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「ちなみに、私は近くの宿にしばらく滞在させてもらうつもりだ。また帰るときにでもあの美しい薔薇に挨拶をしに伺うとしよう」
勝ち誇ったような笑みを残し、スレインは去っていった。
残されたアズリオは、怒りと焦燥で部屋の中を行ったり来たりした。
スレインは野心家であると同時に、目的のためなら手段を選ばない男だ。滞在先から手下を放ち、ミハイルを力ずくで攫うことも平気でやりかねない。社交界から隠し、屋敷の奥に留めていたミハイルを、自分の手落ちで危険に晒してしまった。アズリオは激しい後悔と、底知れぬ恐怖に襲われていた。
(何としても、俺の目の届く場所に置いて守らなければ……!)
護衛を増やすのは当然として、夜間、ミハイルを最も安全な場所へ――それは、この屋敷で最も強固な結界と警備が敷かれ、何より武芸に秀でたアズリオ自身が四六時中目を光らせていられる場所。
すなわち、アズリオの「寝室」だった。
その夜。ミハイルは、主人の寝室の前に立っていた。
夕食後、呼び出しを受けた時は少し驚いたが、ミハイルの表情はいつも通りさっぱりとしたものだった。
(わざわざ寝室に呼び出すなんて、いよいよ「そういうこと」なのかな。まあ、これだけ贅沢な暮らしをさせてもらっているんだ。今までがおかしかっただけで、むしろ当然の義務だな)
覚悟を決めて扉を叩き、中へ入ると、そこには信じられないほど険しい顔をしたアズリオが立っていた。今にも世界が滅びるのではないかというほどの、悲壮な表情である。
「……夜分遅くにすまない、ミハイル。急な話で申し訳ないのだが……今夜から当面の間、君にはこの部屋で、俺と一緒に寝てもらう」
「はい、分かりました」
あまりにもあっさりと、穏やかに微笑んで頷くミハイルに、アズリオは眉を顰めた。
(なぜそんなに平然と……? ああ、そうか、彼は「ついに手を出される」と思って、絶望のあまり心を無にしているんだ……! 違う、違うんだミハイル、俺はそんな不埒な目的で呼んだわけでは――!)
慌てたアズリオは、なんとか自分の邪心を否定しようと、必死に言葉を紡いだ。
「誤解しないでくれ!その、詳しくは言えないが、君の安全を確保するため、防犯上の理由で俺の目の届くところにいてほしいんだ。決して、君が嫌がるような、その、破廉恥な真似をするつもりはない……!」
必死に言い訳をするアズリオを見て、ミハイルは心の中で(防犯?)と小首を傾げた。
(何が危ないのかは分からないけど、今日来てた人が関係してるのかな。何か妙に見られていたし。わざわざ嫌いな僕を自分の寝室に置いてまで守ろうとしてくれるなんて、優しいな。それに、ついでに手を出してしまえばいいのにそうしないなんて、やっぱり義理堅くて誠実な人だよね)
「分かりました。旦那様のご迷惑にならないよう、部屋の隅で静かにしていますね」
「め、迷惑なことなどあるものか! 君が良ければ、その、ベッドを使ってくれ。俺はソファーで寝るから」
「えっ? 主人である旦那様をソファーに寝かせるわけにはいきません。僕が床で……」
「そんなことさせられるはずないだろう!! 君を床で寝かせるくらいなら、俺は外で寝たって構わない!」
「……?」
ミハイルはアズリオのあまりの剣幕に目を瞬いた。
それからくすりと笑いを漏らした。
「それなら、防犯上、旦那様の目が届くように、僕も外で寝ないといけませんね。」
「……っ!!」
アズリオはミハイルの笑顔を間近で浴びて、息を止めて見入った。
結局、アズリオが絶対に譲らなかったため、ミハイルが広いベッドを使い、アズリオがソファーに寝ることで落ち着いた。
部屋の明かりが消され、静寂が訪れる。
ミハイルはふかふかのベッドの中で、ソファーの方をそっと盗み見た。暗闇の中、アズリオの気配は微塵も動かず、衣擦れの音一つしない。
(旦那様、防犯というのもあるだろうけど、僕と同じ部屋にいるから気が休まらないんだろうな。ソファーじゃ体も休まらないだろうし)
ミハイルはアズリオに申し訳なさを覚え、早くあの貴族が去って、アズリオをこの苦行から解放してあげたい、と願うのだった。
一方、ソファーの上のアズリオは、同じ空間に漂うミハイルの甘い香りと、微かな衣擦れの音に、必死に心を平静に保とうとしていた。
(ミハイルがすぐそこにいる……。いや、邪念を捨てろアズリオ! 彼は実家のために耐えているだけだ。俺はただ護衛として、ただ純粋に、彼を不審者から守る盾にならねばならないんだ……!それよりも、突然のことで気が回らなかったが、ベッドはシーツだけでなく枕や布団も新品に変えた方がよかったな……。もし臭いなんて思われたら立ち直れない。今からでも手配するか……?いや、わざわざ休んでいるミハイルを起こしてまですることではないな。スレインの奴、しばらくとはいつまでいるつもりなんだ?ミハイルのことは知らないようだったが、口止めもしておかないとな。)
アズリオが自分の匂いを気にして悶々としているとき、ミハイルは(旦那様の匂いってなんか落ち着くんだよな。安心感があるというか、いい夢が見れそう……)とまどろんでいた。




