冷や汁
一歩、外へ出た瞬間に天狐は全身で暑さを感じた。
まだ陽が昇りきっていないというのに、じっとりと肌に張り付く湿気と呼吸を妨げるような熱気に、肺が焦げてしまうのではないかと錯覚する。
遠くから聞こえてくる蝉の声は、まるで今から更に暑くなると叫んでいるようにも聞こえた。
──もっと陽が高くなれば、更に気温が上がる。
それは天狐が狩りを中止するのに充分すぎる理由であった。
踏み出した足を、くるりと返してヴァルムへと戻る。
狩りの道具を元あった場所へ置き、部屋着に着替えてフロガが眠る涼しい部屋へ向かった。
「ん……? ……天狐、どうした?」
戻ってきた天狐に気付いたフロガが、眠たそうに目を開ける。
そのフロガの隣へ背中を向けて潜り込み、薄い毛布をかぶった。
「暑いからもう一眠りする」
「ああ……最近は朝から暑いもんなぁ……」
そう呟いたのを最後に、静かな寝息が聞こえてきた。
天狐もすぐに夢の中へと戻っていく。
起きるのはもう少し後になるだろう。
*****
この日から天狐は、しばらく狩りを中止した。
何故なら暑いからだ。
暑さというのは、どうにも逃れようが無い。
きっと、魔具や魔法を使えば良いのかもしれないが、そこまでして狩りに行きたいかと言えばそうではないのだ。
料理に使う肉は、まだ冷却魔具の中に沢山ある。
鮮度は保たれているし、足りなくなれば市場から仕入れても良い。
とにかく、気温が高いうちは外に出たくないのだ。
夏になると天狐がそうなる事はフロガも知っている。
狩りに行かなくても料理に使う火は起こしてくれるし、魔石に魔力を充填してくれるので、何か文句を言うことはない。
しかし、フロガにはひとつだけ気になることがあるのだ。
「天狐、朝ごはん出来たけど食べる?」
「食べる」
朝ごはんと言っているが、これは昼も兼ねたブランチである。
食べる量はほんの少しだけ。
沢山用意しても殆ど残してしまうし、スープや果物だけで終わる時もある。
食べ終われば、天狐は狐の姿になってソファで丸くなるのだ。
「天狐、夜どうする?」
「いらない」
ブランチの後は何も食べない。
それどころか一日何も口に入れない事もあるので、ブランチをとってくれるだけ、まだマシである。
これがフロガの気になっていたこと。
所謂、夏バテというものだ。
倦怠感や肩こり、食欲不振に寝不足……それらは天狐だけではなく、フロガにもその気があった。
「そろそろマズイな……」
そんな事が続いた日のとある朝。
空調魔具で冷たくなった寝室のベッドに丸まっている天狐を眺めながら、フロガが一言呟く。
──ここ数日、フロガは寝不足であった。
蓄積した疲れのせいか、それとも加速する猛暑のせいか、とにかく寝付けない日が続いていた。
幸い、今日のヴァルムは定休日。 予定は市場への買い出しだけだ。
顔の浮腫みと肩こりを感じつつ、気怠い身体を起こして買い出しの準備を始める。
薄く生えた無精髭を剃りながら、フロガは鏡へ映った己の顔色の悪さに愕然とした。
(何か栄養のあるものを食べないと共倒れするかも)
いよいよ危機感が出てきた。
こんなとき、真っ先に改善できるのは食事である。
食べたくなくても食べてしまうような味と食感、それに栄養が欲しい。
そんな料理があっただろうか……
思考を巡らせながら、フロガは朝市へと向かったのだった。
*****
どんなに暑くても朝市はいつも活気に溢れている。
遠くからやってきた商人もいれば、近所の店が出している露店もあった。
そんな中で目を惹かれたのが、イタからやってきた商人が出している店だ。
「いらっしゃい! 今日も暑いねぇ」
人懐こい笑顔を浮かべた商人が、額の汗をタオルで拭っている。
その横には赤い飲み物が置かれていた。
店先に並べられているのは、イタで広く食されているミソやコメやショーユ、それに小さな冷却魔具の中にはトーフも入っている。
「わあ! トーフがあるんですね」
「ショーユをかけて食べるとさっぱりして美味しいよ! あと、このハーブもオススメだ」
そう言って商人が指差したのは、緑色や赤色のハーブと変わった形をしたピンク色の野菜。
フロガは旅をしていたときに、これをイタで見たことがあった。
「シソとミョウガですね」
「よく知ってるねえ!」
「昔、イタを旅したことがあるんです」
イタの食事はあっさりしていて食べやすかった事を思い出す。
ミソシルやオニギリ、生魚を使ったスシなんてものもあって、どれも天狐が喜んで食べていた。
イタの料理なら、今の天狐も食べてくれるだろうか。
(でもスシは作るのが難しいし、ミソシルは熱いから食べないか……?)
イタで食べた料理の数々を一つずつ思い出す。
何か良いものがあったはずだ。
食べやすくて、あっさりして、栄養があるもの。
「ご主人、全部ください」
「あいよ!」
思いつかないので、とりあえず全部買うことにした。
帰る途中で何か思い出すはずだ。
それにイタの食材なんて、朝市くらいでしか手に入らないから買っておいて損は無いだろう。
魔具の中に全て納めてもらったところで、商人が何かの乾燥葉を一緒に入れてくれた。
「これおまけね! あと、アカジソは煮出してシロップにすると美味いジュースができるからね! 今の暑さに丁度いいよ」
「シロップですか、良いですね。 煮るだけでいいんですか?」
「煮出して、砂糖入れて、アップルビネガーを入れるんだ。 詳しいレシピ教えようか?」
「お願いします!」
イタの商人が言うところによると、アカジソのシロップで作ったシソジュースは、甘酸っぱくて爽やかな味わいなのだそうだ。
他にも、ミソシルは冷やしても美味しいし、なんならトマトを入れるレシピもあるのだと言う。
「冷たいミソシル……? あ、そうだ!」
帰る途中でフロガは商人に聞いた話を頭の中で反芻していた。
冷たいミソシル。
イタで食べたミソシルは温かい物ばかりであったが、ひとつだけそうではないものを思い出したのだ。
確か、イタの南東で食べた料理だ。
「あれを作るには干した青魚が必要だな」
干した青魚なら、朝市の魚屋ですぐに購入できるものだ。
早速魚も購入して、フロガはヴァルムへ帰るとすぐに調理を始めた。
まずは魚を焼く。
干した青魚はただ焼いただけでも美味しく、コメとミソシルに良く合うが今日は違う使い方をする。
焼いた身を解してすり身にし、ミソと共に弱い火で練るように炒っていく。
明日のランチやディナーにも出せるように、なるべく沢山作った。
出来上がった焼きミソに、冷たいだし汁を注いでよく溶かす。
そうして出来上がったミソシルにトーフ、刻んだアオジソとミョウガを加え、ストックしてあるキュウリを入れ、たっぷりとゴマを散らして完成だ。
これを炊き立てのコメにかけて食べる。
「天狐、夕飯作ったから一緒に食べよう」
「面倒だ……」
「今日もちょっとしか食べてないじゃん。 ほら起きろ!」
ベッドから移動して、ソファで丸まっている天狐に声をかける。
気怠そうな返事が返ってきたが、抱き上げて椅子に座らせた。
仕方なくヒトの形になり、食卓を見下ろす天狐が首を傾げる。
「スープか」
「ヒヤシルだよ。 昔、イタの南東で食べただろ」
「そうだったか……」
「そうだよ。 コメにかけて食べてみて」
湯気が出るほど熱いコメに、氷が入ってキンキンに冷えたヒヤジルをかける。
それをスプーンで掬って口にいれれば、天狐がぱっと顔を明るくした。
「うまい」
「ああ、美味しいね」
口の中に魚の香ばしさが広がっていく。
そこへ、アオジソやミョウガの爽やかさ、歯ざわりの良いキュウリのシャキシャキ感が加わり、ミソの優しいコク深さが包んでくれる。
熱くもなく、冷たすぎないそれは、食欲が無かったはずなのに、するすると口に入れることができた。
それどころか、おかわりまでしてしまう程に食がすすんだ。
「……うまかった」
「そうだね」
久し振りに満腹になった天狐とフロガが、軽く息を吐く。
気怠かった身体がいくらかマシになったのか、天狐は大きく伸びをしている。
「ああ、そうだ。 オマケを貰ったんだった」
「おまけ? なんだそれ」
ヒヤシルのことばかり考えていたが、店主に貰ったオマケの事を思い出す。
袋に入った、乾燥した葉。 ラベルには桃の葉と書かれていた。
桃の葉といえば、風呂へ一緒に入れておくと肌に良いと聞いたことがある。
「桃の葉か。 良いもん貰ったな」
「そうだな。 よし、お風呂淹れてくる」
最近はずっとシャワーで済ませていたが、たまには浴槽へ入るのも良いだろう。
ぬるいお湯を溜めて桃の葉を浮かべれば、ほんのりと甘い香りがした。
「天狐ー、お湯溜まったぞー」
呼びに行くが、満腹になった天狐は狐の姿になり、またもソファで丸くなっていた。
しかし、食べてすぐ寝るのは身体に良くないし、空調魔具の風を一身に浴びるのだって身体に悪いのだ。
「天狐起きろ。 起きないとこのままお湯に突っ込むからな」
「……嫌だ」
渋々ヒトの姿に戻った天狐が浴室へ向かう。
促されるままに服を脱ぎ捨て、桃の葉が浮かんだお湯に浸かると、浴槽の縁に顔を預けて大きく欠伸をした。
「良い匂いだ」
「ああ、気持ちいいね」
フロガも隣で大きなため息を吐く。
心地の良いぬるま湯がじんわりと身体を温め、桃の良い香りが疲れを癒やしてくれるようだ。
時折落ちてくる雫の音に耳を傾けながら、二人共無言でその心地良さを堪能した。
「……もう上がろうか」
お湯に使ってから二十分ほど経った頃、フロガが呟く。
しかし、返事はない。
「天狐?」
相変わらず、浴槽の縁に顔を預けている天狐は微動だにしない。
嫌な予感がして、フロガは天狐の肩を揺すった。
「おい天狐……寝てるだろ!? お風呂の中で寝るなよ!」
「……寝てない。 先に上がるぞ」
明らかに寝ていたであろう天狐が、ざばりと音を立てて浴室から出ていく。
それを追い掛けるようにフロガも上がり、身体を拭いて部屋着を纏った。
熱くなった身体を冷やしたいのか、天狐は一直線に冷却魔具へと向かい、扉を開けて水を取り出そうと手を伸ばす。
が、見慣れないものを見つけて手を止めた。
「なんだこれ」
瓶に入った真っ赤な液体。
それはヒヤシルの傍らで作っていたシソジュース用のシロップであった。
「アカジソを煮出したシロップだよ。 水で割って飲むと美味しいんだって。 飲んでみる?」
「ああ」
グラスに氷を入れ、シロップを注ぐ。
それを水で割れば、半透明の綺麗な赤色になった。
あのイタの商人が飲んでいた赤色の飲み物は、恐らくこれだったのだろう。
出来上がったシソジュースを天狐に渡し、フロガも自分のジュースを作る。
甘酸っぱい香りのそれを、熱くなった身体に流し込めば一気に爽やかな風味が広がった。
「うん、美味しい。 お風呂上がりに丁度いいな」
「もう一杯よこせ」
「飲み過ぎるとお腹冷やすから駄目。 これで終わり」
「ケチめ」
文句を言いつつも、天狐は空になったグラスを大人しく片付ける。
それから大きく欠伸をして、ソファへ身体を沈めた。
「もう寝るから寝室行ってるぞ」
「私も寝る。 連れてけ」
「はいはい」
狐の姿になった天狐を抱き上げて寝室へ向かう。
魔具の照明を消し、ベッドサイドのランプも消して、薄い毛布を申し訳程度にかけ、天狐と共に横たわった。
しばらくは九つの尻尾が頬を優しく叩いていたが、やがてそれが無くなりヒトの姿へと戻る気配がする。
微かに漂ってくる甘い香りと程良い眠気にうっとりと揺蕩う。
ずっと寝付きが悪かったので、久し振りに心地良く眠れそうだ。
夢と現の狭間で、隣にいる天狐の静かな寝息を聞きながら、フロガは深い眠りの中へと沈んでいった。
この日、二人はとても良く眠れたそうだ。




