第七章「風祟りの洲」― 承― 捨てる神 拾う神
日の出前の淡洲の港町はまだ薄暗く、潮の香りと濡れた縄の匂いが空気を満たしていた。木組みの波止場には朝露が光り、眠りから覚めきらぬ漁船の帆が潮風にぱたぱたと揺れている。
風野州へと向かうため、守屋光継と鳴海沙耶は黒瀬岳の所有する私船に乗り込んでいた。
黒瀬は長旅に備えて動きやすい私服姿だった。風を遮る厚手の織布に、簡素な革の前掛けを合わせ、材木商人としての実務に即した実用的な装いである。対して、光継と沙耶は、いずれも白槍衛の正装――霊的耐性と体温調節機能を備えた特殊織布〈練神布〉で仕立てられた、白と浅葱を基調とした軽装戦装束に、白槍の紋をあしらった肩掛けを身に着けていた。右隊所属の光継は動きやすさを重視しつつも格式を備えた装いであり、沙耶もまた左隊の任を帯びる者として、静かな威厳を纏っていた。
沙耶は、その美貌が周囲の船乗りたちに過剰な注目を集めぬよう、顔を覆う〈花霞の面〉――白地に薄紅の霞模様がかかる優雅な半面を装着していた。さらに、制式の被衣を深く被り、顔立ちを隠していた。立ち居振る舞いの端々から只者ではない雰囲気が滲むものの、それが彼女の素性までは悟らせなかった。
船体は太く重く、材木を大量に積載するための工夫が随所に見られた。甲板には湿った縄や木製滑車が整然と置かれ、船の腹に据えられた巨大な鼓のような機構が、音もなく静かに回っていた。
「この船の推進装置は“鼓風輪”って呼んでる。ぜんまい仕掛けで水中の羽根車を回すんだ。潮の流れに乗るために外洋に出るだけなら、風がなくてもこれで充分なんだ」
黒瀬が艦橋から身を乗り出し、口元に苦笑を浮かべながら説明した。声に誇らしさが滲みながらも、どこか自嘲めいた陰があった。
「……風に頼る航海は、もうほとんど見かけないよ。潮を読む技術と、鼓風輪のぜんまいを巻けるだけの人数がいれば、それで充分さ。人手はかかるが、風待ちの時間はないに等しい」
艦橋の脇には、くるくると回るぜんまい巻き機があり、舵と連動する工夫まで施されていた。甲板の隅には、灯台の光を受信するための白磁製反射盤が据えられている。これは菜種油を燃やした強い光を、白磁の鏡で集光し、遠方まで届かせるという近年の工夫によるものだった。灯台の明かりは、かつて神の導きと信じられていた光を、技術の手で再現しようという試みの一環でもあった。
「灯台が増えたおかげで、夜でも自分の位置がわかる。星を読む必要もない。今の船乗りは、空を見上げないんだ。見てるのは灯台と海図、それと――上陸してから何をするかって夢だけさ」
黒瀬の言葉に、光継がふと、以前の記憶を思い出すように目を細めた。
「……あのときも、灯りに導かれてたな。春霞村と神渡島。あの霧の中、互いの岸辺に灯された明かりだけが頼りだった。俺たちは、あれを目印に舟を漕ぎ出した」
沙耶が静かに頷く。
「灯りは道しるべ。でも……昔はその“灯り”すら、神の加護だったはず。今はただの設備のひとつ。信仰は、“構造物”に置き換えられていくのね」
光継と沙耶はその話に黙って耳を傾けていたが、やがて光継がぽつりと呟いた。
「……風がいらないって時代が来たら、風の神は……用済み、ってことになるのかもな」
その言葉に、沙耶が静かに目を伏せる。
「ええ。語りかける声が届かないって、きっとこんな感じ」
その身にあらゆる神々を宿す素養を持つ者として、神へ向けた祈念が空を切るような感覚は、胸の奥に深く響いていた。
甲板を渡る風が、潮の匂いを運んできた。だが、それは神の息吹ではなく、ただそこに在る自然の営みにすぎなかった。かつて神事として風を呼んだ日々を思えば、この静けさはあまりに空虚だった。
やがて黒瀬は、艦橋の椅子で眠ると告げ、自分の私室を二人に貸し与えた。
「本来は材木運搬用の商船でね。客室らしい部屋はない。俺は艦橋の椅子で寝るから、そっちを使ってくれ」
黒瀬の私室――艦橋の奥にある作業部屋。そこは細長い空間に木製の机と書類棚、そして一人分の寝台があるだけの、質素で実用本位の部屋だった。
船板の継ぎ目からはかすかに潮の匂いが染み入り、灯りに照らされた机の上には航海記録と刻まれた航路図が広げられている。壁には材木価格の記録と、港ごとの入港税の比較表までもが貼られていた。
光継と沙耶はしばし言葉もなく部屋を眺め、やがて顔を見合わせた。
やがて夜が訪れ、霧が濃く立ち込める中、船は静かに港を離れた。
船室には、夜の霧と木の軋む音が染み込んでいた。
狭い船室の中には、守屋光継と鳴海沙耶の二人きりの静けさがあった。
風野州へ向かう旅路の途上、彼らは向かい合うように床に敷いた布に座り、互いの気配を感じ合っていた。小さな灯りが揺れ、船体がきしむたび、影がゆるやかに壁をなぞる。
白槍衛の装束は、霊的耐性と体温調節機能を備えた練神布で仕立てられており、夏でも涼しく着られる。しかし、幾重にも重ねられた衣に加え、仮面と深い被衣を纏ったままではさすがに暑く、汗ばむのも無理はなかった。
部屋の隅には、黒瀬が気を利かせて用意した手桶と手拭いが置かれていた。
沙耶はゆっくりと装束の外衣を脱ぎ、艶やかな黒髪を解いてから、仮面〈花霞の面〉を外した。仄かな薄紅の霞模様が灯りに反射して、目元から鼻筋までを覆っていた幻想的な意匠が静かに外されると、白磁のような素顔が現れた。
仮面の下にあった肌は、長時間の装束と面の着用にもかかわらず、驚くほど滑らかで、灯りの陰影に映えて柔らかな光を返していた。白くすべやかな肩先が露わになり、柔らかな肌が月光のような灯りに照らされていた。
沙耶の目が、悪戯っぽく細められる。
「……背中、拭いてくれる?」
沙耶は肩越しに振り向き、笑みを浮かべた。灯りの陰影が頬を淡く染め、声は少し甘く、少し色を含んでいた。光継は一瞬、目を見張り、思わず息をのむ。
やがて、静かに頷き、手拭いを手に取る。そっと沙耶の背へと手を伸ばした。
「……ああ」
その動作は慎重で、けれどどこか頼りなさも含んでいた。指先が濡れた肌に触れるたび、沙耶の肩が微かに揺れる。
「ふふ、てっきり襲ってくるかと思ったのに。意外と優しいのね」
「……これでも、瑞京では紳士で通ってるんでね」
冗談めかした返しに、沙耶はくすりと笑い、わざとらしく小さく肩をすくめた。
やがて背を拭き終えると、光継は手拭いを脇に置いた。
「ありがと。……気持ちよかった」
照れたように笑うその声に、光継は小さくうなずいた。
沙耶は立ち上がり、今度は光継の背後にまわって手拭いを手に取った。
「次は、私の番ね。背中、貸して」
「……あ、ああ」
光継が身じろぎすると、沙耶が少し意地悪そうに声をかけた。
「……その服、脱がないと拭けないわよ?」
「え、あ、そ、そうだな……」
慌てて上衣を脱ごうとする光継に、沙耶はくすりと笑い、からかうように言った。
「手伝ってあげようか?」
「いや、大丈夫、大丈夫……!」
なんとか装束を脱ぎ終えた光継の背中に、沙耶は手拭いをそっと当てた。冷たい布が触れた瞬間、光継は思わず肩をすくめる。
「くすぐったい?」
「……ちょっとな」
沙耶はくすりと笑いながら、滑らかな手付きで彼の肩から背中へと手拭いを滑らせていく。その手には、どこか慈しむような柔らかさがあった。
やがて、その手が止まり、沙耶の声が静かに響いた。
「ねえ、どうして今回の任務、あなたが引き受けたの?」
光継はしばし沈黙した後、低く、だがしっかりとした声で語り始めた。
「……俺は、ずっと景虎に嫉妬してた。政十家の名門、鴫原と泉河の血を引いていて、最初から恵まれた立場にあった。俺なんて、淡洲のただの地方武士の三男坊で、学問も武芸も、やっとのことで食らいついてきたってのに……景虎は、武芸館に入る前から“期待の星”だった。なのに、気取ったところがなくて、誰にでも礼儀正しかった。そこがまた、腹が立つくらいだった。
武芸館で初めて打ち負かされた時……正直、衝撃だった。ずっと努力してきて、誉れも得てきたのに、まったく歯が立たなかった。これが……“本物”かって。そこからずっと、あいつを追いかけてた。でも、一度追いついたと思ったら、今度は鬼退治だ。勅命を受けて、島の異変を鎮め、皇女と婚約まで決まった。まるで、空の上に手が届きそうだったあいつが、また一段、高みに行ってしまったようで……正直、悔しかった。みっともないな、俺」
その言葉に、沙耶の指がぴくりと動いた。
「でも、あいつは家柄に甘えてなんていなかった。むしろ、その家柄を使わず、実力だけで評価されることを選んでた。誰よりも誠実で、誰よりも強くて、そして……誰よりも孤独だった。あいつを見ていると、気づくんだ。俺は――景虎になりたかったんだって。でも、そう思っているうちは、きっと追いつけない。だから俺は……今度は自分自身の武功で、認められたくて、この任務を引き受けた」
沙耶がそっと光継の肩に額を寄せ、静かに問いかける。
「……怖い?」
光継は、その一言に一瞬だけ口をつぐんだ。そして、静かに首を垂れる。
「……怖いさ。本当は。おれなんて死んでも誰も泣いてくれる人もいないのに、怖いなんて、変だよな」
沙耶の手が、背から静かに腹の方へと移動し、そのまま光継を後ろから抱きしめるように回された。柔らかな胸元が彼の背に触れ、光継は一瞬、息を呑む。
沙耶はそのまま、ふいに囁いた。
「……泣いてあげようか、私が」
その声音は、からかうように明るく、次の瞬間にはやわらかく包み込むように沈んでいた。
光継は答える代わりに、ゆっくりと沙耶の腕の中から振り返り、彼女の唇にそっと自分の唇を重ねた。
沙耶の瞳がわずかに見開かれ、しかしすぐに柔らかく閉じられる。
光継は一度、その瞳を見つめて小さく囁いた。
「……泣かせるもんな、こんないい女」
その問いに、沙耶はふっと笑って頷いた。
「……ここから先は、高くつくわよ?」
そう言いながら、今度は沙耶の方から光継の唇を奪い返し、彼の胸を押しながら布の上に倒した。
灯りが揺れ、影が重なり合い、やがて静寂の中にふたりの体温だけが残された。激情でも欲望でもなく、ただ差し出された孤独と、それに応える静かな情熱。
不器用で、ぎこちなくて、けれど確かに交わされた肌と肌、息と息。そのひとつひとつが、互いに抱えてきた孤独の形をなぞるように、ゆっくりと重なっていった。
その夜、ふたりは互いの孤独に触れ合い、共鳴し合い、ただ静かに、ひとつの温もりを分け合っていた。
***
夜明け前の静寂が、やがて港のざわめきへと変わっていった。
船室の小窓から差し込む仄かな光が、ゆるやかに床を照らす。木の軋む音と潮の匂いに混じって、遠くから聞こえる人々の掛け声、波止場を行き交う荷車の音が、新たな一日の訪れを告げていた。
簡素な寝台の上、沙耶と光継は並んで横たわっていた。薄布一枚の下でぴたりと寄り添っていたわけではないが、互いの体温の余韻がまだ微かに残っていた。
先に目覚めた沙耶が静かに身を起こし、黒髪を手櫛でかき上げながら小さく伸びをする。灯りの差す窓辺には、黒瀬が気を利かせて用意してくれた着替えが並べられていた。
「下見に出るのに、白槍衛の制服じゃ目立ちすぎるからな。これに着替えてくれ」
黒瀬の言葉どおり、そこに並んでいたのは風舞洲の一般市民に紛れるための、地味で動きやすい衣装だった。
二人は静かに身支度を整え、甲板に上がると、朝の光が港全体を淡く照らしていた。霧が薄く漂い、白く霞んだ町の輪郭が浮かび上がる。その中で色とりどりの幟が潮風に揺れ、帆布の擦れる音と人々の活気が混ざり合う。
ここは風舞洲の港町――名を〈清嵐〉という。
その名の通り、かつては霧栖命の加護による清らかな風が町を包んでいたとされるが、今では風の代わりに技術と活気がこの町を動かしていた。
黒瀬、光継、沙耶の三人は、ひとつの人力車に連れ立って乗り込み、町の中心部を目指した。
車輪が石畳を擦るたびに、霧のなかの景色が流れていく。通りには華やかな幟がはためき、露店の香ばしい匂いと人々の笑い声が交錯していた。
「清嵐は昔から港町だった。船乗りと港湾作業員でにぎわってたが、最近じゃ観光客が港よりも目立つ時代さ。霧栖命の神社も、“恋の神様”として売り出されたのが効いたな」
黒瀬が前方を見つめながら呟くように言う。
「……観光、ね。確かににぎやかだ。市のようだな」
光継が目を細めながら、霧の合間から見える人波を眺める。旅装の若い男女が手を取り合い、土産物を選んで談笑していた。
「“恋の悩みを霧のように晴らす”――今じゃそれが霧栖命の看板文句さ。恋占いも、縁結びの御守りも、若者には大人気だ」
「へぇ、恋占いね」
沙耶が身を乗り出し、巫女装束の占い師たちに視線を送る。その瞳はどこか小悪魔的に輝き、まるで悪戯を思いついた子供のようだった。
「食べ歩きも楽しそう。あ、あそこの団子……ねえ、あとで寄れる?」
「さっき朝飯食べたばっかりだろ」
光継が呆れたように言うと、沙耶はふふっと笑って肩をすくめた。
「毎月八の日には市も立つからな。今日はちょうどその日だ。香草に陶器、外から来た香油まで、なんでも揃う」
「だったら観光気分で楽しんでも、罰は当たらないわね」
沙耶が笑い、光継の袖を指でつまんだ。
「光継、沙耶、お前らは夫婦ってことで二人部屋にしておいたぞ。こっちの土地柄、一人で動くより新婚旅行のふりをしたほうが都合がいい」
黒瀬がさらりと言うと、光継は目を見開いて息を呑んだが、沙耶はどこか嬉しそうに微笑んだ。
「いいじゃない、楽しそうで。よろしくね、旦那様」
光継は咄嗟に言葉を失い、昨晩の出来事が頭をかすめた。その記憶が胸を熱くし、何も言い返せなくなったまま、沙耶の笑顔に見入るしかなかった。
その後、黒瀬は「ちょっと別の用事を思い出した」と気を利かせ、光継と沙耶をふたりきりにしてくれた。
二人は軽く町を散策しながら、賑わう市の中へと足を踏み入れる。
通りには露店が並び、香草を束ねた店、色とりどりの絵馬を売る屋台、香ばしい匂いを漂わせる団子屋などが軒を連ねていた。
「……あれ、恋占い?」
沙耶が指差したのは、風鈴占いの屋台だった。巫女装束の若い女性が、小さな風鈴を手渡しながら笑顔で客と会話している。
「中に願い札を入れて振るんだ。鳴り方で縁の強さを見るって話」
沙耶が説明する。
「……一緒に、やってみる?」
「占いなんて……どうせ“良いご縁ですね”とか言うに決まってる」
口では否定しつつも、光継は札を受け取った。
二人の札が同時に鳴ると、巫女がにっこり微笑んで言った。
「風がふたりの縁を導いています。相性は――抜群、ですね」
「……音の鳴らし方で、結果が変わるようになってるんだろ。仕掛けは見えたよ」
光継が小声で呟くと、沙耶は頬を緩めて目を伏せた。
「それでも、ちょっと嬉しいって思ったでしょ?」
「……ああ」
やがて二人は、黒瀬との待ち合わせ場所である霧栖大社の拝殿前へと向かった。賽銭箱の前には若者が列をなし、巫女が縁結びの御守りを手渡していた。
「……これが、神域だっていうんだからな」
黒瀬が遠くを見るような目で呟く。
光継が小声で沙耶に尋ねる。
「……霧栖命を、感じるか?」
沙耶は空を仰ぎ、そして首を横に振った。
その後、三人は町の定食屋に腰を落ち着け、昼膳を囲む。
鰆の味噌漬けに山菜の煮びたし、蜆の味噌汁という素朴だが滋味あふれる膳の香りに包まれながら、黒瀬が箸を置き、ぽつりと口を開いた。
「……神域ってのはな、本来、神職と選ばれた者だけが足を踏み入れられる場所だったんだ。人が雑に入るようなもんじゃなかった」
光継が箸を止める。沙耶は何も言わず、静かにその言葉を受け止めていた。
「今は違う。賑わってるのは結構なことだが……信仰と観光の線引きが、あまりにも薄くなってきた。神を敬う気持ちと、ただの“娯楽”が、同じ境内に並ぶのが、俺には――どうにも落ち着かなくてな」
そう言って黒瀬は、目の前の味噌汁をそっとかき混ぜた。
沙耶が、箸を器に置いて小さく笑った。
「でもね、神社を巡ってるとわかるの。どんな形であれ、人が集まって、笑ってくれることが、神様にとっても嬉しいんじゃないかって。舞を舞うとき、音に合わせて笑う人がいるだけで、場の気が澄んでいくのがわかるの」
「……形より“気”か」
黒瀬が低く呟いた。
「でも、そうは言っても、女性ひとりじゃ宿にも泊まれないし、食堂に入ることさえ難しいのが現実よ。だからこそ、神域には女性神職が寝泊まりできる場所があるの。そういう意味では、観光客で賑わいすぎると、ちょっと困ることもあるのよね」
沙耶は湯呑を両手で包み、柔らかく笑った。
「それでも、聖なる場所が忘れられるくらいなら、少し俗っぽくてもにぎわっている方が、私は好き」
光継はその様子を黙って見つめていた。沙耶のその笑顔の奥に、しっかりとした考えを持つ彼女自身の意志が感じられ、その姿を美しいと思った。
***
夕餉を終えた頃には、日もすっかり落ちていた。
旅館の湯殿は奥まった廊下の先にあり、湯気をたたえた檜の扉の向こうからは、湯のはじける音と仄かな柚子の香が漂っていた。
光継はひとり湯船に浸かり、天井近くに設けられた小窓の向こうに浮かぶ霧の空をぼんやりと見上げていた。木の桶に湯を汲み、肩から静かにかけ流しながら、昨晩のこと、そして今日の出来事を反芻するように思い返す。
胸の内には、まだ名もつかぬ感情の波が広がっていた。ふとした笑顔、仕草、声の調子――どれもが記憶の中で鮮やかに蘇り、心の奥にじんわりと染みこんでくる。
それがただの一時の感情なのか、本物なのか。まだ答えは見えない。
でも、確かに何かが変わり始めている。そんな予感だけが、今の光継の胸を支配していた。
――沙耶と、ふたりきりで船に乗ったこと。
――沙耶の背を拭いた夜の灯りのぬくもり。
――恋占いの風鈴が、ふたりの縁を導くと告げたあの瞬間。
「あいつ……やっぱり、ただの同僚ってわけじゃ、もう……ないよな」
独り言のように漏らした声に、返事はない。ただ湯面が微かに揺れる。
湯殿の蒸気が、霧のように視界を曇らせる。思考が霞んでいく感覚に、光継は眉を寄せた。
白槍衛が結成されてから、まだわずか数ヶ月。沙耶と出会ってからも、そう長い時が経ったわけではない。任務での接触は限られており、互いを深く知っているとは言いがたい。
顔を合わせれば、色仕掛けでからかわれたり、「まだ名家の娘の尻を追いかけてるの?」と冗談を浴びせられたり。真面目な話など、まともに交わした覚えは少ない。
それでも、この度の中で、そして今日という一日で――彼女の声、仕草、笑い方、まなざしが、少しずつ、確かに心に染み込んできた。
なのに、なぜこれほどまでに心が揺れるのか。
胸の奥で、風鈴の音がかすかに鳴ったような気がした。
ちりん、と。
あのとき聞いた、澄んだ音色。それが耳の奥に、そして心に、ふたたび響いた。
心の霧が晴れた気がした。
「まさか……惚れちまったのか、俺」
湯気に包まれた空間の中、そう呟いた声は、自分のものとは思えなかった。けれど、確かにそう言ったのだと、心が答えていた。
将来のことまで考えている自分に気づき、光継はふうと長い息を吐いた。
すると、ふわりと視界が開けるような錯覚があった。天井近くを漂っていた湯気が、まるで潮が引くように静かに薄れていく。
まるで霧の中に迷い込んでいた意識が、風に吹かれて晴れていくような……そんな感覚。
――ああ、やっぱり俺……本気で惚れてる。
湯から上がり、部屋へと戻ると、灯りが柔らかく迎えてくれた。
寝具は一組だけ。すでに敷かれており、ふたりで使うことが当たり前のように、そこに在った。
沙耶は既に戻っていて、浴衣姿で床に腰を下ろしていた。濡れた髪を白い布で包み、湯上がりの頬にはうっすらと朱が差している。
「今日は、いろいろ楽しかったね」
そう言って沙耶が笑いかける。光継もまた、自然と頷いていた。
「ああ。……楽しかった」
素直にそう言えた自分に、少し驚く。そして、その言葉が沙耶の顔にさらなる笑みを咲かせた。
「へぇ? 今日はやけに正直じゃない。どうしたの? ……私に惚れちゃった?」
冗談めかして投げかけられたその言葉に、光継は一瞬黙った。そして、わずかに視線を逸らしてから、真っ直ぐに沙耶の目を見つめ返す。
「……ああ、惚れた。こんなふうに誰かを想ったのは、初めてかもしれない。冗談抜きで、将来のことも考えるくらいには、本気で惚れてる。……だから――俺と一緒になってくれないか?」
その声は静かでありながら、凛として真っ直ぐだった。
沙耶はしばし目を見開き、驚いたように光継を見つめていた。すぐに視線を逸らし、頬に手を添えて小さく笑う。
「……もう、真面目なんだから。……でも、嬉しいよ」
彼女の声は、冗談交じりの軽さの中に、確かな想いを含んでいた。
「これも、霧栖命様のお導きかもね。……恋の神様、万歳、だわ」
沙耶は頬を染めながら、照れたように微笑んだ。
「私もね、ちゃんと考えるよ。光継との将来……本気で、考えてみる」
そう言って、沙耶はそっと光継の頬に手を添え、唇を重ねた。
唇を離した後、沙耶はいたずらっぽく微笑んだ。
「やっぱり、高くついちゃったでしょ……ふふ。今日も、その続きを、いただこうかしら?」
艶やかな声にふっと色を帯びさせながら、沙耶は光継の胸元にそっと指を這わせる。その指先に導かれるように、ふたりの影が重なっていった。
灯りが揺れ、夜の帳がふたりの温もりを包み込んでいった。
簾の向こうからは、か細い虫の声が聞こえていた。




