第七章「風祟りの洲」 起 ― 神の怒りと招かれた使者
調子に乗って続編続けてしまった
帝暦一二九二年、夏。
淡州の山間を、ひと筋の道がくねくねと伸びていた。
その道を、一頭の馬がゆるゆると引く馬牽き車が、霧の中を進んでいく。夏とは思えぬ冷気を含んだ霧が足元から立ち上り、視界は白く曇っていた。馬を導く地元の案内人の姿も、数歩離れれば霞んでしまうほどだ。
車に乗っているのは、景虎と紫苑。
景虎の左足は鬼との戦いで負った深い傷がまだ癒えきっておらず、無理を避けるために特製の車が用意されていた。板張りの座席には柔らかな布が敷かれ、揺れを和らげる藁の層が組み込まれている。
紫苑は景虎の隣に静かに座り、車内に満ちる穏やかで幸せな空気を胸いっぱいに吸い込んでいた。
「あなた、足は……痛まない?」
「……ああ。これくらいの揺れなら、傷も痛まないさ」
柔らかな会話は、霧の中でさざ波のように穏やかに響いた。
景虎は、鬼討伐の大任を果たしたのち、その功績により帝より『白槍の牙』を賜り、特務近衛部隊「白槍衛」の初代衛督として任じられた。その指揮下に組織されたのが、少数精鋭の右隊と左隊である。右隊は、景虎の側近として実戦にあたる者たちで構成されており、すでに小隊規模での運用が始まっていた。
車の周囲を固めているのは、その白槍衛右隊の護衛たち。
深い藍色の軍装に身を包み、肩から羽織った黒い風除け布が霧のなかでゆらめいていた。その布は、被れば笠の代わりとなり、雨風や霧を防ぐ。左胸に誇らしげに刻まれた白槍の紋が、彼らの使命を静かに語っていた。
隊列の先頭を進むのは、守屋光継。
淡州の出身である彼は、この土地の地形にも気候にも詳しく、近衛選抜試験では優秀な成績で合格した。景虎とは武芸館時代からの旧知であり、蹴鞠の儀の折には慌てて礼服を届けに奔走したほどの間柄だ。今や誰よりも信頼される部下――いや、友人であった。
そのすぐ後ろには、貴志蓮二郎と綾部湊の姿がある。
蓮二郎はがっしりとした体格に、背負った大槍の存在感が際立っていた。歩くたびに鎧が鳴るのを気にせず笑うその姿は、彼の豪放磊落な人柄そのものだった。
「春霞村も、だいぶ建て直ってるらしいぜ。“帰火祭”の準備が始まったそうだ」
「帰火祭か……あれだけのことがあった村ですから。灯りを絶やさぬようにと、急いでるのかもしれませんね」
「そういうこと言えるようになったか。お前ももういい年齢になってきたな、湊」
「……恐縮です、貴志殿。ですが、あなたの槍と口の勢いには、昔から敵いません」
蓮二郎が声を上げて笑い、湊が冷静に返す。
「……そういえば蓮二郎殿、先日の訓練で的を三つ同時に串刺しにしてましたね。あれはどうやったんですか?」
「お? 見てたか? あれはな、偶然じゃねえ。ちゃんと狙ってやったんだ。……多分な」
「多分、ですか」
湊の視線がわずかに冷える。蓮二郎は腹の底から笑った。
「いいか、槍ってのはな、最後は勢いと度胸だ!」
そのやり取りに、隊列の空気がひととき和らぐ。
「あんまり真面目に聞くなよ、湊。おっさんにからかわれてるだけだからな」
光継が苦笑まじりに言うと、隊の背後、車内ではその声に紫苑がくすりと笑った。
「……随分と賑やかな旅になりましたね」
「少し前までは、この道を一人で歩いた。……誰もいなくて、静かすぎて、少し怖かった」
景虎はそう言いながら、車の側を覆う布をわずかにめくり、霧の向こうを見やった。淡く輪郭の崩れた森が、まるで記憶の中の幻のように揺れていた。
「今はこうして、お前や皆がいてくれる。こんな旅になるなんて、あの時は思いもしなかった」
紫苑はふと、景虎の横顔を見つめた。
かつては独りきりでこの地を踏みしめた彼が、今こうして仲間に囲まれている。
目を細めるその横顔には、かすかに安堵の色が滲んでいた。
――この道を、今こうして共に歩けていること。それだけで、何よりも尊い奇跡に思えた。
やがて、霧の帳が一瞬晴れ、遠くに赤瓦の屋根が点在する春霞村の姿が浮かび上がった。
かつて景虎たちが訪れた廃墟同然の村とはまるで異なり、新しい木材の香りとともに、かすかに人々の暮らしの気配を乗せた風が、彼らを迎え入れようとしていた。
鬼の影を退けてから数か月。夏の陽に緑が濃くなる中、景虎と紫苑は、再び春霞村の地を踏んでいた。
人力馬車から降り立つと、土の香と新しい木材の匂いが風に混じって鼻をくすぐった。瓦が葺き直され、清めの祈祷札が貼られた家々が道の両側に並び、修繕の手が入った塀には花が揺れている。あちこちから聞こえる子どもたちの笑い声が、村に戻った平穏を物語っていた。
村の港には、村長と、かつて鬼退治を共にした片山玄道、宇治田孝兵衛、和賀茂多聞の姿が並んでいた。年配の玄道が一歩前に立ち、落ち着いた面持ちで景虎たちを迎える一方、若き弓兵である孝兵衛と多聞は、その後ろで控えめに頭を下げる。
それぞれの表情には、再びこの地で顔を合わせられたことへの素朴な喜びが浮かんでいた。
「皇女殿下、お越しを賜り光栄の至りにございます」
村長は深々と頭を下げた。紫苑はその礼に穏やかに微笑み返し、静かに応えた。
「春霞村の再建ぶり、嬉しく思います。皆さまの力の賜物ですね」
「いえいえ、姫様のご加護と、景虎様のご尽力あってのことにございます」
村長は言葉を継ぎ、景虎に向き直って再び頭を下げた。
「景虎様、あの折のご決断とご活躍、村の者皆が今も語り継いでおります」
景虎は軽く頭を下げると、片山玄道が静かに頷き、孝兵衛と多聞が一歩進み出て、それぞれ控えめに笑みを浮かべた。
「景虎殿、またここでお会いできようとは」
玄道の落ち着いた声に、景虎も頷き返す。
「玄道、またここから泳いで渡るか?」
「その足で泳ぎ切れるものなら付き合いますよ」
多聞が笑いながら応じると、孝兵衛も「無茶を言うな」と肩をすくめる。
「ふっ、今日のところは舟を使うよ。姫様同伴だからな。……足のせいではないぞ」
景虎の肩の力が抜け、柔らかな笑みがこぼれる。それに応じて、三人の男たちの笑い声が、港の霧の中に和やかに響いた。
港には、小舟が霧の中にぼんやりと浮かんでいた。春霞村側の桟橋には、提灯が連なり、淡い灯が霧に滲んでいる。対岸の神渡島の港にも、それに応えるように仄かな明かりが揺れていた。
白槍衛の右隊は舟に分乗し、景虎と紫苑は同じ舟に乗った。霧が濃く、数歩先も見えないなか、櫂を押す音がひたひたと静けさを破る。
霧に包まれた舟の上で、景虎は眉をひそめた。水を打ったように静まり返る中、空気が澱んでいるのを感じる。
「……これほどの霧は異常だ。風が止まっている」
その呟きに、紫苑が静かに目を閉じた。
「霧栖命……あなたは、ここにはいないのね」
言葉というよりは、胸の奥に浮かんだ思いが漏れたような囁きだった。
舟が神渡島に着いたとき、迎えに立っていたのは材木商人・黒瀬岳だった。彼は神社建築の資材を扱う業者として社の再建に深く関わっていたが、その正体は白槍衛左隊の一員である。情報収集に長け、神域に自然と出入りできる立場を活かして、諜報活動も担っていた。
長身に控えめな裃をまとい、神職の作法に則って社人として紫苑に一礼する姿には、職人とも商人ともつかぬ風格があった。
「姫、景虎殿。お戻りを心よりお迎えいたします」
彼は簡潔にそう言うと、景虎たちを禊之宮のある洞窟の入り口まで案内した。
「社は立派に整っておりますが……風が、未だに戻らないのです。神域の中心が、ぽっかりと空いているような気がしてなりません」
紫苑は黒瀬の言葉に頷き、禊之宮の奥へと足を向けた。
洞窟を抜けた先の社殿は、浄められた空気に包まれ、かつて鬼がいたとは思えないほどの静謐を湛えていた。石の床に敷かれた白布、祭壇に飾られた供物、蝋燭の明かりが神影を照らし、微かな煙が天井へと揺れて消えていく。
禊之宮の社殿前、控えの間へと続く回廊の脇に、ひときわ雅な身なりの女性が静かに立っていた。白地に浅葱の刺繍が施された舞装束に、薄紗の羽衣をまとい、装束の端をそっと整えている。
彼女の名は鳴海沙耶。普段は神事に舞を奉じる神楽師として諸国を巡るが、その実、白槍衛左隊に属する隠密でもある。人目を引く美貌と、場の空気を読む鋭敏な感性を併せ持ち、神域の出入りを許された貴重な存在である。
紫苑とは、各地での神事を通じて顔を知る仲であり、姫としての威厳を保ちつつも、互いに自然体で言葉を交わせる稀有な関係だった。
「姫、鳴海沙耶にございます。神迎えの舞、奉じるために参上いたしました。装束のお支度、お手伝いさせていただいてもよろしゅうございますか?」
沙耶は控えの間の入り口で静かに頭を垂れた。紫苑は装束の調整を手伝わせながら、やわらかく微笑む。
「来てくれて嬉しいわ。……こうして、元気な顔を見られて安心したの」
紫苑はそう言いながら、沙耶の目を静かに見つめた。その視線には、舞手としてだけでなく、密かに任を帯びて動いている沙耶を案じる気持ちが滲んでいた。
沙耶もまた穏やかに笑みを返すと、紫苑の帯を整えながらそっと言葉を継いだ。
「先月、風野州の祭礼にて“風祈の舞”を奉納いたしました。その際……不思議なことがございました。祭壇が裂け、香炉が倒れ、風は逆巻き、空には雲一つないのに雷の音が響いたのです。……まるで、神が怒っておられるかのような気配でした」
紫苑はその言葉に静かに目を伏せた。
──あのとき、霧栖命の怒りを感じた。でも、それは鬼に向けられたものだけではなかったのかもしれない。
やがて、舞の時刻が訪れた。
禊之宮の拝殿は神聖な静寂に包まれていた。祭壇の前、白布が敷かれた舞台に立つ沙耶の姿は、まるで風そのもののように、しなやかで涼やかだった。
雅楽の調べが流れ始めると、沙耶はゆるやかに歩を進め、足拍子と扇のひらめきで空間に律動を刻む。その一挙手一投足に、社殿の空気さえ震え、観る者すべての心を吸い込んでいく。
景虎は、正面の主賓席にて舞を見つめていた。その瞳には、静かなる違和感が宿っていた。空気が重く、神域の中心に風がない。それだけで、舞台全体の均衡が崩れているように感じた。
舞が終わると、紫苑が静かに神前に進み、祝詞を奏上した。しかし、呼びかけに応える気配はなく、風も微かにすら吹かなかった。
紫苑はその場にひざまずき、深く息を吐いた。
──やはり、霧栖命はこの地におられない。
静謐の中、祝詞だけが社に染み渡っていった。
直会の席は、禊之宮の奥に設けられた小さな宴の間に用意されていた。木組みの床に低めの膳と背付きの椅子が並べられ、足の癒えきらぬ景虎にも無理のない設えとなっている。
夜の帳が降り、社殿の外は霧に包まれていたが、室内には燈籠の柔らかな明かりが灯され、木の香と温かな空気が漂っていた。
紫苑と景虎を中心に、右隊の三人――守屋光継、貴志蓮二郎、綾部湊――が並び、材木商人の黒瀬岳と、神迎えの舞を終えたばかりの鳴海沙耶も席についていた。
献膳の膳が運ばれ、控えの神職が丁寧に盃を交わす中、場は程よく緩み、静かに酒の香が広がっていく。
「風野州で起きたという異変……気になりますね」
光継が口を開いた。彼の声音は冷静でありながら、どこか鋭さを含んでいた。
沙耶は頷き、杯を置くと視線を紫苑に向けた。
「神が舞に応えなかったのは、私の力不足ではないと思っております。ですが……あの逆巻く風、空鳴り。神が“こちらではない”と訴えているように感じられました」
黒瀬も言葉を継いだ。
「神職の一部では、風野州の一部神域で神威の乱れがあるという噂も出ております。目に見える異変は少ないのですが……気配に敏い者は皆、何かがおかしいと感じているようです」
景虎は杯をそっと膳に戻した。
「俺は、ずっと信じていたんだ。あの船の者たちが社を荒らし、血を流し、神を穢したから鬼が生まれた……そう思っていた」
彼は視線を伏せる。
「でも、もしかしたら……あの時にはもう霧栖命はこの地を離れていたのかもしれない。そう思えてならないんだ」
紫苑もまた、神事の最中に感じた空虚な気配を思い返していた。あれは――神がいなかったからなのだ。
景虎は隣に座る紫苑をちらりと覗き込んだ。
「霧栖命の怒りの根を見てこなければ、俺たちはこのままでは結婚式どころではない」
確かにこれは大きな問題だ、紫苑も同意せざるを得ない。
だが、その沈黙を破ったのは、神前の灯明のひとつの傍らに立つ光継だった。真っ直ぐに景虎を見つめたまま、はっきりと口を開く。
「姫。景虎。ここは、俺に任せてください」
「光継……お前、一人で大丈夫か?」
「大丈夫じゃないかもしれない。でも――ここで手柄を挙げれば、白槍衛の名が広まる。最初の一歩、俺が踏み出したいんだ」
一瞬、空気が張りつめた。紫苑も黒瀬も、言葉を探すように光継の横顔を見つめていた。
景虎は眉をひそめながらも、口の端をわずかに上げた。
「まったく、お前ってやつは……どこまで出世欲に忠実なんだ」
「だからこそ任せてくれよ。……この機会、逃したくない」
黒瀬がひとつ頷いた。
「出世欲に付き合うのも悪くない。私も同行しよう。神域の地理は、それなりに頭に入っている」
霧の向こうからそっと歩み寄る沙耶の気配。白砂を踏む足音はほとんど音を立てず、ふわりと舞衣の香が漂った。
沙耶は舞衣をひとつ整えて、いたずらっぽく笑った。
「私も行きますよ。舞のついでに、風の匂いでも拾ってみます。……あなたの“手柄争い”、見届けるのも悪くないしね」
光継が思わず苦笑しながら肩をすくめた。
「頼りにしてる。変な神様に絡まれたら、背中を頼む」
沙耶は小さく笑って肩をすくめたまま、毒のようにさらりと放った。
「……まさか、本気で神に矢が届くと思っているわけではないでしょうね?」
紫苑が、そっと一歩前に出た。
その前に、ほんの少し迷うように視線を落とした。だが次の瞬間、すっと顔を上げ、その声には迷いがなかった。
「――行ってください、光継。……あなたの望む“最初の一歩”、信じています」
その声音は澄んでいて、誰もが逆らえぬ強さを帯びていた。
* * *
直会の後、夜の空気を吸うために景虎はひとり、禊之宮の外へ出た。
霧はなおも濃く、夜風もない。だが、心に溜まった熱を静かに冷ますには、これくらいの冷気がちょうどよかった。
「……いるんだろう?」
景虎が静かに声をかけると、岩陰からするりと人影が現れた。
香鶴である。左隊の一員であり、隠密行動を得意とする者だ。
「お見通しとは恐れ入りました」
涼やかな声とともに現れた香鶴は、景虎の横に並ぶこともなく、少し離れた場所に立ち止まった。
景虎は夜の闇に視線を向けたまま、呟くように言った。
「……神渡島の鬼退治、桐葉国と外国、地方太守と神域、神と人、人と鬼。すべての境目を狙い澄ましたような……出来すぎた事件だったと思わないか」
香鶴は微かに眉をひそめ、少しだけ肩をすくめた。
「申し訳ありませんが、推論すら立てられていない考えすぎの部類かと。今のところ、私の出る幕ではないようです」
そう言い残し、香鶴は霧のなかへとすっと姿を消した。
景虎はその背を見送るでもなく、ただ霧の奥に広がる気配を感じ取ろうとするように、静かに息を吐いた。
闇は深く、だが――風は、どこかで必ず吹いている。
(承へつづく)
結構な体力を消費しますね