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昨日世界から消えた怪物を覚えている  作者: 一刀詩姫


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あと十二回


「さあ、二周目を始めよう」


その声が聞こえた瞬間、俺は目を覚ました。


午前六時。


カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。


見慣れた天井。


見慣れた部屋。


机の上には、昨日使った教科書が積まれていた。


何も変わっていない。


なのに、俺はしばらく起き上がれなかった。


夢だったのだろうか。


ユナが現れたことも。


彼女の身体が透けていたことも。


そして、手のひらに残された文字も。


俺は自分の右手を開いた。


何も書かれていない。


「……夢、か」


そうつぶやいて、スマホを手に取った。


日付を確認する。


昨日の翌日。


当たり前だ。


だが、画面に表示された時刻を見た瞬間、背筋が冷たくなった。


午前六時。


秒まで確認する。


六時〇〇分。


六時〇〇分。


六時〇〇分。


秒の表示が動いていない。


「……なんだよ、これ」


スマホを再起動しようとした、そのときだった。


画面が一瞬、黒く染まった。


そこに白い文字が浮かび上がる。


『二周目』


そして、その下に。


『残り十二回』


俺はスマホを投げそうになった。


すぐに画面が元に戻る。


時計は正常に動き始めていた。


午前六時〇一分。


まるで、何事もなかったかのように。


「……二周目って、何のことだよ」


返事はない。


俺はベッドから立ち上がり、洗面所へ向かった。


鏡に映る自分の顔は、ひどく疲れて見えた。


水で顔を洗う。


冷たい感触が頬を伝う。


顔を上げる。


鏡の中の俺は、まだ下を向いていた。


一秒。


二秒。


鏡の中の俺が、ゆっくりと顔を上げる。


そして、俺に向かって口を動かした。


声は聞こえなかった。


それでも、何を言ったのかは分かった。


――まだ、思い出すな。


俺は後ずさった。


鏡の中の俺は、もう普通の顔に戻っていた。


「……くそっ」


夢じゃない。


少なくとも、そう思わずにはいられなかった。


昨日、俺は黒い聖書に触れた。


十三番目の聖書が現れた。


そして、ユナが消えた。


すべてがつながっている。


だが、肝心な部分だけが分からない。


俺はスマホを握りしめた。


誰かに相談するべきだ。


御堂か。


アキラか。


それとも、ナギか。


そう考えた瞬間、スマホが震えた。


朝比奈ナギからのメッセージだった。


『おはよー! 今日、体調どう?』


続けて、スタンプが送られてくる。


いつものナギだ。


それだけで、少しだけ安心した。


俺は返信した。


『まあまあ。ちょっと変な夢を見た』


すぐに返事が来た。


『どんな夢?』


俺は指を止めた。


二周目。


残り十二回。


鏡の中の自分。


それを、どう説明すればいいのだろう。


しばらく考えてから、短く返信した。


『自分が自分じゃなくなる夢』


返事が来るまで、少し時間がかかった。


『そっか』


『怖かったね』


たったそれだけだった。


けれど、俺はその言葉を何度も読み返した。


怖かったね。


そう言ってくれる人がいる。


今は、それだけでよかった。


     *


午前九時。


対策局本部に着くと、アキラがトレーニングルームで待っていた。


「遅い」


「集合時間の五分前だぞ」


「俺が早く来たんだ。問題ない」


「理不尽すぎるだろ」


いつものやり取り。


昨日までと変わらない。


そのはずだった。


「神崎」


アキラが真剣な顔で俺を見た。


「昨日のこと、覚えてるか?」


「昨日?」


「礼拝堂での戦闘だ。お前、途中で様子がおかしくなっただろ」


「……ああ」


黒い影。


自分の名前。


頭の中に流れ込んできた記憶。


『今度こそ、失敗するな』


思い出そうとすると、頭の奥が痛んだ。


「何か見たのか?」


「分からない。白い部屋と、女の子。それから……俺と同じ顔をした奴」


アキラの表情が変わった。


「同じ顔?」


「そうだ。そいつが俺に向かって、失敗するなって言った」


「そいつの顔は覚えてるか?」


「俺の顔だよ」


「……そうか」


アキラはそれ以上、聞かなかった。


だが、何かを考えているようだった。


「お前、昨日の戦闘のあと、意識を失いかけただろ」


「まあな」


「御堂の話じゃ、脳波に異常が出ていたらしい。対敵適応の反動だけじゃ説明できない数値だったそうだ」


「それって、どういうことだ?」


「知らん。だから調べるんだろ」


アキラはトレーニング用の装備を投げてよこした。


「今日は能力を使わず、基礎訓練をやる」


「今から?」


「嫌なら帰れ」


「……やるよ」


俺は装備を身につけた。


死ぬ予定日が消えたからといって、安心できるわけじゃない。


むしろ、分からないことが増えただけだ。


自分の能力。


黒い聖書。


ユナ。


そして、二周目。


俺は自分の身体を鍛えることにした。


少なくとも、何もせずに怯えているよりはましだ。


     *


訓練が始まって三十分。


俺は床に倒れていた。


「……もう無理」


「まだ三十分だぞ」


「その三十分で、人生のすべてを使い果たした気がする」


アキラはため息をついた。


「お前の能力は、強い相手に対して有効になる。だが、身体が追いつかなければ意味がない」


「分かってるよ」


「分かってないから倒れてるんだろ」


「それはそう」


アキラが手を差し出した。


俺はその手をつかみ、立ち上がった。


そのとき。


トレーニングルームの入口から、ナギが顔を出した。


「二人とも、休憩しない?」


「まだ早い」


アキラが即答する。


「えー。レン、もう死にそうだよ?」


「こいつは死ぬ予定日を乗り越えたんだ。これくらいで死ぬな」


「いや、予定日を乗り越えたからって、体力が増えるわけじゃないだろ!」


ナギが笑った。


「はいはい。じゃあ、飲み物持ってきたから、少し休憩ね」


彼女は俺にスポーツドリンクを渡した。


俺は礼を言い、受け取った。


「そういえば、ナギ」


「ん?」


「昨日の礼拝堂で、俺が倒れたあと、何か変わったことはなかったか?」


ナギは少し考えた。


「うーん……特にないと思うよ。黒崎さんが敵の残骸を調べてたし、私はレンの様子を見てたから」


「そうか」


「どうして?」


「いや、何でもない」


俺はスポーツドリンクを飲んだ。


ナギは、それ以上追及しなかった。


その自然な気遣いが、ありがたかった。


「レン」


ナギが、ふと思い出したように言った。


「昨日、帰り際に御堂さんが言ってたよ。しばらく単独行動は避けてほしいって」


「……そんな話、俺にはなかったぞ」


「えっ? そうなの?」


ナギは目を丸くした。


「あ、ごめん。私、勘違いしたかも」


「いや、別にいいけど」


御堂は、俺が死ぬ予定日を乗り越えたことを知っている。


そして、俺が何かに巻き込まれていることも分かっている。


単独行動を避けろという指示があっても、不思議ではない。


俺は深く考えず、その話を終わらせた。


ナギは空になったペットボトルを片づけると、笑顔で言った。


「よし、休憩終わり! もうちょっと頑張ろう!」


「……お前、休憩させるために来たんじゃなかったのか?」


「細かいことは気にしない!」


俺は思わず笑った。


昨日、俺は死ぬかもしれなかった。


今日、俺は生きている。


そして、仲間とくだらない会話をしている。


それがどれほど大切なことなのか。


俺は、まだ知らなかった。


     *


午後一時。


御堂に呼び出された俺たちは、分析室へ向かった。


机の上には、昨日の礼拝堂で回収された黒い紙片が置かれていた。


『死亡予定日――記載不能』


その文字は、今も消えていない。


「この紙片について、解析結果が出ました」


御堂が説明を始めた。


「紙の成分は通常のものと変わりません。ただし、文字を記録した装置によって、結果が異なります」


「どういうことですか?」


ナギが尋ねた。


「肉眼では読めます。写真にも写ります。しかし、画像データを保存した瞬間、文字の部分だけが欠落するのです」


御堂はモニターに画像を表示した。


紙片の写真。


そこには、黒い紙の輪郭だけが映っていた。


文字はない。


「昨日の監視カメラにも同じ現象が起きていました。侵入者の姿を記録できなかったのも、同じ原因かもしれません」


「黒い聖書そのものに、そういう性質があるんですか?」


俺が尋ねると、御堂は首を横に振った。


「まだ分かりません。ただ、興味深いことがあります」


別の画像が表示された。


昨日の戦闘記録。


黒い影が崩壊する直前、胸部に刻まれた文字が拡大されていた。


『神崎レン』


その文字の下に、もう一つの記号があった。


円の中に、十三本の線。


「この記号は、教団が使用しているものとは異なります」


御堂が言った。


「では、何の記号なんですか?」


「現時点では不明です。ただし、過去の特異災害記録に、一度だけ似た記号が残っています」


「いつの記録ですか?」


御堂は画面を切り替えた。


そこに表示された日付を見て、俺は息をのんだ。


十七年前。


俺が生まれた年だった。


「……これ、俺と関係があるんですか?」


「分かりません」


御堂は正直に答えた。


「ただ、記録には一人の子どもの名前が残されています」


画面に、文字が表示された。


『神崎レン』


俺は椅子から立ち上がった。


「待ってくれ。十七年前って、俺が生まれた年だぞ」


「承知しています」


「じゃあ、この記録は何なんだよ!」


御堂は、資料を閉じた。


「十七年前、ある施設で大規模な特異災害が発生しました。記録の大半は失われています。生存者の名前も、ほとんど残っていません」


「その中に、俺の名前があった?」


「はい」


「俺は、その施設にいたのか?」


「それも分かりません」


俺は頭を抱えた。


自分の過去すら、分からない。


俺は普通の家庭で育った。


学校に通い、友達と遊び、何の変哲もない生活を送ってきたはずだ。


なのに、十七年前の記録に俺の名前がある。


それが本当なら、俺は何者なんだ。


「御堂さん」


俺は顔を上げた。


「俺の両親について、何か知ってますか?」


御堂は、ほんのわずかに目を伏せた。


「……今は、まだ話せません」


その答えで、十分だった。


御堂は何かを知っている。


俺の出生について。


十七年前の災害について。


そして、黒い聖書について。


「いつになったら話してくれるんですか」


「必要な情報がそろったら、必ず」


「その頃には、俺は何も覚えてないかもしれない」


思わず口にした言葉に、自分自身が驚いた。


記憶が消える。


ユナを忘れてしまう。


俺の能力を使うたび、何かが失われていく。


もし、自分の過去まで失ってしまったら。


俺は、本当に俺でいられるのだろうか。


御堂は静かに言った。


「だからこそ、あなたには記録を残してほしいのです」


「記録?」


「あなたが覚えていること。見たもの。聞いたこと。夢の内容でも構いません。何でもいい。忘れる前に、書き残してください」


俺は、うなずいた。


そうするしかない。


自分の記憶が信用できないのなら、外に残すしかない。


     *


その日の夜。


俺はノートを買った。


表紙には、黒いペンで大きく書いた。


『神崎レンの記録』


最初のページに、自分の名前と年齢を書く。


十七歳。


高校生。


特異災害対策局の協力者。


能力は、対敵適応。


そして、俺には忘れてはいけない人がいる。


白瀬ユナ。


俺は、ゆっくりとペンを動かした。


『白瀬ユナは、夜になると俺の部屋に現れる』


『彼女は、俺に自分を殺してほしいと言った』


『俺は、彼女を忘れたくない』


そこまで書いたところで、手が止まった。


ユナの顔を思い出そうとする。


長い黒髪。


白い服。


悲しそうな目。


……目の色は、何色だっただろう。


黒だったか。


茶色だったか。


思い出せない。


俺は焦って、ノートに書き足した。


『ユナの目の色は、思い出せない』


『だが、彼女が笑うと、少しだけ安心する』


書き終えた瞬間、胸の奥が痛んだ。


俺は、彼女のことを忘れ始めている。


それでも、ノートに書いた文字は残る。


そう信じたかった。


最後に、俺は今日起きたことを記録した。


『十七年前の特異災害記録に、俺の名前があった』


『黒い聖書には、俺の死亡予定日が記されていた』


『昨日、俺は死ななかった』


そして、最後の一行。


『俺が生きるたびに、誰かが消えるらしい』


ペンを置いた。


そのときだった。


ノートの最後のページに、見覚えのない文字が浮かび上がった。


俺は、息を止めた。


自分で書いた文字ではない。


白い文字が、黒いインクの上にゆっくりと現れる。


『記録を確認しました』


その下に、もう一文。


『第十二記録、保存完了』


「……第十二記録?」


俺はページをめくった。


何もない。


前のページも、その前のページも、俺が書いた記録だけだ。


なのに、最後のページには、もう一行増えていた。


『残り十一回』


俺はノートを閉じた。


手が震えていた。


昨日は、残り十二回だった。


今日、残り十一回になった。


一日経つごとに、数字が減っている。


何が十二回なのか。


何が十一回なのか。


考えようとした、その瞬間。


スマホが震えた。


画面には、知らない番号からの着信が表示されていた。


俺はしばらく迷ってから、通話ボタンを押した。


「……もしもし?」


返事はない。


ただ、かすかなノイズが聞こえる。


そして、女の声がした。


『レン』


その声を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。


ユナだ。


間違いない。


『お願い。今度は、最後まで聞いて』


「ユナ? どこにいるんだ!」


『時間がないの』


「何が起きてるんだよ! 俺が生きるたびに、誰かが消えるって、どういう意味だ!」


電話の向こうで、ユナが息をのんだ。


『……もう、始まってるんだね』


「何が?」


『あなたの記憶が消えるだけじゃない』


彼女の声が震えていた。


『あなたが覚えている世界そのものが、少しずつ消えていくの』


俺は言葉を失った。


『だから、お願い』


ユナが、最後の力を振り絞るように言った。


『明日、学校へ行かないで』


「……は?」


『学校へ行ったら、あなたは必ず――』


突然、ノイズが大きくなった。


「ユナ! 聞こえない!」


『レン、絶対に――』


通話が切れた。


俺は何度もかけ直した。


しかし、電話はつながらなかった。


そのとき、ノートがひとりでに開いた。


最後のページ。


白い文字が、ゆっくりと浮かび上がる。


『第十三記録、開始』


その下に、明日の日付。


そして、俺の通っている高校の名前が記されていた。


『明日、午前八時十五分』


『神崎レンのクラスから、存在が一つ消える』


俺は、ノートを見つめた。


クラスから、存在が一つ消える。


それは、誰のことだ。


友達か。


クラスメイトか。


それとも――。


俺は、スマホを握りしめた。


明日、学校へ行くなとユナは言った。


だが、もし誰かが消えるのなら。


俺が行かなければ、その人を助けられないかもしれない。


窓の外で、風が吹いた。


カーテンが揺れる。


俺は、ノートを閉じた。


そして、決めた。


明日、学校へ行く。


たとえ、それが黒い聖書に記された未来だとしても。


俺は、自分の目で確かめる。


誰かが消えるというのなら。


その人を、絶対に忘れないために。


その夜、俺は知らなかった。


明日、俺のクラスから消えるのが、誰よりも身近な存在だということを。


そして、その人物の名前を。


俺はすでに、どこかで一度、忘れていた。

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