第六章 白槍の牙
鬼退治で傷付いた景虎を迎えるものは
春霞村の空に、朝の光がゆるやかに満ち始めていた。朝霧がまだ地表を漂い、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
鬼退治の夜を越え、景虎たちを乗せた小舟は、波の穏やかな海を渡っていた。舟の上では、まだ意識を取り戻さない景虎を、片野玄道が支えている。
景虎の左足と左肩は応急処置が施されていたが、血の気配はなお薄く漂い、肌は蝋のように蒼白だった。
救い出された巫女たちは、震える手で互いを抱きしめながら、舟の端に身を寄せ合っていた。夜明けの静けさが、逆に、生と死の狭間にいる彼らの緊張をより鋭く際立たせていた。
舟が村の浜辺に着くと、春霞村の村人たちがすでに集まっていた。長老・灰田が片膝をつき、祈るような面持ちで出迎える。
「和久井様……景虎様……!」
涙ぐみながら頭を垂れる声に呼応するように、村人たちも次々に地に膝をついた。
玄道は無言で頷き、景虎を村人たちに託すと、巫女たちにも静かに目を向けた。
「……すべてが終わったわけじゃない。けれど、おまえたちが戻ってこられたことが、この村の希望だ。怖かったな。よく、生きて戻った」
景虎は村の簡素な医療小屋へ運び込まれた。近隣の医者が呼び寄せられ、応急処置の跡を丁寧に改めたが、医者の表情は厳しかった。
「手当は見事だ。よほどの覚悟と経験があったのだろう……だが、田舎の設備では限界がある。命の灯が尽きる前に、瑞京へ搬送を」
玄道は深く頭を垂れ、すぐに都への搬送の手配を始めた。
浜辺に残された村人たちは、焚き火の前でそっと手を合わせていた。その傍には、村の若者たちが急ごしらえで立てた小さな祠があり、そこには霧栖命を象った木彫りの御神体が祀られていた。
「社は清められた……神さまも、お戻りくださった……」
誰かのつぶやきが、潮風に乗って流れていく。その声を聞いた灰田は、目頭をぬぐいながら空を仰いだ。
***
瑞京では、討伐報告がもたらされるや否や、都人の間に歓声が沸き上がった。
片野玄道からの詳細な報告書には、禊之宮に立て籠もった鬼の成り立ち、そして社の浄化の経緯が記されていた。春霞村の村長・灰田からの感謝状も添えられ、現地の医師の診立てによる景虎の容態の報告も届いていた。
瑞京の政治中枢、紫宸殿の東棟。そこでは高官会議「葉会」が開かれていた。出席できるのは高位家格に属する大臣級の者のみ。
議場には討伐報告書と感謝状、典薬寮より届けられた療治控えが並べられている。
桂木景永は机上の療治控えに静かに目を落とし、その指先で一枚を整えた。眉間には深い皺が寄り、口元は慎重に閉ざされたまま、しばしの沈黙が流れる。やがて視線をあげ、重々しい声で言った。
「角がない、という一点に目を瞑るならば……内容はほぼ完璧だ」
蘇芳恒信が腕を組みながら応じた。
「角がないことを、どう都人に説明するか……問題はそこだな。民は“角”という象徴を欲している。証を見せねば、不安や疑念が広がる恐れがある」
鵤経澄が眉をひそめて言った。
「戦に証がいるのは当然だ。神託や感謝状で政治を動かしてよいものか。民衆の熱狂に押され、理が捻じ曲がるなら、いずれ国が傾く」
泉河澄継は静かに反論した。
「その熱狂を理と結びつけるのが我らの務めだ。景虎の働きは確かであり、霧栖命が紫苑に託した神意も明白だ。制度と神意が重なった今、否定のほうがよほど危うい」
浅緋仲房は茶をすすりながら言った。
「角の有無よりも、むしろ“鬼”の定義そのものが揺らいでおるな。今回の敵は人か鬼か、それすら曖昧だ。それでも霧栖命が社を浄め、民が救われた――それこそが本質であろう」
斎華皇后は、重臣たちの言葉を黙って聞いていた。沈黙は、同意とも拒否とも取れる。だが、それが場の緊張を一層高めていた。
“鬼の角”――それはもともと、象徴としての意味を持たせて斎華自身が口にした比喩に過ぎなかった。けれども今や、その語は独り歩きし、都人も重臣たちもそれを実在の証と見なし、目に見える角を求めて疑わなくなっていた。
(神と人の狭間にあるものなど、あの者たちには理解し得ぬ……だが、それでも言葉は形を持つ)
斎華は、諦念と警戒を綯い交ぜにした思いで、口を閉ざしたまま場の成り行きを見守っていた。どう言葉を尽くそうとも、すべてを理解させることはできまい。だが、いかに語るべきかを――なお模索していた。
そんな空気の中で、高峯帝は終始沈黙を守っていた。
彼が口を開かずとも、その存在だけで重臣たちに自制を促していることは明らかだった。
帝の視線はただ一つ、報告書の端に綴られた「霧栖命の神託」という文字に留まっていた。
その無言の重みが、場の議論を神の領域へと引き戻していた。
***
景虎の意識が戻ったのは、瑞京に運ばれて三日後だった。
静かな医務殿の一室。
視界は霞んでいた。思考は混濁し、身体の重さも、自分の呼吸すらも定かではない。それでも、景虎はただひとつの色を探していた。
白梅の刺繍。藤紫の袖。
「……紫苑……?」
夢か現か。彼は、眠るように名を呼んだ。まるで、最後に伝えたい言葉を託すように。
紫苑は驚きに瞳を見開き、すぐに微笑みをたたえた。
「……目を覚ましてくれて、良かった……」
紫苑はそっと景虎の額に手を当て、熱を確かめるように撫でた。
「霧栖命が社を浄めてくださって……村の人々もようやく安堵し、平穏を取り戻しています。そして――あなたが帰ってきてくれたこと……私は、それに、心から……感謝しています」
景虎はまぶたを閉じ、苦笑のように口元を動かした。
「……おまえの声が……届いた気がした」
その声には、夢と現の境をさまよう者の、朧げなやさしさと懺悔が入り混じっていた。
「……こうして、もう一度……おまえに会えたなら……言いたかったんだ。……おまえと、夫婦になりたい」
紫苑の目に、はっきりとした涙が浮かぶ。
「ええ。私、ずっと祈っていました。あなたが生きて帰ってくれるように……」
景虎は微笑むように目を細め、その手をわずかに動かして、紫苑の手に触れた。
「……そばにいてくれて、ありがとう……紫苑」
紫苑はその手を両手で包み込み、涙をこらえきれず、小さく笑った。
「私は、もう離れません。これからずっと……あなたのそばにいます」
その声音には、熱と震えが宿っていた。数日間の看病と祈りの果てに得た安堵が、彼女の心の扉を開いていた。
景虎は熱に浮かされながらも、その真っ直ぐな想いに、微かに頷いた。
***
数日後。
瑞華殿――金と朱で荘厳に彩られた空間の中に、冷えたような緊張が満ちていた。
香が焚かれ、天蓋の下には高峯帝が厳かに玉座に座し、斎華皇后がその隣に静かに控える。
紫苑は帝の左手側に位置し、長い緋の衣の裾を整えて膝を揃えていた。
景虎は、儀礼に則って正面の緋絨毯を歩む。
足元はまだ万全ではない。だが、歩を止めぬその姿勢に、重臣たちは言葉少なに視線を注いでいた。
その中には、桂木、蘇芳、泉河、浅緋、鵤――葉会の顔ぶれが整然と並んでいる。
やがて景虎は膝をつき、懐から白布に包まれた短剣を取り出すと、両の手で玉座に向けて差し出した。
「鬼の角、持ち帰れず。任務、未達にございます。……神の選びを受けながら、角一つ持ち帰れなかったこと……紫苑様の信を裏切ったこと、ただそれが……口惜しくてなりませぬ」
短く深く頭を下げ、静かに短剣を前へ置く。
重臣たちの間に、ざわめきが走る。
「……自ら切腹を……」
「責を問われる前に……」
空気が一気に張り詰めたその刹那、
「お待ちください!」
その声が、まるで雷鳴のように響いた。
紫苑だった。
彼女は音もなく立ち上がり、裾を翻して緋絨毯を駆け、景虎の前に立ちふさがった。
そして、何の迷いもなく、短剣を拾い上げる。
その動作には、ただの感情だけでなく、凛とした決意と覚悟があった。
「その命、ここで散らすおつもりなら――私がいただきます」
殿中に、深い沈黙が落ちた。
紫苑の声音は、透き通るように凛としていた。
「もとより、私は蹴鞠の儀において、鞠を蹴り、あなたを選びました。これは神の定めであり、私の意志です。あなたが命を捨てるというなら……私は、その死すら共に致します」
景虎が目を見開く。
紫苑は、一瞬まぶたを伏せ、涙を堪えるように息を整えた。そして、そっと微笑んだ。
「……病床で夫婦になろうと言ってくださったじゃないですか。今さら一人で逝こうだなんて、思わないでください」
その言葉に、再び殿中がざわつく。
重臣たちは声を失い、帝の反応を伺うように一斉に玉座を見つめた。
沈黙を破ったのは、高峯帝だった。
ゆっくりと立ち上がり、威厳をたたえた足取りで景虎の前に歩み寄る。
従者から受け取った白布に包まれた槍。
布を払えば、そこに現れたのは白銀の穂先。
「白槍の牙」
それは桐葉国に伝わる三種の神器のひとつにして、神と天子の加護を象徴する霊槍であった。戦乱の時代には、帝の代理として国を護る者にこれが与えられ、神託と武功を兼ね備えた者のみが手にすることを許される。
霊槍の象徴たるその武器を、帝は高く掲げた。
「和久井景虎」
あえて本家筋である鴫原や母方の泉河ではなく、和久井と呼んだのは、家名や組織に頼って解決したのではなく、実力で道を切り拓いて解決した結果を尊重してのことだった。
「汝の武功と忠義、そして紫苑の覚悟を以て、この槍を授ける」
そして一歩進み、槍を景虎の前に差し出す。
「これより汝を、紫苑の許婚として、正式に認める」
斎華皇后も、その場で静かに頷いた。
「紫苑の選び、神の御心と見届けました。皇后として、また霧栖命を祀る者として……心からこれを祝します」
一拍置き、彼女は柔らかな声音で言葉を継いだ。
「古来より“鬼の角”とは、神と人の狭間に立つ者がその身に帯びるとされた目に見えぬ象徴にございます。形ある証ではなく、その影に立ち向かう意志こそが、神に選ばれし者の証なのです」
景虎の喉が詰まったように震えた。心の奥底で、自らを裁いていたものが、ふっと崩れ落ちていく音がした。
景虎は平伏した。
紫苑がそっとその肩に手を置いた。その手は微かに震えていたが、景虎の温もりに触れた瞬間、ぬくもりが静かに指先から流れ込んだ。
紫苑は、自らの袖の藤紫の紐をほどくと、景虎の左腕にそっと巻きつけた。
「この紐は、霧栖命への祈りとあなたの命をつなぐ証。……今度こそ、離しません」
その瞬間、瑞京の空に、春を告げる風が吹き抜けた。
それは神が認めた契りの風。
二人の未来を祝福するかのように、柔らかな光が殿を満たしていた。
***
この儀をもって、景虎は勅命なくして神域の問題に対処できる立場――白槍を戴く者として、帝より新たに創設された近衛部隊「白槍衛」の指揮官に任じられた。
その任は、神社領における警護・異変対応、そして宗教勢力と朝廷との調整に及ぶ、神と政の狭間を担うものである。
また、彼の地位にふさわしく、景虎には従四位下の官位が授けられた。
加えて、紫苑との結婚を控え、殿上間に昇ることをも許される。世に言う殿上人である。
神と人の間をつなぐ白槍の担い手として、景虎は静かにその槍を受け取った。
まぐろ先生の次回作にご期待ください




