐いた。
手段はわからないが、目的なんてものは考えなくてもわかる。
フロガは穏やかな笑みを浮かべているリカルドを見やった。
「俺に用があるってことか」
「はい。 旦那様がお呼びでございます」
「わかった」
身支度を整え、店がある路地の先に止めてある馬車に乗り込んだ。
向かいに座ったリカルドは、相変わらず穏やかな表情を崩さない。
彼はフロガが家にいる頃からずっとそうだった。
外見も変わらないし、忠誠心も変わらない。
エリュプティオの血に心底惚れ込んでいるエルフだ。
「フロガ様、まことに申し訳ございませんでした」
「天狐を連れて行ったのは、リカルドなのか?」
強い魔力を持つリカルドなら可能だろう。
しかし、リカルドは首を振ってみせた。
「いいえ。 旦那様が雇っている魔法使いが、奥様の結界を破ったそうです」
「まあ……今の天狐は強い結界は張れないからな」
「私がこの計画を知っていれば、奥様を安全な場所へ連れて行けたのですが」
目を伏せたリカルドが、珍しく憂いの表情を浮かべる。
「あれ以来、旦那様は私を側に置いてくれません。 執事という立場はそのままですが、重大な事は私に隠しているようです」
あれ、というのはフロガが家を出た日のことだろう。
リカルドはわざとフロガを見逃した。
それが発覚してから、フロガの父であるベルフはリカルドを遠ざけいるらしい。
「ごめん……」
「いいえ、フロガ様の責任ではございません」
また、穏やかな笑みに戻る。
ふとその姿をよく見てみれば、十五年前と一つだけ違っている箇所を見つけた。
「リカルド、その耳は……」
エルフの特徴である、とがり耳。
特にリカルドの耳は、とても綺麗な形をしていたのをよく覚えている。
その耳が、片方だけ削がれている事に気が付いた。
「ああ、これは旦那様が私に罰と称して削いでしまったのです。 フロガ様を逃がし、居場所を言わない私に少々苛立ってしまわれたようで……」
「なんてことを!……いや、俺のせいだよな」
「いえ、どうぞお気になさらず。 こんな事をされたのは700年仕えてきて初めてでしたので、記念としてそのままにしております。 ご希望とあらば、すぐに治すことができます」
なんだか嬉しそうに笑うリカルドに、フロガは何とも言えない気持ちになって口を閉じた。
そんな話をしているうちに、貴族街区に入り、屋敷が近付いてきた。
十五年ぶりに訪れたタウンハウス。
こちらには舞踏会や晩餐会のある時期によく来ていた。
その外観を見ただけで、蓋をしていた昔の記憶が次々と蘇る。
フロガは奥歯を噛み締めながら、リカルドに誘導されて玄関をくぐった。
大広間を通り、階段を登る。
踊り場には見慣れたタッチの肖像画が飾られており、フロガは呆れを含んだため息を吐いた。
「父さんはまだアデラールに肖像画を描かせているんだね」
「あちらで20枚目でございます」
「……もしかして毎年描かせてるの? どうかしてるよ」
「旦那様は高尚なご趣味を多数お持ちでいらっしゃいます。 絵画もその一つでございますので……」
「あー、うん。 わかったよ、もう大丈夫」
またしばらく歩いて、ようやく父であるベルフの部屋の前へ来た。
リカルドが、ドアをノックする。
「フロガ様をお連れしました」
「ああ、入れ。 リカルド、お前は下がって良い」
声を聞いた瞬間、フロガは嫌悪感からゾワリと背中が粟立った。
冷静に話ができるだろうか。
そんな心配をしながら、開けられたドアの先へ進む。
小さな頃から見慣れていた、父親の部屋。
大きなシャンデリアに、赤い絨毯、内装は豪華ではあるが、家具は少ない。
ソファに机が部屋の中央に置かれ、大きな窓をバックに重厚な書斎机と黒い椅子。
部屋の横にある扉の先には寝室があるのだろうが、フロガはそこへ入ったことはない。
昔と何ら変わらないその部屋には、幾分か老けた両親、自分と同じ顔をした兄のクレヴォがいた。
「久し振りねぇ、フロガ。 お母さん、ずっとあなたを心配していたのよ。帰ってきてくれて良かったわ」
ソファに座っている母、アリッサがにっこりと笑う。
その向かいには双子の兄であるクレヴォがつまらなそうにしている。
二人を一瞥し、フロガはベルフの座る机の前に早足で向かった。
「妻はどこですか」
「ほう、妻なんていたのか」
「惚けないでください。 貴方達が仕組んだんでしょう」
なるべく声を荒げないように、フロガは静かに問う。
ベルフは鼻で笑うと、手元のティーカップを持ち上げた。
「仕組んだ? 違うな。 珍しい獣を一匹、捕らえてくるように指示を出しただけだ」
「……獣?」
「貴様のペットのことだ。 クレヴォから聞いたぞ、南区で見窄らしい食堂をやっているそうだな」
「ペット」
今すぐ目の前の男を殴ってしまいたい。
拳が震えているのをなんとか抑え込みながら、フロガは横にいるクレヴォを睨んだ。
「クレヴォ。 お前、どういうつもりだ」
「父さんがお前の居場所を知りたいっていうから、調べてあげただけだよ。 お前、来いって言っただけじゃ来ないだろ」
「だから天狐を攫ったのか」
「そうだよ。 にしても、お前に似合わない嫁だけど、どこで拾ったの?」
そろそろ限界が近い。
勝手に動いた拳を力いっぱい机に叩き付けると、ティーカップから紅茶が溢れた。
「もう一度聞きます。 妻はどこですか!」
「貴様に妻はいない。 食堂も辞めろ。 これからはエリュプティオの為に働け。 まずは嫁探しだが、良さそうな所を選んでおいたから、今度の夜会で会ってこい」
「何を言っているんです?」
「言う事を聞くなら、ペットを飼う許可を出してやっても良い」
「……あはは。まるで話にならない」
怒りが頂点に達すると、逆に冷静になるらしい。
思わず乾いた笑いが出てしまったフロガは、話をすることを諦めた。
「俺はこの家に帰る気はありません。 貴方達は他人だ」
「私は貴様と縁を切ったつもりはない」
「そうやって、貴方達はいつも俺の話を聞きませんね。もう関わらないでください」
そう吐き捨てて、フロガは部屋を飛び出した。
「…… 底辺の暮らしをしていると、怒りっぽくなるのかしら?」
アリッサが眉を顰める。
向かいに座っていたクレヴォが立ち上がり、フロガと同じ顔で両親に笑いかけた。
「気持ちに余裕がないと頭に血がのぼりやすいそうですよ。 じゃ、話は終わったし、私は部屋に戻ります」
軽く一礼し、クレヴォも部屋を後にする。
自室へ向かって歩いていけば、フロガとリカルドを見つけた。
その後ろ姿に、クレヴォは意気揚々と明るく声を上げてみる。
「フロガ、久し振りだな」
「クレヴォ……お前……」
怒りの籠もった瞳が向けられる。
同じ紫紺色の瞳、同じ造形の顔。
会うのは十五年ぶりなのに、年を取った自分と同じ顔をしていることが、クレヴォは不思議でならなかった。
「そんな顔するなよ。 俺は提案しただけ。 まさか嫁さん閉じ込めてお前を脅すなんて思ってなかったんだって」
「天狐はどこにいる?」
「全部親父が指示してるから俺は知らない。 リカルドは?」
リカルドが申し訳無さそうに眉を下げる。
「申し訳ございません。 旦那様は私に不信感を抱いているようでして、今回のことは何も……」
「そう。……ってことでさ、とりあえず嫁さんは諦めて貴族生活に戻れば? そのうちペットとして連れてきてくれるみたいだし」
「……本気で言ってるのか?」
フロガの拳に力が入るのを見て、クレヴォは口の端を吊り上げた。
あの優しいフロガが、怒りを露わにしている。
これは、いつも被っているお人好しの仮面が外れた瞬間だ。
なんて気持ちが良くて、堪らなく楽しいのだろう。
所詮はフロガも自分と同類で、この家の駒に過ぎない。 そう思うと、安心感すら覚えるのだ。
だから、もっと煽ってやろうと思った。
フロガの肩を組み、まるで仲の良い兄弟みたいに、クレヴォはにこりと笑ってみせる。
「だって、そうしないとお前の嫁さん殺されちゃうでしょ」
「は?」
「それとも物好きに売られるか……あ、どっちにしろ死んじゃうかもね」
言い終わるや否や、クレヴォの身体が一瞬浮く。
襟を掴まれたと思ったときには背中に強い衝撃が走り、 壁に当たったのだとわかった
間髪入れずに、顔の横を拳が過る。
みし、と拳が軋む音と壁のひび割れた音が耳のすぐ横で聞こえたが、正面からから目を離すことができない。
フロガが見たことのない形相でクレヴォを睨んでいるのだ。
「クレヴォ。それ以上、俺の前でふざけた事を言うな。 ……頼むよ」
──こんなフロガは知らない。
胸ぐらを押さえている腕は自分のものよりも太く、力強い。 少しでも動けば、喉を潰されてしまうのではないかとすら思った。
拳が壁から離れると、ひび割れた破片がクレヴォの肩にパラパラと落ちてくる。
「冗談だよ」と笑おうとして、呼吸を忘れていることに気付いた。
唾を飲み込んでみて、漸く息を吹き返したような感覚に陥ったクレヴォは、込み上げてきた恐怖を吐き出すように咳き込んだ。
その様子を冷たい目で眺めながら、フロガが一歩下がる。
「リカルド。 何かわかったら教えてくれ。 俺はとりあえず一部屋ずつ見てみるよ」
「かしこまりました」
遠ざかるフロガの背中を、恨めしげに睨む。
(偽善者のくせに……)
今でこそ必死に居なくなった嫁を探しているが、どうせ昔のように何もかも捨てて出て行くのだ。
クレヴォは軽く舌打ちをして、フロガとは反対方向へと歩き出した。
*****
一部屋ずつ見て回る、と言ったものの部屋数を考えると恐ろしく時間がかかる。
あまり効率的ではないのはわかっていたが、こうする他ないだろう。
「この屋敷には私の結界を張ってありますので、部外者が入ればすぐにわかります……が、奥様の気配は今の所感じません」
「ここにはいないかもしれないって事か」
「若しくは、何らかの違法魔具を付けられていて、探知妨害されている可能性もございます」
「違法魔具……確かにそれぐらいはやりそうだ」
フロガが眉間を押さえる。
考えていても仕方が無いが、あまりにも手掛かりがなさすぎるのだ。
そもそも、どうしてそこまでしてフロガをここに留める必要があるのか、理由もわからない。
いっそ、諦めたふりをしてみようか。
ふと、リカルドが懐中時計を見る。
彼にも仕事があるのだろう。 なんせ、執事というのは多忙である。
「……リカルドは仕事に戻って良いよ」
「申し訳ございません。 微力ながら、業務中も探知魔法は発動させておきますので、何かわかりましたらすぐに報告致します」
「ありがとう。 忙しいのにすまない」
「いえ。 私はこの家の執事ですから、何なりとお申し付け下さいませ」
リカルドが深々と一礼し、フロガの背中を見送った。
「……さて」
一人きりになり、フロガは改めて屋敷の構図を思い出す。
使用人たちの部屋を含めれば、かなりの部屋数になるのだが、この辺は省略しても問題ないだろう。
ベルフの性格を考えれば、そんなうっかり誰かが見つけてしまいそうな場所に隠したりはしないはずだ。
「確か地下室もあったよな」
呟いてから、フロガは地下室へ通じる扉へと向かった。
が、扉の前に着いた瞬間、不思議とここには天狐がいない気がしたのだ。
「……ここは違うか」
他を探そう。
フロガは踵をかえして、別の部屋を当たることにした。
「クレヴォ様、こんな所で何をされているのですか?」
ふと、後ろでそんな声がした。
聞いたことのない声の方へ振り返れば、長い青髪の男がフロガの方へと歩いてくる。
歳は二十代後半あたりだろうか。 細い目と三日月のような唇は一見優しそうにも見えるが、どうにも胡散臭い。
フロガは少し後退って、男から距離を取った。
「いや、俺は……」
「おや、今日は珍しい御召し物ですねぇ。 いつもの仕立て屋では無いようですが、良い職人でも見つけたのですか?」
男が話を進める。
このまま誤解を解いても良いが、ここは少し探りを入れてみることにした。
「まあそんなところ。 俺がここにいたのは、フロガのペットを探してたんだけど……どこに居るか知ってる?」
ペット、という言葉に嫌悪感を覚えたが、なるべく自然になるように話した。
青髪の男は首を傾げたが、しばらくして「ああ」と声をあげた。
「フロガ様の奥様のことですか。 いえ、私も存じ上げません。 探知魔法を使ってみましょうか?」
「リカルドにやってもらってるんだけど、見つからないらしいんだ」
「おや、そうでしたか。 リカルドが難しいのなら私も無理でしょう。 おそらく、部屋か何かに違法魔具が取り付けられているのでは?」
考えることは同じだ。
フロガは諦めて、クレヴォのふりをやめることにした。
「……ごめん、俺はクレヴォじゃないんだ」
「おや! ……もしや、あなたがフロガ様ですか?」
「まあ……」
「双子というのは本当にそっくりなんですねぇ。 全くわかりませんでした」
特に狼狽える様子もなく、男がくすくすと笑う。
妙に人当たりがよくて、言葉の端々もなんだか胡散臭い。
エリュプティオ家の内情を探る程度に留めて、あまり信用しないほうが良いだろう。
「君の名前は?」
「これは失礼致しました。 私はミーティス・カロスィナトスと申します。 この家の専属魔法使いです」
「そうか。 久し振りに戻ってきたから、把握しきれていないんだけど、君以外に魔法使いはいる?」
「ええ、 他に三名ほど常駐しております」
となると、この男を含めた四人のうち誰かが天狐を攫ったのだ。
いや、四人全員で誘拐した可能性もある。
「僭越ながら、私が奥様を誘拐させていただきました」
「え……」
にこり、とミーティスが笑う。
一瞬呆気に取られたが、フロガはすぐに後ろへ下がり、ミーティスから更に距離を置いた。
「そんなに警戒しないでください。 私も気は進まなかったのですが、雇われている身なので仕方が無かったのです。 リカルドの耳をご覧になったでしょう? 旦那様の命令には逆らえないんですよ」
眉を下げるミーティスだが、糸目のせいで笑っているようにも見える。
フロガは黙ってミーティスを見つめた。
「誘拐後は旦那様が他の従者と共に何処かへ連れて行きました。すぐに戻ってきたので、恐らくこの屋敷内かと思われます。 お詫びになるかわかりませんが、私も探すのをお手伝いさせてください」
「誘拐した張本人を信用できると思う?」
「まあ、無理でしょうねぇ。 ですが、申し訳ないと思っているのは事実です」
ミーティスの口元が笑う。
腹の底が見えないような表情にフロガは若干の不気味さを感じていた。
しかし、一人で探していても効率が悪いのは確かだ。
フロガは距離を置いたまま、そっと警戒を解いた。
「……少しだけ、お願いするよ」
「ああ良かった! では、行きましょう。 まずは庭園からご案内致します」
ぱん、と手を合わせて喜ぶミーティスが歩き始める。
あまり信用はできないが、今は少しでも手掛かりがほしい。
フロガは深く溜息を吐き、先を歩くミーティスの背中を追った。
*****
「きみ、何年くらいここにいるの?」
「そうですねぇ……もう五年くらいでしょうか」
庭園の扉を開け、噴水の方へ向かいながらミーティスが答える。
「随分長いんだね」
「ええ。 お給料が良くて居心地も良いですし、お休みも自由に取れますから」
「そうか。 でも、リカルドへの処罰を見ると……あまり良い職場とは思えないけど」
フロガが言葉を濁すと、ミーティスが薄く笑ったように見えた。
糸目のせいで笑っているのかそうでないのか、判断に困る。
「確かに旦那様は少々ワガママなところがおありですね。 しかし、機嫌を損なわなければああはなりません。 お屋敷にも殆ど帰ってこないので意外と平和なんですよ」
「帰ってこないの?」
「はい。 娼館通いに熱心なようで……奥様も同様に」
フロガが顔を顰めた。
そんなフロガの様子に、ミーティスはクスクスと喉を鳴らしたあと、辿り着いた噴水に身を乗り出して、中を覗き込んだ。
懐から大きな杖を取り出し、魔法で水を宙へ浮かせている。
「口さがない者たちの噂では、トリア様は旦那様の実子ではないとか……」
「そんなことない。 あの目の色は、どう見ても父さん譲りだろ」
「私もそう思いますよ。 さて、噴水の中に隠し通路は無いようですね」
ぱしゃん、と音を立てて水が元通りになる。
次は花壇を見て回り、屋敷の壁を沿って歩いていく。
「ん? これは……何の破片だ?」
途中、分厚い陶器の破片を見つけた。
綺麗な花柄が描かれた陶器……花瓶だろうか。
フロガの手元にあるそれをミーティスが覗き込んだあと、上を見てから納得したように声を上げた。
「ああ、これはアリッサ様の花瓶ですね。 この前、サロンでご友人方に披露しているのを見かけました」
「母さんの? それがどうしてこんな事に?」
「フォリエンヌ様の癖です」
「……癖? フォリ、エンヌ?」
ミーティスがあまりにも自然に答えるものだから、フロガはやや困惑した。
そんなフロガのために、ミーティスは上を指差してみせる。
「あの最上階のお部屋は、クレヴォ様の奥様、フォリエンヌ様のお部屋です」
ミーティス曰く。 フォリエンヌは、聖母のような微笑みと優しく淑やかな振る舞いで使用人たちに人気があるのだという。
クレヴォと夫婦になったのは十年前。 仲睦まじい、理想的な夫婦であった。
「私がここへ来た時は、ちょうどフォリエンヌ様のご懐妊がわかった頃でした。 皆が祝福し、この時ばかりは旦那様とアリッサ様もお屋敷へ頻繁に顔を出しておりました」
一番喜んでいたのはクレヴォだった。
子供のためにベビー用品を買い揃え、使用人も新たに採用し、完璧に準備を整えて出産を心待ちにしていたのだ。
やがて元気な男の子が産まれると、クレヴォが泣いて喜んでいたのをミーティスはよく覚えている。
「あんなクレヴォ様を見たのは後にも先にもあの時だけでした。 このまま、家族三人幸せになってほしいと誰もが願ったでしょうね。 ですが、そうはならなかったのです」
それは、子が三歳を迎えたころだ。
流行病に罹り、看病も虚しくあっさりと天へ還ってしまった。
よく笑い、よく喋る、周りを幸せにするような、愛らしい子供であった。
「クレヴォ様は大層落ち込んでおられました。 もちろん、フォリエンヌ様も……ただ、私の気の所為かもしれませんが、そのときから少し様子がおかしかったような……」
「様子がおかしい?」
「ええ。 フォリエンヌ様は、笑っていたんです」
いつもと変わらない、聖母のような微笑みだった。
肩を落とし、顔を青くしているクレヴォの傍らで、フォリエンヌは微笑みながらクレヴォを眺めていたのだ。
それは、気が触れているというよりは、喜んでいるようにも見えた。
「そのときから、フォリエンヌ様はヒトの大事な物を壊して遊ぶようになりました」
ミーティスは一度だけフォリエンヌに聞いた事がある。
何故、壊すのかと。
答えは単純だった。
「大事なものが壊れた時、とても良い音がするの」
それは、割れた時の音だろうか。
しかし、フォリエンヌが壊すのは陶器や絵画だけではない。
結局、ミーティスにはよくわからなかった。
「もう少しすると、この破片をメイドが拾いに来るはずです。 それを丁寧に梱包して、アリッサ様のところへフォリエンヌ様が直接持って行くのがいつもの流れです」
「……そう」
フロガは言葉に困った。
ようやく捻り出した当たり障りのない返事に、ミーティスはまた微笑む。
おそらく、ミーティスはもうこの状況に慣れてしまったのだろう。
やがて、ミーティスの言ったとおり、メイドが破片を拾いにやってきた。
「えっ、クレヴォ様? シガールームに居たのでは……」
「ああ、俺は」
言いかけると、メイドの後ろをゆっくりと歩いてくる人物に意識が傾いた。
白いドレスに白色の髪。 サラリと風に靡けば、インナーカラーの赤が映えている。
聖母のような微笑みと、柔らかな物腰。
そして優しげな声で「あら」と発した彼女が、件のフォリエンヌなのだとフロガはすぐにわかった。
「ごきげんようミーティス。 それに……貴方はフロガ様ね」
「ええ」
「お初にお目にかかります。 フォリエンヌと申します。 フロガ様のお話はクレヴォ様から拝聴しておりました」
「はじめまして。 一目でクレヴォと見分けがつくなんて、リカルド以外初めてですよ」
フォリエンヌが扇子を広げてくすくすと笑う。
まるで小鳥の囀りのような、鈴の音のような、なんとも愛らしい笑い声だ。
「あの方とは、目が違いますわ」
「目ですか? 意外ですね。 父親譲りの同じ色なのに」
「うふふ、そうね。 でも、あなたの目はあの人と比べると、とても暗いわ」
フォリエンヌの瞳が、フロガを見上げる。
美しい白髪とは対象的な、真っ黒で底の見えない空洞のような瞳。
全てを見透かしているような、見つめていると呑み込まれてしまうような、そんな危機感さえ覚える恐ろしい瞳だ。
思わずその瞳から目を逸らすと、フォリエンヌはまた柔らかく微笑んで落ちている陶器の破片を拾い上げた。
「これ、お義母様が大事になさっていた花瓶なの。 職人に特別に作らせたんですって」
言い終わってから、フォリエンヌが破片を落とす。
石畳に落ちたそれは、軽い音をたてて更に小さな破片になってしまった。
「素敵な音だわ。 これを見たお義母様もきっと素敵な音を出してくれるわね。 せっかく久し振りに帰ってきたのだから、たくさんお話したいわ」
恍惚としたような顔で破片を眺めるフォリエンヌに、フロガは背筋が寒くなるのを感じた。
そんなフロガに視線を移したフォリエンヌの瞳が、ほんの一瞬だけ獲物でも見るかのように鋭く光る。
反射的に後退ったフロガに、フォリエンヌは優しい笑みを向けた。
「あら……? 残念だわ。 貴方、もう壊れているのね」
一言そう呟いて、フォリエンヌは「では、ごきげんよう」とカーテシーをした。
散らばっていた破片はいつの間にか綺麗に回収され、何も残っていなかった。




