11
アズリオが夜間の防衛に神経を注ぐ一方、昼の屋敷には人目があるから大丈夫だろうという何となくの思い込みがあった。
アズリオが急な領地領民からの陳情でほんの数時間、執務室を離れなければならなくなった瞬間に、決定的な隙が生まれた。
ミハイルは昨日と同じように、中庭で少し気になっていた木の剪定をしていた。
「――近くで見ると尚素晴らしいな。やはり、無骨なアズリオには勿体ない」
突然響いた聞き覚えのない声に、ミハイルが振り返る。
そこに立っていたのは、華美な意匠の服をまとった隣領の主、スレインだった。どうやって侵入したのか、何人かの私兵を近くの木陰に潜ませているのが見える。
ミハイルは驚きでパチパチと瞬きをしたが、すぐにいつもの穏やかでさっぱりとした態度に戻り、軽く一礼した。
「どちら様でしょうか?旦那様はあいにく外出されておりますが……」
「隣領の領主、スレインだ。用があるのはアズリオではない。君だよ」
スレインは口元に自信に満ちた笑みを浮かべ、ミハイルとの距離を詰める。アズリオとは違う、値踏みするような遠慮のない視線。
「君の噂は聞いている。貧しい実家のために、アズリオに「買われて」ここへ来たのだろう? それなのにまともな結婚式も挙げてもらえず、社交界にも連れて行ってももらえない。あいつはただ君を都合のいい慰み者として自分の屋敷に閉じ込めている。なんと哀れなことか」
スレインは芝居がかった仕草で胸に手を当て、ミハイルを憐れんでみせた。
(やっぱり周囲にはそんな風に思われているんだな。……実際は嫌われていて手も出されていないんだけどね)
そんなミハイルの内心など知らないまま、スレインはここぞとばかりに甘い言葉を囁きかける。
「私の元へ来ないか? 君の体目当てのあの冷酷な男とは違い、私は君のその美しさを心から愛せる。私の妻になれば、アズリオが君の実家に与えている以上の……そうだな、倍の資金援助を即座に約束しよう。結婚式は盛大に挙げ、君を社交界の主役に仕立て上げ、望むものは何でも買い与えてあげる。どうだ、悪い話ではないだろう?」
スレインの瞳には、ミハイルへの強い執着と好意が、隠されることなくぎらぎらと輝いていた。男からこれほどストレートに好意をぶつけられたのは、ミハイルにとって初めての経験だった。
普通の人間なら、揺らぐか、あるいは怒る場面。
しかし、ミハイルは困ったように眉を下げつつも、いつもの調子でさっぱりと微笑んだ。
「それは、随分と破格のお申し出ですね」
「だろう? 賢い君なら、どちらを選ぶべきか分かるはず――」
「ですが、お断りいたします」
「……何?」
あまりにも躊躇のない即答に、スレインの完璧な笑みが凍りつく。
「どうしてだ!? 金が足りないのか? それとも、あの男に脅されているのか?」
「いいえ。旦那様に援助していただいている分で十分足りていますので。それに、旦那様はとても誠実な方で、とてもよくしてくれますから」
ミハイルは、昨夜、新品のベッドの前で真っ赤になって自分を気遣ってくれた、あの不器用な大男の姿を思い出し、ふっ、と柔らかい笑みを浮かべた。
アズリオの負担や、アズリオが自分を嫌っていることを考えれば、スレインの手を取った方がいいのかもしれない。しかし、アズリオがスレインから懸命に守ろうとしてくれているのを無駄にしたくなかった。それに、ミハイル自身、アズリオの傍から離れたくなかった。
「お引き取り願います」
そう言ったミハイルに、スレインの顔がみるみるうちに歪んでいく。まさか貧乏貴族の息子に、これほどきっぱりと拒絶されるとは思っていなかったのだ。自己愛の強いスレインにとって、ミハイルの拒絶は、己のプライドを完璧に踏みにじられる暴挙だった。
「――っ、この、身の程知らずが……!」
スレインは逆上し、理性を失った目でミハイルの肩を掴み、背後の私兵たちに怒鳴り散らした。
「おい! この男を引っ立てろ! 馬車へ放り込め! アズリオに恥をかかせてやる。手荒に扱っても構わん、連れて行くぞ!」
「なっ……! 放してください!」
さすがのミハイルも顔をしかめ、抵抗しようとするが、屈強な私兵たちが一斉に距離を詰めてくる。不穏な気配を察知した屋敷の使用人たちが悲鳴を上げる中、ミハイルの身体が無理やり引きずられそうになった、その時だった。
「――我が邸で、俺の妻に何をしている」
地を這うような、恐ろしいほどに低い声が中庭に響き渡った。
全員の動きが止まる。
振り返ったスレインの目に飛び込んできたのは、予定を切り上げて息を切らせて戻ってきた、全身から凄まじい殺気を放つリオの姿だった。




