153話 空の上ではじめましょう
彼女はそこに立っていた。
アルヴェインの外縁。
高度はすでに臨界に近い。
空は深く、蒼を越えて群青へと沈み、星の気配すら滲み始めている。
精霊変異は最終段階を残すばかりとなり、必要高度に到達次第、精霊開放を開始する。
──主よ
──我ら精霊の永遠の主よ。
風が、祈るように鳴いた。
彼女の髪がほどけて重力から半ば解放されたそれは、水のように空へ流れていく。
──あなたとの約束を。
遠き日。
精霊の時は長いとはいっても、記憶は風化している。
それでも、感触だけは確かに残っている。
もう死んでしまった。
1万年も前になるか。
永遠に続くと思っていたものに、終わりがあった。
空へ。
そう主は言った。
言葉だけが残されていた。
主が望んだ形ではないかもしれないけど、それでも、
彼女は、ゆっくりと視線を落とした。
遥か眼下。
雲の層を突き破る黒い竜の姿を捉える。
「来たのね。」
微かな吐息とともに、周囲の気流が応じて、渦が生まれて、空そのものが彼女の意志に従い始める。
逃げ場はない。
ここが、終点。
そして、始点。
「始めましょうか。」
空へと向かう竜の背。
竜の背は、思ったよりも静かだった。
風は吹き荒れているはずなのに、膜一枚隔てたように音が遠い。
マリアは下を見る。
雲が流れ、街が点になっているその光景を。
空まで来てしまった。想像だにしない程、遥か高い空まで。
「マリア。怖い?」
「はい。流石に。」
「まあいつもと同じね。
大変ねあなたも。」
「概ねお嬢様のせいですけどね。」
「よかったじゃない。
退屈しなくて。」
「リーシャちゃんは大丈夫でしょうか。
お顔真っ青でしたけど。」
黒竜のはるか後ろをよれよれと飛んでいる。
巨体──300m級プロメテウスブレイクに目をやる。
「申し訳ないけど、今回だけはリーシャに頑張ってもらうしかない。
まあ、失敗しても水精霊の加護があるリーシャは生き残るしね。
リーシャ以外みんな死ぬけど。」
「きっとリーシャちゃん、そうなったら潰れちゃうと思いますよ?」
「多分、大丈夫よ。」
クラリッサは頷く。
「失敗しなけりゃ、それは成功だから。
……ふ。いい言葉ね。
いいのよ。マリア、突っ込んでも。
それって当たり前のことですよねって。」
まるでいつもと変わらないクラリッサに、マリアは思った。
余裕あるなー。
竜の背には、シトリーとセドリックも同席している。
わずかに傾いた鱗の上で、シトリーは膝をついていた。
その脇にはセドリック・グランディール。
「頼りにしているよ。シトリー。」
シトリーは新しい回路をチェックしている。
彼女の手の中で転移陣が明滅。
エルダーオーブの回路編成を変えたことによる演算能力の高まりは、負荷と共に、凄まじい魔力制御能力をもたらすだろう。
「セドリック様。
クラリッサはいつもこんなことを?」
「まあね。
我が妹は全てを巻き込むんだ。
シトリーも巻き込まれたくちだね
気づいているはずだ。
昨日までの僕らでいる事は、許されない。
なぜなら昨日までの自分では、我が妹の運命に振り落とされてしまうから。」
「……」
「全てをね。
我が妹はまるで台風。
でも本人は、2本の足で進んでいるつもりなんだ。
なら、誰かが見守っていてあげないとね。」
「めちゃくちゃだ。
だけど、あまりに苛烈だ。
……魔王様のようだ。」
「さあそろそろアルヴェインだ。
シトリー。見せてあげよう。
世界を切り裂く、僕らの力を。」
「うん。」
セドリックと、シトリーはエルダーオーブの制御を進めていた。
シトリーが演算コア起動する。
──悔しいが、クラリッサの調整は完璧だ。
今までの魔術演算では到達できないレベルに到達している。
いくつものエルダーオーブを総体として、一つの回路の振る舞いと見立て、積層的に機能を分担させる……
今までのエルダーオーブでも、大規模魔術の順序制御はできた。
回路を増やし、精度を上げ、一つずつ積み上げてきた。
それでは足りないなら、同時に使えばいい。
一つずつでは遅く、一つずつでは届かない。
なら複数のエルダーオーブを並べて、役割を分けて同時に動かすことで、それぞれは小さな回路でも、それらが繋がった瞬間にそれはひとつの“思考”になる。
道具の集合ではなく、一つの意思を持つ、巨大な演算体。
──それが、今のエルダーオーブ。
かつて人が、一人では出来ないことを、集まり、分担し、世界を築いたように。
これがその再現だとするならば、これはもはや魔術ではなく、“世界の作り方”そのものなのかもしれない。
(※色々言ってるが、単なるクラウド化。)
≪嵐核暴走≫発動。
完全に制御された嵐が天候を支配する。
幾重にも重なった気流が層をなし、雷はその軌道を外れることなく走り、雲は割れ、空は意志を持ったように開かれていく。
風が押し退けられるのではない。
空そのものが、譲るように。
進めと。
「いい嵐だ。」
戦闘は始まる、
風精霊に制御された各種武装が、クラリッサ達を襲う。
400アルヴ級・魔導加速砲。
長射程魔術砲。
対空迎撃陣。
地脈穿孔槍。




