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昨日世界から消えた怪物を覚えている  作者: 一刀詩姫


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13/14

昨日を覚えている者


 昨日のことを、どこまで覚えているだろうか。


 昨日食べた夕飯。

 昨日交わした会話。

 昨日、すれ違った誰かの顔。


 人間は、驚くほど簡単に昨日を忘れる。


 けれど。


 もし、昨日そのものが消えてしまったら?


 世界から、一つの出来事が完全に失われたら?


 それでも、自分だけが覚えていたら。


 その記憶は、本当に自分のものなのだろうか。


     *


 神崎レンは、目を覚ました。


 窓の外は、まだ薄暗い。


 枕元のスマートフォンを手に取り、時刻を確認する。


 午前五時四十二分。


「……最悪」


 眠気はある。


 身体も重い。


 それなのに、頭の中だけが妙にはっきりしていた。


 夢を見ていた気がする。


 誰かが自分を呼んでいた。


 遠くから、何度も。


 けれど、その声が誰のものだったのか、思い出せない。


 レンは上半身を起こし、額に手を当てた。


「またかよ……」


 最近、こんなことが増えている。


 普通だった頃の自分なら、気にも留めなかったはずだ。


 少し変な夢を見た。

 嫌な予感がした。

 妙なものを見間違えた。


 そんな一言で片づけていた。


 しかし、今は違う。


 忘れてはいけないことがある。


 忘れた瞬間に、取り返しのつかない何かが失われる。


 そんな予感が、いつも胸の奥に引っかかっていた。


     *


 すべての始まりは、あの日だった。


 自分の部屋に、ユナが現れた。


 何の前触れもなく。


 まるで、最初からそこにいるのが当然であるかのように。


 あまりにも唐突な出来事に、レンは状況を理解できなかった。


 彼女は何者なのか。


 なぜ自分の前に現れたのか。


 そして、なぜ彼女は、普通の人間ではあり得ない現象を知っているのか。


 問いかけても、答えは曖昧だった。


 答えたくないのか。


 答えられないのか。


 それすら、レンには判断できなかった。


 ただ一つ、確かなことがあった。


 ユナと出会ってから、レンの日常は壊れ始めた。


 そして、彼女は夜になると現れ、朝になると姿を消した。


 まるで、世界の決まりそのものが彼女を拒んでいるかのように。


 それでもレンは、彼女を放っておけなかった。


 理由はわからない。


 同情だったのかもしれない。


 好奇心だったのかもしれない。


 あるいは、もっと別の何かだったのかもしれない。


 ただ、彼女がいなくなることを想像すると、胸の奥が妙にざわついた。


 それだけは、確かだった。


     *


 次に知ったのは、昨日喰いという存在だった。


 人間の常識では説明できない怪物。


 普通なら見過ごされるはずの異常。


 そして、誰もが当然のように受け入れている世界の裏側。


 レンは、その存在を知ってしまった。


 知らなければ、以前と同じ生活を送れていたのだろうか。


 学校へ行き、友人と話し、家に帰る。


 明日の予定を考え、週末を待ち、何でもない毎日に文句を言う。


 そんな日常を。


 だが、知ってしまった以上、もう以前の自分には戻れなかった。


 昨日喰いに対抗するため、レンは適合者としての力を知ることになる。


 対敵適応。


 敵に適応し、戦いの中で変化する力。


 聞こえはいい。


 しかし、実際に戦うとなれば話は別だった。


 敵の動きを見極める。


 攻撃を避ける。


 わずかな隙を探す。


 失敗すれば、次はない。


 そんな状況で、自分の能力を理解し、使いこなす余裕などなかった。


 それでもレンは戦った。


 戦わなければ、守れないものがあったからだ。


 何を守りたかったのか。


 その答えさえ、当時のレンには曖昧だった。


 けれど、逃げることだけはできなかった。


     *


 アキラとナギ。


 二人との出会いも、レンにとって大きな変化だった。


 アキラは二十二歳。


 レンよりも年上で、状況を判断する力も、戦いに対する経験も違っていた。


 彼の言葉には、現実を突きつけるような厳しさがあった。


 都合のいい希望だけでは生き残れない。


 知らないことを、知らないままにしてはいけない。


 戦うなら、覚悟を決めろ。


 そう言われているような気がした。


 一方のナギは、また違った存在だった。


 軽い口調。


 つかみどころのない態度。


 ときには緊張感のない言葉で、張り詰めた空気を和らげる。


 だが、彼女もまた、この異常な世界を生きている一人だった。


 レンは二人と行動を共にし、訓練を重ねた。


 最初は、自分が何をすればいいのかさえわからなかった。


 しかし、戦いを経験するたび、少しずつ理解できることが増えていった。


 自分の力。


 敵の性質。


 仲間と連携する意味。


 そして、たった一つの判断が、生死を分けるということ。


 成長している実感はあった。


 だが、強くなればなるほど、別の疑問が膨らんでいった。


 なぜ、自分なのか。


 なぜ、ユナなのか。


 なぜ、この世界では、昨日というものがこんなにも不確かなのか。


 誰もが何かを知っている。


 けれど、誰もがすべてを話しているわけではない。


 そんな気がしていた。


     *


 忘れられない光景がある。


 怪物の中から現れた、少女。


 その顔を見た瞬間、レンは言葉を失った。


 ユナに似ていた。


 いや、似ているという表現では足りなかった。


 目の前にいるのは、もう一人のユナだと言われても、疑うことができないほどだった。


 しかし、その少女はレンを見つめ、こう言った。


『あなた、誰?』


 理解できなかった。


 なぜ、そんな顔をするのか。


 なぜ、自分を知らないのか。


 なぜ、ユナと同じ顔をした少女が、怪物の中から現れるのか。


 問いに対する答えは、得られなかった。


 そして、残された言葉。


『今度こそ、私を殺して』


 その声は、今でも耳に残っている。


 今度こそ。


 その言葉は、何を意味していたのだろう。


 初めてではないということか。


 以前にも同じことがあったということか。


 それとも、自分が知らないだけで、何かが何度も繰り返されているのか。


 考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていった。


 レンは、あの少女のことを忘れられなかった。


 忘れてはいけないと、感じていた。


 まるで、その記憶だけが、何かにつながる唯一の手がかりであるかのように。


     *


 御堂から見せられた黒い聖書。


 あれも、普通ではなかった。


 そこに記された内容は、単なる予言とは思えなかった。


 レンの死。


 その未来が、すでに決められているかのように示されていた。


 人間の人生が、最初から書かれている。


 そんな馬鹿げた話を、簡単に信じられるはずがない。


 しかし、実際に目の前で起きた出来事は、レンの常識を次々と壊していった。


 さらに、レンは教団に関わる者から襲撃を受けた。


 その人物が口にした言葉。


 聖書は、未来を決める本。


 そして、レン自身に関する記述。


 すべてが偶然だと考えるには、あまりにも不自然だった。


 なぜ自分の未来が記されているのか。


 なぜ、教団は自分を狙うのか。


 そして、なぜ未来が決められているはずなのに、何かが変わり始めているのか。


 レンは、黒い聖書に記された自分の運命を思い出す。


 そこには、自分が迎えるはずの結末があった。


 だが、今も自分は生きている。


 ならば、何かが変わったのか。


 それとも。


 まだ、本当の意味で何も始まっていないだけなのか。


     *


 午前六時二十分。


 レンはベッドから立ち上がり、机の上に置かれたノートを開いた。


 そこには、これまでに起きた出来事が書き残されている。


 昨日喰い。


 適合者。


 対敵適応。


 ユナ。


 もう一人の少女。


 黒い聖書。


 教団。


 そして、未来に記された自分の死。


 思いつく限りの情報を書き出しても、答えは見つからなかった。


 むしろ、疑問ばかりが増えている。


「……結局、何もわかってないじゃん」


 自嘲気味に笑う。


 少しだけ、気持ちが楽になった。


 わからないことを、わからないと認める。


 それも必要なのかもしれない。


 だが、ノートを閉じようとした瞬間。


 レンの手が止まった。


 ページの隅に、小さな文字が書かれている。


 自分の筆跡だった。


 いつ書いたのか、思い出せない。


 そこには、短くこう記されていた。


『昨日、消えたものを忘れるな』


「……これ、いつ書いた?」


 記憶をたどる。


 思い出せない。


 昨夜だろうか。


 それとも、もっと前か。


 文字を見つめていると、胸の奥に妙な感覚が広がった。


 自分は、何かを忘れかけている。


 いや。


 忘れたことにさえ、気づいていない何かがある。


 そんな感覚だった。


 レンはノートを閉じた。


 これ以上考えても、答えは出ない。


 今は、学校へ行く準備をしなければならない。


 いつまでも異常な世界に目を向けているわけにはいかなかった。


 少なくとも、表向きは。


     *


 午前七時。


 制服に着替えたレンは、鏡の前に立った。


 いつもと同じ顔。


 いつもと同じ制服。


 どこからどう見ても、普通の高校生だった。


 昨日までの出来事を知らない人間が見れば、何の変哲もない少年にしか見えないだろう。


 それでいい。


 普通でいられるなら、普通でいたい。


 戦いも、怪物も、黒い聖書も。


 できることなら、すべて夢だったことにしてしまいたかった。


 しかし、そう簡単にはいかない。


 スマートフォンが震えた。


 画面には、短いメッセージが表示されていた。


『学校に行かないで』


 送り主は、ユナだった。


 レンは眉をひそめた。


「……いや」


 その文章を見つめる。


 まるで、これから何かが起きると知っているような。


 あるいは、何も起きないことを願っているような。


 レンは返信を打ちかけ、指を止めた。


 聞きたいことは山ほどある。


 あの少女のこと。


 黒い聖書のこと。


 自分の未来のこと。


 けれど、今は何を尋ねても、彼女が答えてくれるとは思えなかった。


 それから鞄を手に取り、玄関へ向かった。


     *


 外に出ると、朝の空気は少し冷たかった。


 通学路には、見慣れた景色が広がっている。


 自転車で走り抜ける学生。


 駅へ急ぐ会社員。


 開店準備をする店員。


 誰もが、自分の今日を生きている。


 怪物のことなど知らない。


 世界から何かが消えたとしても、気づかないのかもしれない。


 レンは、歩きながら考えた。


 もし、本当に世界から何かが消えたら。


 その存在を知っていた人間は、どうなるのだろう。


 記憶も一緒に消えてしまうのか。


 それとも、記憶だけが取り残されるのか。


 そして。


 もし、誰も覚えていない存在を、自分だけが覚えていたら。


 それは、自分が間違っているという証拠なのだろうか。


 それとも。


 世界のほうが、何かを間違えているのだろうか。


「……考えすぎか」


 レンは小さくつぶやいた。


 そのときだった。


「レン!」


 聞き慣れた声に呼ばれ、振り返る。


 そこには、同じ学校に通う生徒の姿があった。


 いつもと変わらない朝。


 いつもと変わらない呼び声。


 いつもと変わらない日常。


 レンは、軽く手を上げた。


「おはよう」


 笑顔を作る。


 何も変わっていないように。


 何も知らないように。


 そして、学校へ向かって歩き出した。


 けれど、レンはまだ知らない。


 今日という一日が、自分の知っている日常を取り戻すためのものなのか。


 それとも。


 自分が知らなかった世界の一端に、足を踏み入れるためのものなのか。


 校門が見えてくる。


 生徒たちの声が聞こえる。


 チャイムが鳴るまで、あと少し。


 レンは、何気なく空を見上げた。


 青い空。


 白い雲。


 どこまでも続く、平凡な朝。


 その景色の向こうに、何かがいるような気がした。


 けれど、目を凝らしても何も見えない。


 レンは視線を戻し、校門をくぐった。


 今日もまた、昨日の続きが始まる。


 そう信じて。


 ――だが。


 世界から消えた怪物を、彼はまだ覚えていた。

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