明日、俺は死ぬ
朝、目が覚めたとき。
俺はまず、枕元に置いた黒い紙を確認した。
『神崎レンの死亡予定日――明日』
何度読み返しても、文字は変わらない。
夢であってほしかった。
けれど、紙を握りつぶしても、破いても、燃やしてもいない。
俺はただ、その紙を制服のポケットにしまった。
今日、死ぬわけじゃない。
少なくとも、黒い聖書にはそう書かれていた。
「……だったら、今日くらい普通に過ごしてやる」
そうつぶやいた瞬間、スマホが震えた。
御堂カナタからのメッセージだった。
『午前九時。対策局本部に来てください。黒い聖書を見せます』
続けて、もう一通。
『一人で来るように』
一人で。
その一文が、妙に引っかかった。
昨日までなら、俺は何も考えずに従っていただろう。
でも今は違う。
俺の名前が書かれた本。
明日という死亡予定日。
そして、俺を殺してほしいと言った白瀬ユナ。
何かがつながっている。
それだけは、確信していた。
*
「おっはよー! ……って、うわ。なにその顔」
本部の入口で、朝比奈ナギに遭遇した。
「そんなにひどい顔してるか?」
「うん。寝不足の幽霊みたい」
「幽霊に失礼だろ」
「じゃあ、死にかけの高校生?」
「もっとひどくなったぞ」
ナギは楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、少しだけ気持ちが軽くなる。
昨日の夜、俺は自分が死ぬ日を知った。
それでも、朝は来た。
人は笑うし、くだらない会話もする。
世界は何も変わっていないように見える。
「ところで、レン。今日、御堂さんに呼ばれてるんでしょ?」
「……なんで知ってる?」
「あれ? 昨日、そんな話してなかったっけ?」
「してないと思うけど」
「そっか。じゃあ、私の勘違いかな」
ナギはあっさりと首をかしげた。
「まあ、御堂さんって秘密主義だからね。変なこと聞かれても、全部正直に答えなくていいと思うよ」
「それ、対策局の職員が言っていいのか?」
「私はまだ職員っていうより、現場の便利屋だから!」
胸を張るナギ。
俺は苦笑した。
今の会話に、特別おかしなところはなかった。
ただ、ナギが去ったあと。
俺はふと、疑問を覚えた。
どうして彼女は、俺が御堂に呼ばれていることを知っていたんだろう。
考えてみたが、すぐに答えは出なかった。
そして俺は、その疑問を忘れた。
正確には――別のことに気を取られたのだ。
廊下の奥から、黒崎アキラが歩いてきたからだった。
「おい、神崎。御堂がお前を待ってる」
「一人で来いって言われたんだけど」
「俺はついていかねえよ。用があるのは別の場所だ」
アキラは俺の顔を見て、わずかに眉をひそめた。
「……何かあったか?」
「別に」
「嘘が下手だな、お前」
「生まれつきだよ」
「なら、死ぬ前に直しておけ」
その言葉に、心臓が跳ねた。
アキラは気づいていない。
何気なく言っただけだ。
それなのに、俺には笑えなかった。
「……アキラ」
「なんだ」
「人間って、自分がいつ死ぬか知ったら、どうすると思う?」
アキラは少しだけ黙った。
それから、いつもの無愛想な顔で答えた。
「そいつ次第だろ」
「例えば?」
「逃げる奴もいる。諦める奴もいる。誰かを道連れにしようとする奴もいる」
「お前なら?」
「俺は――」
アキラは一度、視線を落とした。
「死ぬ理由を探す」
「……理由?」
「死ぬことが決まってるなら、せめて納得できる理由くらい欲しいだろ」
それだけ言って、アキラは歩き出した。
俺はその背中を見送った。
死ぬ理由。
俺は、そんなものを見つけたくない。
ただ、生きたい。
明日も、その先も。
ユナが何者なのかを知りたい。
なぜ俺を殺してほしいと言うのか。
なぜ俺は、彼女を忘れてしまうのか。
その答えを知るまでは、死ぬわけにはいかなかった。
*
「来ましたね、神崎君」
対策局本部の地下三階。
御堂は、普段使っている会議室とは違う部屋で俺を待っていた。
窓はない。
壁は白く、机も椅子も最低限しか置かれていない。
部屋の中央には、透明なケースがあった。
その中に、一冊の本が置かれている。
黒い表紙。
装飾のない背表紙。
けれど、それを見た瞬間、俺は息をのんだ。
知っている。
この本を、俺は知っている。
触れたこともないはずなのに。
ページを開いたこともないはずなのに。
ずっと昔から、これを知っていたような気がした。
「これが……黒い聖書?」
「そうです」
御堂はケースのロックを解除した。
「ただし、触れるのは私が許可したページだけにしてください」
「どういう意味だよ?」
「この本は、読む人間によって記述が変わることがあります。正確には、読んだ人間が認識できる内容が変わる、と言ったほうが近いかもしれません」
「そんなの、ただの本じゃないだろ」
「ええ。少なくとも、私たちはそう考えています」
御堂は黒い聖書を開いた。
最初のページには、見たことのない文字が並んでいた。
読めない。
なのに、意味だけが頭の中に流れ込んでくる。
――昨日は失われる。
――今日に残るものは、昨日を覚えている者だけ。
――明日は、選ばれた者にのみ与えられる。
「……何だよ、これ」
俺がつぶやくと、御堂は次のページをめくった。
そこには、日付が記されていた。
今日の日付。
そして、その下に並ぶ文章。
『午前十時四十二分。
特異災害対策局第七観測区画において、適合者一名が死亡する』
俺は時計を見た。
午前九時二十七分。
「第七観測区画って……どこだ?」
「本部の地下にあります」
「適合者って、俺のことか?」
御堂は答えなかった。
「質問に答えろよ!」
思わず声が大きくなった。
御堂は、静かに俺を見つめていた。
その目には、同情があった。
そして――諦めも。
「神崎君。あなたの死亡予定日は、明日です」
「それは知ってる!」
「ですが、この本には、今日あなたが死ぬとも書かれています」
「どっちなんだよ!」
「私にも分かりません」
御堂は正直に言った。
「黒い聖書の予言は、これまで一度も外れたことがありません。しかし、記述の意味を人間が正しく理解できているとは限らない」
「つまり、明日死ぬっていうのも、今日死ぬっていうのも、本当かもしれないってことか?」
「そうです」
冗談じゃない。
俺はまだ十七歳だ。
高校生活だって、まともに終えていない。
将来のことも、家族のことも、自分の能力のことだって、何も分かっていない。
そんな俺が、今日死ぬ?
「……ふざけるな」
拳を握りしめた。
「俺は死なない」
「神崎君」
「予言が絶対だっていうなら、俺がそれを外してやる」
御堂は何も言わなかった。
俺は黒い聖書をにらみつけた。
すると、ページの文字が揺らいだ。
紙の表面に、黒い染みが広がる。
そこから、新しい文章が浮かび上がってきた。
『予定外の行動を確認』
俺は息を止めた。
その下に、さらに一文が現れる。
『観測者を変更する』
「……御堂さん。これ、何だ?」
御堂の顔色が変わった。
「本から離れて!」
その瞬間、部屋の照明が消えた。
警報が鳴り響く。
壁の向こうで、何かが倒れる音がした。
続いて、通信機から叫び声が聞こえた。
『こちら第七観測区画! 侵入者を確認! 繰り返す、侵入者を確認!』
御堂が通信機をつかむ。
「侵入者の特徴は?」
『黒い外套を着用! 顔は確認できません! それと――』
通信が途切れた。
数秒後。
別の声が、通信機から流れた。
『対象を発見しました』
聞いたことのない声だった。
『神崎レン。黒い聖書への接触を確認』
御堂が俺を見た。
俺も御堂を見返した。
「……誰だ、そいつ」
通信機の向こうで、誰かが笑った。
『予定を修正します』
その声は、妙に穏やかだった。
『神崎レンの死亡時刻を、午前十時四十二分から――午前十時三十分に変更』
時計を見る。
午前九時三十一分。
まだ、一時間近くある。
なのに。
俺の背後で、扉のロックが解除される音がした。
振り返る。
開いた扉の向こうに、黒い外套の人物が立っていた。
顔はフードに隠れている。
手には、黒い紙片。
そこに書かれていた文字を見て、俺は凍りついた。
『神崎レンを殺せ』
黒い外套の人物は、ゆっくりと顔を上げた。
「初めまして、神崎レン」
声は若い。
男なのか女なのかも、よく分からない。
「あなたに、一つだけ教えてあげる」
人物は、黒い聖書を指さした。
「その本は、未来を予言しているんじゃない」
「……何?」
「未来を、決めているの」
次の瞬間。
人物の姿が、かき消えた。
「なっ――!」
背後から殺気。
俺は振り返るより早く、身体を動かした。
鋭い衝撃が脇腹をえぐる。
痛みが走った。
視界が揺れる。
俺の身体が、壁に叩きつけられた。
「神崎君!」
御堂の声が遠くなる。
黒い外套の人物が、ゆっくりと近づいてくる。
その手には、いつの間にか刃物が握られていた。
「あなたが死ねば、明日が始まる」
刃先が、俺の喉元に向けられる。
「あなたが生きれば、昨日が戻ってくる」
意味が分からない。
けれど、その言葉を聞いた瞬間。
俺の頭の中に、白い服の少女が浮かんだ。
長い黒髪。
悲しそうな瞳。
白瀬ユナ。
『私は、あなたに殺してほしい』
『でも、あなたには生きていてほしい』
「……ユナ」
俺がその名を口にした瞬間、黒い外套の人物の動きが止まった。
ほんの一瞬。
ほんのわずかな反応。
それを、俺は見逃さなかった。
「お前……ユナを知ってるのか?」
人物は答えない。
代わりに、低い声で告げた。
「その名前を、二度と口にするな」
刃が振り下ろされる。
俺の身体が、勝手に動いた。
――対敵適応。
視界が変わる。
相手の動きが、ほんの少しだけ遅く見えた。
刃の軌道。
重心の位置。
踏み込む足。
俺は紙一重で刃をかわし、相手の腕をつかんだ。
だが、次の瞬間。
全身に激痛が走った。
能力が、身体を無理やり作り変えようとしている。
骨が軋む。
呼吸が止まりかける。
それでも、俺は手を離さなかった。
「俺は……まだ死ねない!」
黒い外套の人物が、初めて驚いたように目を見開いた。
フードの隙間から、白い肌が見えた。
そして、かすかな声。
「……やっぱり」
その声は、どこか懐かしかった。
「あなたは、まだ覚えているんだね」
次の瞬間、人物は自ら腕を振りほどき、後方へ跳んだ。
床に黒い紙片が落ちる。
俺がそれを拾おうとしたとき、人物はもう廊下の奥へ消えていた。
追いかけようとしたが、足に力が入らない。
俺はその場に膝をついた。
御堂が駆け寄ってくる。
「神崎君! 意識はありますか!」
「……あいつは、何者なんだ」
「分かりません。ですが、あなたを狙っていることは確かです」
御堂は床に落ちた紙片を拾った。
その表情が、凍りついた。
「どうした?」
御堂は、すぐには答えなかった。
俺は紙片を奪い取った。
そこには、たった一行だけ記されていた。
『第十三番目の聖書は、すでに目覚めている』
そして、その下に。
見覚えのある名前があった。
『白瀬ユナ』
*
その夜。
特異災害対策局から帰宅した俺は、ベッドに倒れ込んでいた。
身体中が痛い。
対敵適応を使った反動で、指先すら思うように動かない。
それでも、頭の中では、あの人物の言葉が何度も繰り返されていた。
――その本は、未来を予言しているんじゃない。
――未来を、決めているの。
黒い聖書は、誰が書いたんだ。
なぜ、俺の死ぬ日が記されているんだ。
そして、第十三番目の聖書とは何なのか。
考えても、答えは出ない。
「……ユナ」
名前を呼ぶ。
返事はない。
今夜も、彼女は現れないのだろうか。
そう思ったとき。
枕元のスマホが震えた。
知らない番号からのメッセージ。
画面を開く。
『今日は、ごめんね』
続けて、二通目。
『あなたを助けることができなかった』
俺は飛び起きた。
『誰だ?』
すぐに返信する。
既読はつかない。
代わりに、三通目が届いた。
『でも、まだ間に合う』
『明日になる前に、私を見つけて』
俺は息をのんだ。
最後のメッセージが届く。
『レン』
『今度こそ、私を殺して』
その瞬間、スマホの画面が真っ黒になった。
暗い画面に、俺の顔が映る。
だが。
そこに映っていた俺は、笑っていた。
俺は笑っていない。
画面の中の俺だけが、口元を歪めている。
そして、そいつは俺の知らない声で言った。
「明日なんて、来なければいいのに」
画面が元に戻る。
俺はしばらく、身動きが取れなかった。
窓の外では、夜が静かに深まっていく。
午前零時まで、あと少し。
黒い聖書に記された死亡予定日まで、あと一日。
そして俺は、まだ知らなかった。
俺を殺そうとしたあの人物が、教団にとっても、対策局にとっても、決して正体を知られてはならない存在だったことを。
その人物が残した報告書には、たった一文だけが記されていた。
『対象は、白瀬ユナの名前に反応』
その下には、誰にも読めないほど小さな文字で、こう書き加えられていた。
『――計画は、予定どおり進行中』




