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「あ、アズリオ……!?」
スレインの顔が、恐怖で引き攣った。
現れたアズリオの放つ殺気は、尋常なものではなかった。愛馬を限界まで走らせて戻ってきたのだろう、衣服はわずかに乱れ、息は荒い。だが、その瞳に宿る怒りの焔は、スレインだけでなく、その場にいる私兵全員を塵にせんばかりに燃え盛っていた。
アズリオは一歩、また一歩と、地響きさえ聞こえそうな足取りで詰め寄る。
私兵たちが本能的な恐怖から、じりじりと後退りした。
「俺の目が届かない僅かな隙を狙い、泥棒のように押し入るとはな。スレイン、貴様がこれほど下劣な男だとは思わなかった」
「な、何を言う! 私はただ、哀れな彼を君の独裁から救い出してやろうと――」
「黙れ」
アズリオの静かな怒号が中庭の空気を震わせた。
次の瞬間、アズリオは一瞬で距離を詰め、スレインがミハイルの肩を掴んでいたその腕を、万力のような力で掴み上げた。
「ぎっ……、あああッ!?」
骨がきしむ音と共に、スレインが悲鳴を上げる。アズリオはそのままスレインの手をミハイルから力ずくで引き剥がすと、ゴミのように突き放した。
よろめいたスレインを、私兵たちが慌てて支える。
アズリオはすぐにミハイルの前に立ちはだかり、彼を背中に隠すようにして、再びスレインを睨みつけた。
「彼は我が領の、いや、俺の至宝だ。二度とその汚い手で触れるな。そして今すぐこの領地から立ち去れ。さもなければ、隣領との全面戦争も辞さない。我が領の精鋭部隊をもって、貴様の領地を文字通り根こそぎ踏み潰してやる」
それは、ただの脅しではない。狂気すら孕んだ本気の宣言だった。
アズリオの圧倒的な武力と、その背後にある領地の財力を知っているスレインは、完全に戦意を喪失し、顔を真っ白にさせてガタガタと震え出した。
「お、覚えていろ……! 行くぞ、お前たち!」
スレインは捨て台詞を残し、私兵たちに抱えられるようにして、逃げるように馬車へと乗り込んでいった。
嵐のような侵入者が去り、中庭に静寂が戻る。
アズリオはスレインの馬車が見えなくなるまで、鋭い視線を向けたままでいたが、完全に気配が消えたのを確認すると、弾かれたように振り返った。
その顔は、先ほどまでの冷酷な支配者のものではなく、今にも泣き出しそうな、激しい激昂と恐怖に歪んでいた。
「ミハイル……! 大丈夫か!? 怪我はないか!? 痛むところは……っ、すまない、俺の不徳の致すところだ、俺が君を置いて出かけたりしたばかりに、こんな……!」
アズリオは大きな身体を震わせ、ミハイルの両肩に手を置こうとして――、自分が先ほど激しい怒りで我を忘れていたことを思い出し、ハッと手を止めた。
(ああ、ダメだ。こんな恐ろしい怒りを見せてしまった。ただでさえ無理やり嫁がされて怯えているはずなのに、俺のこの凶暴な本性を見たら、ミハイルはもっと恐ろしい思いを……)
アズリオは罪悪感に押し潰されそうになり、自責の念から視線を落として一歩引こうとした。
しかし、そのアズリオの服の袖を、ミハイルの指先が、きゅっと掴んで引き止めた。
「ミハイル……?」
驚いて顔を上げたアズリオの目に飛び込んできたのは、怯えでもなく、絶望でもない、いつも通りの、いや、いつも以上に温かく、さっぱりとしたミハイルの微笑みだった。
「はい、どこも痛くありません。旦那様がすぐに助けに来てくださったので……」
ミハイルは掴んだ袖に少し力を込め、言葉を続ける。
「あの……俺の至宝って、そんな風に言っていただけて、守っていただけて、嬉しかったです」
ミハイルはアズリオを無意識に上目遣いに見上げてはにかんだ。
(まあ、スレインを追い払うための、その場限りのハッタリだったのかもしれないけれど。それでも、あの旦那様が僕のためにあんなに怒ってくれたのは、純粋に嬉しいな)
ミハイルは、相変わらず「アズリオは自分を妻として割り切っている(あるいは嫌っている)」という前提のまま、それでもアズリオの誠実な守護に、深く心を動かされていた。
一方、その言葉をストレートに浴びたアズリオは、完全にフリーズした。
(確かに、ミハイルの前で至宝だなんて言ってしまった。物扱いに怒るどころか、嬉しかっただと……!?ああ、嬉しそうにしていて可愛い。可愛すぎるからそんな顔で見ないでくれ。いや、ずっと見ていたい…… )
「……訂正させてくれ。至宝という言葉は適切ではなかった」
アズリオが小さな声で言うと、ミハイルははっとした顔でアズリオの袖口から指を離した。アズリオはその指を両手で包んでその場に跪いた。
「俺は、決して貴殿を物のように扱いたいわけではない。ただ、貴殿が傍にいてくれることが俺にとっての幸せというだけだ。……いや、違うな。貴殿が幸せでなければ意味がない……」
アズリオは言葉を探すのに真剣で、愛の告白のようになっていることも、ミハイルが驚きで目を丸くしていることには気がつかない。
「できれば、俺の隣で笑っていてほしいけれど、それが無理なことは分かっている。だからせめて、貴殿の領地が安定するまでは、守らせて欲しい」
祈りのように口にするアズリオに、ミハイルは顔を真っ赤にした。アズリオは自分のことを嫌っていると思っていたのに、その真逆だった。そして、そのことを自分が心底喜んでしまっているという事実に、ミハイルは穴を掘って埋まりたい気分になった。
(じゃあ、援助の申し出も、僕のことが好きだったから……?そっけないのも、嫌いだからじゃなくて、僕を怖がらせないために?それなら、僕は勘違いして逃げ回って、旦那様を悲しませていたんじゃないのかな。いや、それより……)
「……僕の実家の領地が安定したら、僕は旦那様の傍にいられなくなるんですか?」
(そうだ、浮かれちゃ駄目だ。旦那様はこんなに素敵で誠実で、僕なんかより奥さんに相応しい人はたくさんいる。僕は男だから子供を産むこともできないし、実家の格だって違うし、僕から旦那様に差し出せる物は何もない)
ミハイルの震えるような問いかけに、跪いたままのアズリオは、まるで雷に打たれたかのように硬直した。
(――傍に、いられなくなる?)
アズリオの頭の中で、ミハイルの言葉が何度もこだまする。
ミハイルの実家が安定したら、彼をこの人身売買のような婚姻という呪縛から解放してあげる。それがミハイルの時間と尊厳を奪った自分の、せめてもの贖罪であり義務だと思い込んでいた。
だが、今、目の前のミハイルは、顔を真っ赤に染めたまま、泣き出しそうなほど切ない目で自分を見下ろしている。
「……ミハイル、君は……」
アズリオは、包み込んでいたミハイルの指先が、微かに震えていることに気がついた。
男の妻という立場を押し付けられ、子供を産むこともできず、格下の貧しい実家から「差し出された」だけの自分。用が済めば、この優しくて誠実な旦那様の隣から追い出されてしまうのだと、ミハイルは本気で絶望しかけていた。
その瞬間、アズリオの中で、これまで頑なに守ってきた自制心が、凄まじい勢いで火花を散らして崩壊した。
「そんなわけがないだろう!!」
アズリオは立ち上がり、弾かれたようにミハイルの細い肩を両手でしっかりと掴んだ。あまりの勢いに、ミハイルの肩がびくりと跳ねる。
「い、いなくなられては困る! 困るどころの騒ぎではない。 俺は……俺は、君に自由になってもらいたくて、実家が安定したら解放しようと思っていただけで、本心では……っ、本心では、一生ここにいてほしいと思っている!」
「え……?」
ミハイルはパチパチと大きな目を瞬かせた。
アズリオの顔は、茹でダコのように真っ赤に染まり、額には必死さのあまり汗まで浮かんでいる。
「格が違うとか、男だとか、そんなことはどうでもいい! そもそも俺は、数年前に君に一目惚れして以来、ずっと君のことだけを考えていたんだ! 君をこの屋敷に迎えたのも、下卑た下心だと思われたくなくて、嫌われないように必死で距離を置いていただけなんだ……!」
堰を切ったように溢れ出すアズリオの本音に、ミハイルの思考はフリーズした。
(え? 一目惚れ? やっぱり、嫌われていたんじゃなくて……旦那様が僕を避けていたのは、気を遣って……?)
今までピースが噛み合わなかったアズリオの奇妙なマメさや過剰な配慮が、すべて熱烈な好意という一つの答えに綺麗に繋がっていく。
「だから、お、お茶や焼き菓子の差し入れだって、本当は飛び上がるほど嬉しかった! 君が俺のベッドの上で俺の匂いを好きだなんて言い出したときは、どうにかなってしまうかと思った」
「――っ!?」
そこまで暴露され、ミハイルの顔はアズリオ以上に真っ赤に沸騰した。
今度こそ本当に恥ずかしさで穴を掘って埋まりたくなった。
「ミハイル……。君が俺を嫌っているなら、実家が安定した後に無理に引き留めるつもりはない。だが、もし……もし君が、少しでも俺の隣にいることを許してくれるなら……」
アズリオは、まるで神に許しを請う罪人のような、切実で震える瞳でミハイルを見つめた。
ミハイルは、真っ赤な顔を両手で覆いたい衝動を必死に抑え、小さく息を吸い込む。
相変わらずさっぱりとした性格の彼は、一度すべてを理解してしまえば、もう逃げ回るような真似はしなかった。
「……旦那様」
ミハイルは、まだアズリオの大きな手に掴まれている自分の肩に、そっと手を重ねた。そして、恥ずかしさに耳まで染まりながらも、今度ははっきりとアズリオの目をまっすぐに見つめ、はにかむように微笑んだ。
「お言葉ですが……僕は一度だって、旦那様を嫌いだなんて思ったことはありませんよ。むしろ、ずっと素敵で、誠実な方だと……その、お慕いしていました」
「……え」
「だから、実家が安定しても、どこにも行きません。……ずっと、あなたの隣にいさせてください、アズリオ様」
その瞬間、今度はアズリオが完全に限界を迎えた。
「ミ、ミハイル……ッ!!」
アズリオは大きな身体を丸めるようにして、ミハイルを壊れ物でも扱うかのように、しかし力強く、その腕の中に抱きしめた。ミハイルの首元にアズリオの硬い髪が擦れ、大きな背中が歓喜と安堵で小さく震えているのが伝わってくる。
(ああ、本当に……どこまでも不器用で、愛おしい人だ)
ミハイルはアズリオの広い背中に手を回し、その心地よい体温に包まれながら、深く、深く幸せを噛みしめるのだった。




