明日を殺す者
午前六時十二分。
俺は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
眠れなかった。
目を閉じるたびに、黒い外套の人物が浮かぶ。
『その本は、未来を予言しているんじゃない』
『未来を、決めているの』
あの言葉が本当なら、俺の死はすでに決められていることになる。
黒い聖書に記された死亡予定日。
今日。
つまり、あと数時間で俺は死ぬ。
「……冗談じゃない」
ベッドから起き上がり、スマホを確認する。
昨夜のメッセージは残っていた。
『今日は、ごめんね』
『あなたを助けることができなかった』
『でも、まだ間に合う』
『明日になる前に、私を見つけて』
そして最後の一文。
『今度こそ、私を殺して』
送信元は不明。
返信しても既読はつかない。
それでも、俺は画面を見つめていた。
ユナは、俺に殺してほしいと言う。
なのに、俺が死ぬことは望んでいない。
彼女は何を知っているのだろう。
俺は何を忘れているのだろう。
答えを探す時間は、もう残されていなかった。
*
午前八時。
俺が対策局本部に到着すると、入口でナギが待っていた。
「おはよう、レン!」
いつもの調子だった。
「……なんでここにいるんだ?」
「なんでって、呼び出されたからだよ」
「俺だけじゃなかったのか?」
「うん。黒崎さんも呼ばれてるよ。なんか大変なことになってるみたい」
ナギはそう言って、俺の顔をのぞき込んだ。
「レン、顔色悪いよ。ちゃんと寝た?」
「まあ、それなりに」
「絶対嘘だ。目の下、すごいことになってる」
「生まれつきだ」
「昨日も似たようなこと言ってなかった?」
「気のせいだろ」
ナギは小さく笑った。
それから、ポケットから小さな栄養補助食品を取り出して、俺に差し出した。
「はい。朝ごはん食べてないでしょ?」
「……よく分かったな」
「なんとなく!」
受け取って、包装を開ける。
甘い味が口の中に広がった。
たったそれだけのことなのに、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「ありがとな」
「どういたしまして」
ナギは、いつもの笑顔で答えた。
「レンが死んじゃったら、困るからね」
俺の手が止まった。
「……何?」
「え?」
「今、なんて言った?」
「レンが死んだら困るって。だって、せっかくチームになったんだもん」
ナギは不思議そうに首を傾げた。
確かに、そのとおりだ。
ただの言い回しだろう。
俺は余計なことを考えすぎている。
「……そうだな」
栄養補助食品を食べ終えた俺は、ナギと一緒に本部へ入った。
そのとき、廊下の奥に黒崎アキラの姿が見えた。
「遅いぞ、神崎」
「まだ集合時間前だろ」
「死ぬ予定の奴が時間を気にするのか?」
思わず、俺はアキラをにらんだ。
「……知ってたのか」
「御堂から聞いた」
アキラの表情は真剣だった。
「黒い聖書に、お前の死亡予測が記されていたらしいな」
「予測じゃない。死亡予定日だ」
「同じようなものだろ」
「全然違う」
アキラは、ふっと鼻で笑った。
「だったら、証明してみろ」
「何を?」
「お前が今日も生きているってことをだ」
俺は一瞬、言葉を失った。
アキラは背を向ける。
「死ぬ気がないなら、準備しろ。御堂が説明する」
その背中を追いながら、俺は思った。
こいつなりの励ましなのだろう。
たぶん。
*
「昨日の侵入者について、報告します」
会議室で、御堂が大型モニターを操作した。
画面には、黒い外套の人物が映っていた。
だが、顔は見えない。
監視カメラの映像は、人物が現れる直前と消えた直後だけ、奇妙に乱れていた。
「侵入者は本部のセキュリティを突破し、第七観測区画まで到達しました。警備員二名が負傷。死者はいません」
「そいつは何者なんですか?」
俺が尋ねると、御堂は首を横に振った。
「不明です。ただし、現場に残された痕跡から、通常の適合者とは異なる能力を使用した可能性があります」
「昨日喰いじゃないのか?」
アキラが尋ねた。
「その可能性も否定できません。しかし、昨日喰いが人間のような目的を持って行動する事例は、これまで確認されていません」
「じゃあ、適合者か」
「それも分かりません」
御堂は画面を切り替えた。
次に映ったのは、一枚の黒い紙だった。
そこには、昨日俺が見たものと同じ文字が書かれていた。
『第十三番目の聖書は、すでに目覚めている』
「黒い聖書は、全部で十三冊あるんですか?」
ナギが尋ねた。
「確認されているのは十三冊です」
御堂は答えた。
「ただし、すべてが同じものとは限りません。私たちが保管している一冊と、ほかの十二冊には、記述に違いがあると考えられています」
「その十三冊を持っているのが、教団ってことですか?」
「……なぜ、そう思うのですか?」
御堂の声がわずかに低くなった。
ナギは少し驚いた顔をした。
「昨日の侵入者が、あの本のことを知っていたからです。普通の人じゃないなら、そういう秘密を知っている組織がいるのかなって」
「推測としては、間違っていません」
御堂は、モニターに別の資料を表示した。
『終末聖典教団』
その文字を見た瞬間、部屋の空気が変わった。
「この組織は、十年以上前から各地の特異災害に関与している疑いがあります。彼らは黒い聖書を神の啓示と考え、記された未来を実現することを目的としている」
「未来を実現する?」
俺は聞き返した。
「例えば、ある街が崩壊すると記されていたとします。彼らは、その街を救おうとはしません。むしろ、崩壊を実現するために行動する」
「……頭がおかしいだろ」
「そう考えるのが普通でしょうね」
御堂は淡々と答えた。
「しかし、彼らの行動には一貫性があります。黒い聖書に記された未来を、絶対に変えてはならないと信じているのです」
俺は拳を握りしめた。
ならば、昨日の侵入者も教団の人間なのだろうか。
俺を殺すために、わざわざ本部へ侵入した。
俺が死ぬことが、黒い聖書に記された未来だから。
「御堂さん」
「はい」
「俺の死亡予定日は、今日ですよね」
「そうです」
「だったら、教団は今日、俺を殺しに来るんじゃないですか?」
御堂は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、答えのようなものだった。
「可能性は高いでしょう」
「なら、俺を隔離してください。外に出なければ、少なくとも襲われる危険は減る」
「それはできません」
「なんでだよ!」
「あなたを狙うのが教団だけとは限らないからです」
御堂は、俺の目を見た。
「あなたの死亡予定日が記されたページには、もう一つ、気になる記述がありました」
モニターに、黒い聖書のページが表示される。
『神崎レンが死ぬとき、最初の扉が開く』
俺は息をのんだ。
「……扉?」
「どこにある扉なのかは不明です。しかし、黒い聖書の別のページにも、同じ表現が登場します」
「それが開いたら、どうなるんですか?」
御堂は、静かに首を横に振った。
「分かりません」
「分からないことばっかりじゃないか」
「だからこそ、あなたには生きてもらう必要があります」
御堂の声は、いつになく強かった。
「あなたが死ねば、何かが始まる。その可能性がある以上、私たちはあなたを死なせるわけにはいきません」
俺はモニターを見つめた。
『神崎レンが死ぬとき、最初の扉が開く』
俺が死ぬことに、何の意味がある?
俺はただの高校生だ。
世界を救う力なんて、持っていない。
それなのに、どうして俺なんだ。
「……だったら、死ななければいいんだろ」
俺は立ち上がった。
「今日を生き延びれば、少なくとも予言は外れる」
「神崎君」
「俺は、自分の死ぬ日を決められるのは嫌だ。誰かが書いた本に、俺の人生を決められてたまるか」
御堂は俺を見つめたあと、静かにうなずいた。
「分かりました。あなたの判断を尊重します」
アキラが立ち上がる。
「俺も同行する」
「え?」
「お前一人で行動させるわけにはいかないだろ」
「どこかに行くなんて言ってないぞ」
「顔に書いてある」
ナギも手を挙げた。
「じゃあ、私も!」
「お前は残ってもいいんだぞ」
「やだよ。三人チームなんだから」
ナギは笑った。
「三人で帰ってこようよ」
その言葉に、俺はうなずいた。
そうだ。
一人で死ぬ必要なんてない。
俺には、仲間がいる。
まだ、何も分かっていないけれど。
*
午前十時。
俺たちは、教団に関係する可能性のある施設へ向かうことになった。
場所は、名古屋市内の廃業した礼拝堂。
数年前に閉鎖された建物だが、最近になって、夜間に人の出入りが確認されているという。
「教団のアジトか?」
車の中で、アキラが尋ねた。
「断定はできません。ただ、黒い聖書に関する資料が持ち込まれた形跡があります」
御堂の声が通信機から流れる。
「施設内部に何があるか分かりません。無理な戦闘は避けてください」
「了解」
アキラが短く答えた。
ナギは窓の外を眺めている。
「礼拝堂かあ。なんか、いかにもって感じだね」
「怖くないのか?」
俺が尋ねると、ナギは笑った。
「怖いよ。でも、怖いからって逃げてたら、いつまでたっても何も変わらないでしょ?」
「……そうだな」
「それに、レンが死ぬのを黙って見てるなんて、私には無理だもん」
彼女は、まっすぐ俺を見た。
その瞳に、嘘は感じられなかった。
少なくとも、俺には。
やがて車が止まった。
目の前には、古びた礼拝堂が建っていた。
白い壁はひび割れ、正面の扉には鎖が巻かれている。
だが、建物の奥から、かすかに光が漏れていた。
「……誰かいるな」
アキラがつぶやく。
俺たちは装備を確認し、建物の裏手へ回った。
窓は割れていた。
そこから中へ入る。
内部には、古い長椅子が並んでいた。
正面には十字架。
その下に、黒い布で覆われた祭壇がある。
「ここ、普通の教会じゃないよね」
ナギが小声で言った。
俺もそう思った。
床には、円形の模様が描かれていた。
その中心には、黒い文字が並んでいる。
見覚えのある文字だった。
黒い聖書に書かれていたものと、よく似ている。
「神崎、触るな」
アキラが俺の腕をつかんだ。
「分かってる」
そのとき。
祭壇の奥から、拍手が聞こえた。
パチ、パチ、パチ。
ゆっくりとした拍手だった。
俺たちが振り返ると、二階の回廊に、一人の男が立っていた。
白い服。
整った顔立ち。
年齢は二十代後半くらいだろうか。
男は、穏やかな笑みを浮かべていた。
「ようこそ、対策局の皆さん」
アキラが前へ出る。
「お前が教団の人間か」
「ええ。そう呼ばれることもあります」
男は階段を下りてきた。
「私はレイ。終末聖典教団の案内役を務めています」
「案内役?」
「はい。あなた方が知りたがっていることを、少しだけお教えしましょう」
レイは俺を見た。
その瞬間、笑顔がわずかに変わった。
「お会いできて光栄です、神崎レン君」
「……俺を知ってるのか」
「もちろん。あなたは、私たちにとって大切な方ですから」
「俺を殺そうとしているくせに?」
「殺す?」
レイは不思議そうに首を傾げた。
「とんでもない。私たちは、あなたに生きていてほしいのですよ」
俺は言葉を失った。
昨日の侵入者は、俺を殺そうとした。
なのに、この男は生きていてほしいと言う。
教団の目的は、黒い聖書に記された未来を実現すること。
ならば、俺が死ぬことも、俺が生きることも、どちらも教団の望みなのか?
「……何が目的だ」
レイは、ゆっくりと両手を広げた。
「神崎君。あなたは、自分が何者なのか知りたいのでしょう?」
「……」
「白瀬ユナという少女についても」
その名前を聞いた瞬間、俺は一歩踏み出した。
「ユナを知っているのか!」
「ええ」
レイは微笑んだ。
「彼女は、私たちが探し続けている存在です」
「どこにいる?」
「それをお教えする前に、一つだけ質問させてください」
レイは、祭壇の黒い布を取り払った。
そこには、一冊の本が置かれていた。
黒い表紙。
白い文字。
俺が見たものと同じ本。
だが、その表紙に書かれている数字は、十三だった。
「神崎君」
レイの声が、礼拝堂に響いた。
「あなたは、明日が来ることを信じていますか?」
「……何を言ってるんだ」
「昨日が消え、今日が歪み、明日が約束されない世界で。それでも、あなたは明日を信じられますか?」
俺は答えられなかった。
レイは続けた。
「私たちは、明日を取り戻そうとしているのです」
「黒い聖書に書かれた未来を実現することが、明日を取り戻すことなのか?」
「ええ。少なくとも、私たちはそう信じています」
「だったら、俺が死ぬことも、その一部なのか?」
レイは、少しだけ悲しそうな顔をした。
「あなたが死ぬかどうか。それは、あなた自身が決めることです」
「……黒い聖書は未来を決めるんじゃないのか?」
「黒い聖書が示すのは、可能性です」
その言葉に、俺は目を見開いた。
昨日の侵入者は、未来を決めると言った。
この男は、可能性だと言う。
どちらが本当なのだろう。
「ただし」
レイの表情から、笑みが消えた。
「一つだけ、間違いなく言えることがあります」
礼拝堂の空気が、急に冷たくなった。
床に描かれた模様が、黒く光り始める。
「あなたが死ねば、世界は変わる」
その瞬間。
床の模様から、黒い腕が伸びた。
「伏せろ!」
アキラが叫ぶ。
俺たちは飛び退いた。
黒い腕が床を突き破り、長椅子をなぎ倒す。
その奥から、異形の影が姿を現した。
人間のような形。
だが、頭部は存在しない。
胸には、黒い聖書と同じ文字が刻まれていた。
昨日喰い。
そう呼ぶべき存在だった。
「レイ! これは何だ!」
俺が叫ぶと、男は静かに答えた。
「あなたへの贈り物です」
「ふざけるな!」
「神崎君。あなたは今日、死ぬ予定なのでしょう?」
レイは微笑んだ。
「ならば、その運命に抗ってみてください」
黒い影が動いた。
アキラが一瞬で距離を詰め、敵の側面へ回り込む。
ナギが補助装置を投げた。
軌道偏向。
装置が弧を描き、黒い影の背後から直撃する。
だが、敵は倒れなかった。
その胸の文字が、赤く光った。
『神崎レン』
俺の名前だった。
「……なんで、俺の名前が」
黒い影が、俺に向かって腕を伸ばす。
その腕の先から、声が聞こえた。
『お前が死ねば、扉が開く』
黒い聖書に記された言葉。
『お前が死ねば、昨日が戻る』
ユナの声。
『お前が死ねば――』
そして、最後に。
俺自身の声が響いた。
『お前が死ねば、俺は生まれる』
頭の中で、何かが弾けた。
知らない記憶が流れ込んでくる。
白い部屋。
血に染まった床。
泣いている少女。
そして、俺と同じ顔をした誰か。
そいつは、俺に向かって手を伸ばしていた。
『レン』
『今度こそ、失敗するな』
「うあああああっ!」
激痛が走った。
俺の能力が、強制的に発動する。
黒い影の動きが見える。
攻撃の軌道が分かる。
俺はその腕をつかみ、全力でねじ伏せた。
だが、身体が耐えられない。
骨が軋む。
血の味が口に広がる。
「レン!」
ナギの声が聞こえた。
彼女が俺の手をつかむ。
「一人で抱え込まないで!」
アキラが敵の胸部に攻撃を叩き込む。
ナギの軌道偏向が、敵の動きをわずかにずらす。
その隙に、俺は拳を振り抜いた。
黒い影の胸部が砕けた。
文字が消え、異形の身体が崩れていく。
やがて、黒い霧となって消滅した。
静寂が戻った。
俺は膝をつき、荒い息を繰り返した。
ナギが肩を支えてくれる。
「レン、大丈夫?」
「……ああ。なんとか」
アキラは周囲を警戒していた。
だが、レイの姿はなかった。
祭壇の上にあった十三番目の聖書も、消えていた。
床には、黒い紙片が一枚だけ残されていた。
俺はそれを拾った。
そこには、短い文章が書かれていた。
『第一の扉は、まだ開かない』
そして、その下に。
『神崎レンの死亡予定日――変更』
俺は息を止めた。
新しい日付が記されている。
明日ではない。
今日でもない。
その文字を見た瞬間、俺は背筋が凍るのを感じた。
『死亡予定日――記載不能』
*
帰りの車の中で、俺は何度もその文字を思い返していた。
記載不能。
死ぬ日が消えたのか。
それとも、俺の死ぬ未来が見えなくなったのか。
どちらにしても、黒い聖書の予言は変わった。
俺が死ななかったから?
それとも、十三番目の聖書に触れたから?
「神崎」
助手席のアキラが口を開いた。
「さっきの記憶、何だったんだ」
「……分からない」
「お前、戦闘中に何か言ってたぞ」
「何を?」
「『今度こそ、失敗するな』って」
俺は顔を上げた。
その言葉には、覚えがなかった。
だが、頭の奥に、まだ何かが残っている。
白い部屋。
血の匂い。
泣いている少女。
そして、俺と同じ顔をした誰か。
「……俺は、何かを忘れてるのかもしれない」
そうつぶやくと、アキラは窓の外を見た。
「人間なんて、そんなもんだろ」
「お前にも、忘れたくないことがあるのか?」
アキラは答えなかった。
ただ、しばらくしてから言った。
「あるさ」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
「だから、忘れないために戦ってる」
俺は、それ以上聞かなかった。
*
夜。
自宅に戻った俺は、部屋の明かりをつけた。
ユナはいなかった。
枕元にも、黒い紙はない。
スマホを確認しても、新しいメッセージは届いていなかった。
「……今日は来ないのか」
少しだけ、寂しいと思った。
その感情に気づき、俺は苦笑した。
彼女が何者なのかも分からない。
俺を殺してほしいと言う理由も分からない。
それでも、彼女に会いたいと思っている。
「……俺も、大概だな」
ベッドに腰を下ろした、そのときだった。
机の上に、一枚の紙が置かれていることに気づいた。
いつからあったのか分からない。
黒い紙。
白い文字。
俺は、ゆっくりと手に取った。
『神崎レンへ』
その下には、見覚えのない文章が記されていた。
『あなたは今日、最初の死を回避した』
『しかし、死は一度では終わらない』
『あなたが生きるたびに、誰かが消える』
指先が震えた。
最後の一文。
そこには、名前が書かれていた。
『白瀬ユナ』
その瞬間、部屋の明かりが消えた。
暗闇の中で、声がした。
「……レン」
振り返る。
そこに、白い服の少女が立っていた。
ユナだった。
けれど、いつもと違う。
彼女の身体は、透けていた。
まるで、今にも消えてしまいそうに。
「ユナ……?」
俺が手を伸ばすと、彼女は悲しそうに笑った。
「ごめんね」
「何がだよ!」
「あなたが生きてしまったから」
その言葉の意味が、分からなかった。
「どういうことだよ。俺が生きたら、何でお前が――」
「レン」
ユナは俺の手を取った。
その手は、ひどく冷たかった。
「次に私が消えたら、探さないで」
「……は?」
「お願い。今度だけは、私のことを忘れて」
彼女の身体が、少しずつ薄れていく。
「待てよ! 何でだよ!」
俺は手を伸ばした。
だが、指先は彼女の身体をすり抜けた。
「ユナ!」
最後に、彼女の声が聞こえた。
「あなたが私を見つけたら――」
そこで、声は途切れた。
部屋に明かりが戻る。
ユナはいない。
机の上の黒い紙も、消えていた。
ただ、俺の手のひらに、小さな白い文字が残されていた。
『あと十二回』
何が、十二回なのか。
俺には分からなかった。
けれど、その数字を見た瞬間。
頭の奥で、誰かが笑った気がした。
そして、俺の知らない声が、静かに告げた。
「さあ、二周目を始めよう」
その声を聞いた瞬間、俺は理解した。
今日、俺は死ななかった。
だが、何かが始まってしまったのだ。
俺が生きるたびに、誰かが消える世界。
そして、俺自身が何度も繰り返してきた、知らない昨日。
窓の外では、夜が明けようとしていた。
明日は来る。
けれど、それが本当に俺の知っている明日なのか。
もう、分からなかった。




