存在しない少女
『やっと、見つけてくれたね』
暗闇の中で、少女の声が聞こえた。
俺は振り返った。
誰もいない。
地下通路には、俺とアキラとナギの三人しかいなかった。
「……今の声、聞こえたか?」
「何の声?」
ナギが不安そうに周囲を見回す。
「誰かが、俺に話しかけたんだ」
「通信機じゃないの?」
「違う。すぐ近くで聞こえた」
アキラが警棒を構え直した。
「神崎、動くな」
彼は周囲を警戒しながら、俺の前に立った。
「朝比奈、照明を確認しろ。俺は通路の奥を見る」
「了解」
ナギが端末を操作する。
だが、照明は復旧しなかった。
「駄目。施設の電源が落ちてるみたい」
「予備電源は?」
「反応なし!」
アキラが舌打ちした。
「御堂の指示どおり撤退する。神崎、ついてこい」
「……待ってくれ」
俺は、さっきまで少女が立っていた場所を見つめた。
そこには何もない。
黒い染みすら、消えていた。
「ユナがいたんだ」
「さっきの少女か?」
「そうだ。あの子は、俺を知っていた」
「だが、本人はお前を知らないと言った」
「……ああ」
「なら、本人に聞けばいい。ここに残っても何もわからない」
アキラの言うことは正しかった。
正しかったけれど。
俺は、どうしても気になった。
あの少女は、最後に何を言おうとしたのか。
なぜ俺に、逃げろと言ったのか。
そして、あのメッセージ。
『今度こそ、私を殺して』
俺はスマートフォンを確認した。
画面には何も表示されていない。
メッセージの履歴もない。
まるで、最初から何も起きていなかったかのようだった。
「……帰ろう」
俺は、ようやくそう言った。
*
対策局に戻ると、俺たちは別々に事情聴取を受けた。
戦闘の経過。
怪物の特徴。
少女が現れたときの状況。
質問は細かく、何度も繰り返された。
特に、御堂は少女について詳しく聞きたがった。
「神崎。もう一度確認する。少女は、白瀬ユナと名乗ったのか?」
「いいえ。名前は名乗っていません」
「では、なぜ白瀬ユナだと思った?」
「……顔が、知っている人にそっくりだったからです」
「知っている人?」
「俺の部屋に、夜になると現れるんです」
御堂の手が止まった。
「いつからだ?」
「昨日より前……だったと思います」
「思います?」
「すみません。記憶が曖昧で」
御堂は、しばらく黙っていた。
その表情を見て、俺は確信した。
この人は何かを知っている。
俺が知らない、ユナについての何かを。
「御堂さん」
「何だ?」
「白瀬ユナって、何者なんですか?」
御堂は答えなかった。
「さっき、通信機で言いかけましたよね。『白瀬ユナという人物は――』って」
「……通信障害が起きていた。正確に聞き取れなかった可能性がある」
「そんなわけないでしょう」
思わず声が強くなった。
御堂が顔を上げる。
「俺は、あの子を知っている気がするんです。なのに、思い出せない。記録も残っていない。写真にも写らない。あの子は一体何なんですか?」
「神崎」
御堂の声が低くなった。
「今は、これ以上調べるな」
「どうしてですか?」
「お前の安全のためだ」
「それ、何も説明してないのと同じじゃないですか!」
俺は立ち上がった。
椅子が床を擦り、音を立てる。
「俺はもう、普通の高校生じゃいられないんでしょう? 怪物と戦わされて、自分の記憶までおかしくなって。それでも、何も知らないまま戦えっていうんですか?」
御堂は、俺を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……今は帰れ」
「御堂さん!」
「これは命令だ、神崎」
それ以上、何を言っても無駄だった。
俺は拳を握りしめた。
そして、部屋を出た。
*
廊下のベンチには、アキラが座っていた。
「終わったのか?」
「……ああ」
「顔に出ているぞ」
「何が?」
「納得していない顔だ」
俺は隣に腰を下ろした。
「御堂さん、絶対に何か隠してる」
「だろうな」
「……え?」
思わずアキラを見る。
「気づいてたのか?」
「気づかないほうがおかしい。お前が少女の名前を口にした途端、あの人は明らかに動揺していた」
「じゃあ、なんで何も言わなかったんだよ」
「確証がないからだ」
アキラは腕を組んだ。
「それに、上の人間が何かを隠しているのは珍しくない。問題は、何を隠しているかだ」
「……ユナのこと、知っていると思うか?」
「可能性は高い」
アキラは、少しだけ考えてから続けた。
「ただし、気をつけろ。相手が何かを隠しているからといって、それが必ずしもお前の敵とは限らない」
「……わかってる」
「本当に?」
「お前、俺のこと信用してないだろ」
「まだ判断中だ」
「ひどいな……」
思わずため息が出た。
そのとき、廊下の向こうからナギが走ってきた。
「二人とも! ちょっと、これ見て!」
彼女は端末を俺たちに差し出した。
「さっきのショッピングセンターの記録を調べてたんだけど、変なものが見つかったの!」
画面には、施設の監視カメラの映像が表示されていた。
「これ、俺たちが入る前の映像か?」
「そう! 昨日の夜、警備員が最後に確認された時間帯!」
映像の中では、誰もいない通路を警備員が歩いている。
そして、画面の端に黒い影が現れた。
警備員が振り返る。
次の瞬間、画面が乱れる。
そこまでは、作戦室で見た映像と同じだった。
だが、ナギは映像を一時停止した。
「ここ!」
画面の隅。
黒い影の向こうに、白い服を着た少女が立っていた。
「……ユナ」
俺は息を呑んだ。
「でも、これだけじゃないんだよ」
ナギが別の映像を開く。
今度は、別の日の監視カメラだった。
同じ通路。
同じ時間帯。
そこにも、白い服の少女が映っていた。
さらに別の映像。
また、別の日。
少女は、いつも同じ場所に立っていた。
「これ、全部違う日なんだよね?」
俺が尋ねる。
「うん。少なくとも、記録上はね」
「……記録上?」
ナギは困ったように眉を寄せた。
「実は、変なのはそれだけじゃないの。監視カメラの記録では、少女が現れた日付が一部重複しているんだよ」
「日付が重複?」
「同じ日に撮影されたはずなのに、施設の時計と記録ファイルの日時が一致していない。しかも、一部の映像は撮影された順番が逆になってる」
アキラが画面を覗き込んだ。
「映像の改ざんか?」
「その可能性もある。でも、ファイルそのものには編集された痕跡がないんだよね」
ナギは腕を組んだ。
「まるで、昨日と今日が混ざっちゃったみたい」
その言葉に、俺の心臓が強く跳ねた。
昨日と今日が混ざる。
昨日喰い。
消された人間。
そして、存在しない少女。
全部が、どこかでつながっている気がした。
「……ナギ。この映像、コピーできる?」
「もちろん。もう保存してあるよ!」
「助かる」
俺は画面を見つめた。
少女は、監視カメラの方向を向いていた。
顔はぼやけている。
それなのに。
俺には、彼女がこちらを見ているように思えた。
まるで、俺がこの映像を見ることを知っていたかのように。
*
その夜。
俺は自宅に帰らず、対策局の資料室にいた。
もちろん、御堂には内緒だ。
ナギが見つけた映像だけでは、ユナの正体はわからない。
なら、もっと調べるしかない。
昨日喰いに関する過去の記録。
適合者についての資料。
そして、白瀬ユナという名前。
俺は検索端末に名前を入力した。
該当する記録はありません。
もう一度、漢字を変えて検索する。
白瀬。
白瀬ユナ。
シラセ・ユナ。
何も出てこない。
「……やっぱり、存在しないのか?」
諦めかけた、そのとき。
端末の画面が一瞬だけ暗くなった。
そして、見覚えのないファイルが表示された。
『特異災害関連資料・閲覧制限』
ファイル名の下に、警告文が表示されている。
《権限がありません》
そのファイルの中に、ひとつだけ目を引く単語があった。
『黒い聖書』
「……何だ、これ」
俺が画面に触れた瞬間、警告が表示された。
《不正アクセスを検知しました》
「うわっ!」
画面が切り替わり、端末が操作を受け付けなくなった。
やばい。
見つかったら、確実に怒られる。
俺は慌てて端末から手を離した。
だが、その直後。
資料室の扉が開いた。
「神崎」
振り返ると、御堂が立っていた。
「……何をしている?」
「いや、その……」
言い訳を探す。
だが、御堂の視線は、俺の後ろにある端末へ向けられていた。
画面には、まだファイル名が残っていた。
『黒い聖書』
御堂の表情が変わった。
怒りではない。
驚きでもない。
もっと深い、恐怖に近いものだった。
「……どこで、その名前を見た?」
「この端末に出てきたんです。検索していたら、突然……」
「ほかには何か見たか?」
「いえ。開こうとしたら、警告が出て……」
御堂はすぐに端末を操作し、ファイルを閉じた。
そして、周囲を確認するように視線を走らせた。
「神崎。今夜、ここで見たことは誰にも話すな」
「どうしてですか? 黒い聖書って何なんですか?」
御堂は答えなかった。
ただ、俺の肩をつかんだ。
「いいか。もし今後、その名前をどこかで見かけても、絶対に開くな。触れるな。ましてや、持ち出そうなどと思うな」
「……そんなに危険なものなんですか?」
御堂は、しばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「それは本ではない」
「……え?」
「少なくとも、普通の人間が書いたものではない」
俺は言葉を失った。
御堂は、さらに続けた。
「黒い聖書に書かれたことは、これまで一度も外れたことがない」
「未来が、書いてあるってことですか?」
「……そうだ」
背筋が冷たくなった。
未来が書かれた本。
そんなものが、本当に存在するのか。
「なら、そこにユナのことも……?」
俺が尋ねると、御堂は目を伏せた。
「神崎。お前は、まだ何も知らない」
「だから、教えてください!」
「今は駄目だ」
「どうして!」
御堂は俺から手を離した。
「……お前の名前が、すでに書かれているからだ」
心臓が止まりそうになった。
「俺の名前?」
御堂は答えなかった。
そのまま資料室を出ていこうとする。
「待ってください! 俺は、どうなるんですか!?」
扉の前で、御堂が立ち止まった。
振り返らずに言う。
「明日、もう一度ここへ来い」
「明日?」
「その本について、お前に見せなければならないものがある」
扉が閉まった。
俺は、しばらく動けなかった。
黒い聖書。
未来が書かれた本。
そして、そこに書かれている俺の名前。
頭の中で、さまざまな疑問が渦巻いていた。
だが、一つだけ確かなことがあった。
俺はもう、知らないふりをして生きることはできない。
*
自宅に帰ると、部屋の明かりがついていた。
「……え?」
俺は玄関で立ち止まった。
出るとき、確かに電気は消したはずだ。
靴を脱ぎ、恐る恐る部屋に入る。
ベッドの上に、少女が座っていた。
白い服。
長い黒髪。
見慣れたはずなのに、見るたびに胸が痛くなる顔。
白瀬ユナ。
「……おかえり、レン」
彼女は、いつものように笑った。
俺は何も言えなかった。
本当に、彼女がいる。
映像でも、記憶でもない。
目の前に、確かに存在している。
「……ユナ」
名前を呼ぶと、彼女の笑顔が少しだけ曇った。
「うん」
「君は、何者なんだ?」
ユナは答えなかった。
俺は一歩、近づいた。
「今日、昨日喰いの中から、君と同じ姿の女の子が出てきた」
ユナの瞳が揺れた。
「……そう」
「彼女は、俺のことを知らなかった。俺も、君のことをちゃんと思い出せない。なのに、君は俺を知っている」
「……」
「君は、一体何なんだ?」
沈黙が落ちた。
やがて、ユナはゆっくりと顔を上げた。
「レン」
その声は、いつもより小さかった。
「あなたは、黒い聖書を見たの?」
俺は息を止めた。
「……どうして、その名前を知ってる?」
ユナは悲しそうに笑った。
「やっぱり、始まっちゃったんだね」
「何が?」
「あなたが、私を忘れるまでの時間」
胸が締めつけられた。
「……どういう意味だよ」
ユナはベッドから立ち上がった。
そして、俺の手を取った。
その手は、冷たかった。
「レン。明日、黒い聖書を見せてもらって」
「御堂さんにも、そう言われた」
「絶対に、最後のページを見ないで」
「……最後のページ?」
ユナはうなずいた。
「そこには、あなたの死ぬ日が書いてあるから」
俺は、言葉を失った。
ユナは俺の手を離した。
そして、部屋の扉へ向かう。
「待ってくれ!」
俺は彼女を呼び止めた。
「君は、俺を殺してほしいと言った。なのに、今度は死ぬなって言うのか?」
ユナは振り返らなかった。
ただ、静かに答えた。
「私は、あなたに殺してほしい」
その声は、震えていた。
「でも、あなたには生きていてほしい」
次の瞬間、部屋の明かりが消えた。
俺が慌ててスイッチを押すと、そこには誰もいなかった。
ベッドの上にも。
扉の前にも。
彼女の姿は、どこにもない。
ただ、枕元に一枚の紙が置かれていた。
黒い紙。
そこに、白い文字で一行だけ書かれている。
『神崎レンの死亡予定日――明日』
俺は、その紙を握りしめた。
窓の外では、夜が明けようとしていた。
そして俺は、まだ知らなかった。
その日が終わる前に、自分が何者なのかを知ることになるのだと。




