昨日を覚えている者
昨日のことを、どこまで覚えているだろうか。
昨日食べた夕飯。
昨日交わした会話。
昨日、すれ違った誰かの顔。
人間は、驚くほど簡単に昨日を忘れる。
けれど。
もし、昨日そのものが消えてしまったら?
世界から、一つの出来事が完全に失われたら?
それでも、自分だけが覚えていたら。
その記憶は、本当に自分のものなのだろうか。
*
神崎レンは、目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗い。
枕元のスマートフォンを手に取り、時刻を確認する。
午前五時四十二分。
「……最悪」
眠気はある。
身体も重い。
それなのに、頭の中だけが妙にはっきりしていた。
夢を見ていた気がする。
誰かが自分を呼んでいた。
遠くから、何度も。
けれど、その声が誰のものだったのか、思い出せない。
レンは上半身を起こし、額に手を当てた。
「またかよ……」
最近、こんなことが増えている。
普通だった頃の自分なら、気にも留めなかったはずだ。
少し変な夢を見た。
嫌な予感がした。
妙なものを見間違えた。
そんな一言で片づけていた。
しかし、今は違う。
忘れてはいけないことがある。
忘れた瞬間に、取り返しのつかない何かが失われる。
そんな予感が、いつも胸の奥に引っかかっていた。
*
すべての始まりは、あの日だった。
自分の部屋に、ユナが現れた。
何の前触れもなく。
まるで、最初からそこにいるのが当然であるかのように。
あまりにも唐突な出来事に、レンは状況を理解できなかった。
彼女は何者なのか。
なぜ自分の前に現れたのか。
そして、なぜ彼女は、普通の人間ではあり得ない現象を知っているのか。
問いかけても、答えは曖昧だった。
答えたくないのか。
答えられないのか。
それすら、レンには判断できなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
ユナと出会ってから、レンの日常は壊れ始めた。
そして、彼女は夜になると現れ、朝になると姿を消した。
まるで、世界の決まりそのものが彼女を拒んでいるかのように。
それでもレンは、彼女を放っておけなかった。
理由はわからない。
同情だったのかもしれない。
好奇心だったのかもしれない。
あるいは、もっと別の何かだったのかもしれない。
ただ、彼女がいなくなることを想像すると、胸の奥が妙にざわついた。
それだけは、確かだった。
*
次に知ったのは、昨日喰いという存在だった。
人間の常識では説明できない怪物。
普通なら見過ごされるはずの異常。
そして、誰もが当然のように受け入れている世界の裏側。
レンは、その存在を知ってしまった。
知らなければ、以前と同じ生活を送れていたのだろうか。
学校へ行き、友人と話し、家に帰る。
明日の予定を考え、週末を待ち、何でもない毎日に文句を言う。
そんな日常を。
だが、知ってしまった以上、もう以前の自分には戻れなかった。
昨日喰いに対抗するため、レンは適合者としての力を知ることになる。
対敵適応。
敵に適応し、戦いの中で変化する力。
聞こえはいい。
しかし、実際に戦うとなれば話は別だった。
敵の動きを見極める。
攻撃を避ける。
わずかな隙を探す。
失敗すれば、次はない。
そんな状況で、自分の能力を理解し、使いこなす余裕などなかった。
それでもレンは戦った。
戦わなければ、守れないものがあったからだ。
何を守りたかったのか。
その答えさえ、当時のレンには曖昧だった。
けれど、逃げることだけはできなかった。
*
アキラとナギ。
二人との出会いも、レンにとって大きな変化だった。
アキラは二十二歳。
レンよりも年上で、状況を判断する力も、戦いに対する経験も違っていた。
彼の言葉には、現実を突きつけるような厳しさがあった。
都合のいい希望だけでは生き残れない。
知らないことを、知らないままにしてはいけない。
戦うなら、覚悟を決めろ。
そう言われているような気がした。
一方のナギは、また違った存在だった。
軽い口調。
つかみどころのない態度。
ときには緊張感のない言葉で、張り詰めた空気を和らげる。
だが、彼女もまた、この異常な世界を生きている一人だった。
レンは二人と行動を共にし、訓練を重ねた。
最初は、自分が何をすればいいのかさえわからなかった。
しかし、戦いを経験するたび、少しずつ理解できることが増えていった。
自分の力。
敵の性質。
仲間と連携する意味。
そして、たった一つの判断が、生死を分けるということ。
成長している実感はあった。
だが、強くなればなるほど、別の疑問が膨らんでいった。
なぜ、自分なのか。
なぜ、ユナなのか。
なぜ、この世界では、昨日というものがこんなにも不確かなのか。
誰もが何かを知っている。
けれど、誰もがすべてを話しているわけではない。
そんな気がしていた。
*
忘れられない光景がある。
怪物の中から現れた、少女。
その顔を見た瞬間、レンは言葉を失った。
ユナに似ていた。
いや、似ているという表現では足りなかった。
目の前にいるのは、もう一人のユナだと言われても、疑うことができないほどだった。
しかし、その少女はレンを見つめ、こう言った。
『あなた、誰?』
理解できなかった。
なぜ、そんな顔をするのか。
なぜ、自分を知らないのか。
なぜ、ユナと同じ顔をした少女が、怪物の中から現れるのか。
問いに対する答えは、得られなかった。
そして、残された言葉。
『今度こそ、私を殺して』
その声は、今でも耳に残っている。
今度こそ。
その言葉は、何を意味していたのだろう。
初めてではないということか。
以前にも同じことがあったということか。
それとも、自分が知らないだけで、何かが何度も繰り返されているのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていった。
レンは、あの少女のことを忘れられなかった。
忘れてはいけないと、感じていた。
まるで、その記憶だけが、何かにつながる唯一の手がかりであるかのように。
*
御堂から見せられた黒い聖書。
あれも、普通ではなかった。
そこに記された内容は、単なる予言とは思えなかった。
レンの死。
その未来が、すでに決められているかのように示されていた。
人間の人生が、最初から書かれている。
そんな馬鹿げた話を、簡単に信じられるはずがない。
しかし、実際に目の前で起きた出来事は、レンの常識を次々と壊していった。
さらに、レンは教団に関わる者から襲撃を受けた。
その人物が口にした言葉。
聖書は、未来を決める本。
そして、レン自身に関する記述。
すべてが偶然だと考えるには、あまりにも不自然だった。
なぜ自分の未来が記されているのか。
なぜ、教団は自分を狙うのか。
そして、なぜ未来が決められているはずなのに、何かが変わり始めているのか。
レンは、黒い聖書に記された自分の運命を思い出す。
そこには、自分が迎えるはずの結末があった。
だが、今も自分は生きている。
ならば、何かが変わったのか。
それとも。
まだ、本当の意味で何も始まっていないだけなのか。
*
午前六時二十分。
レンはベッドから立ち上がり、机の上に置かれたノートを開いた。
そこには、これまでに起きた出来事が書き残されている。
昨日喰い。
適合者。
対敵適応。
ユナ。
もう一人の少女。
黒い聖書。
教団。
そして、未来に記された自分の死。
思いつく限りの情報を書き出しても、答えは見つからなかった。
むしろ、疑問ばかりが増えている。
「……結局、何もわかってないじゃん」
自嘲気味に笑う。
少しだけ、気持ちが楽になった。
わからないことを、わからないと認める。
それも必要なのかもしれない。
だが、ノートを閉じようとした瞬間。
レンの手が止まった。
ページの隅に、小さな文字が書かれている。
自分の筆跡だった。
いつ書いたのか、思い出せない。
そこには、短くこう記されていた。
『昨日、消えたものを忘れるな』
「……これ、いつ書いた?」
記憶をたどる。
思い出せない。
昨夜だろうか。
それとも、もっと前か。
文字を見つめていると、胸の奥に妙な感覚が広がった。
自分は、何かを忘れかけている。
いや。
忘れたことにさえ、気づいていない何かがある。
そんな感覚だった。
レンはノートを閉じた。
これ以上考えても、答えは出ない。
今は、学校へ行く準備をしなければならない。
いつまでも異常な世界に目を向けているわけにはいかなかった。
少なくとも、表向きは。
*
午前七時。
制服に着替えたレンは、鏡の前に立った。
いつもと同じ顔。
いつもと同じ制服。
どこからどう見ても、普通の高校生だった。
昨日までの出来事を知らない人間が見れば、何の変哲もない少年にしか見えないだろう。
それでいい。
普通でいられるなら、普通でいたい。
戦いも、怪物も、黒い聖書も。
できることなら、すべて夢だったことにしてしまいたかった。
しかし、そう簡単にはいかない。
スマートフォンが震えた。
画面には、短いメッセージが表示されていた。
『学校に行かないで』
送り主は、ユナだった。
レンは眉をひそめた。
「……いや」
その文章を見つめる。
まるで、これから何かが起きると知っているような。
あるいは、何も起きないことを願っているような。
レンは返信を打ちかけ、指を止めた。
聞きたいことは山ほどある。
あの少女のこと。
黒い聖書のこと。
自分の未来のこと。
けれど、今は何を尋ねても、彼女が答えてくれるとは思えなかった。
それから鞄を手に取り、玄関へ向かった。
*
外に出ると、朝の空気は少し冷たかった。
通学路には、見慣れた景色が広がっている。
自転車で走り抜ける学生。
駅へ急ぐ会社員。
開店準備をする店員。
誰もが、自分の今日を生きている。
怪物のことなど知らない。
世界から何かが消えたとしても、気づかないのかもしれない。
レンは、歩きながら考えた。
もし、本当に世界から何かが消えたら。
その存在を知っていた人間は、どうなるのだろう。
記憶も一緒に消えてしまうのか。
それとも、記憶だけが取り残されるのか。
そして。
もし、誰も覚えていない存在を、自分だけが覚えていたら。
それは、自分が間違っているという証拠なのだろうか。
それとも。
世界のほうが、何かを間違えているのだろうか。
「……考えすぎか」
レンは小さくつぶやいた。
そのときだった。
「レン!」
聞き慣れた声に呼ばれ、振り返る。
そこには、同じ学校に通う生徒の姿があった。
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない呼び声。
いつもと変わらない日常。
レンは、軽く手を上げた。
「おはよう」
笑顔を作る。
何も変わっていないように。
何も知らないように。
そして、学校へ向かって歩き出した。
けれど、レンはまだ知らない。
今日という一日が、自分の知っている日常を取り戻すためのものなのか。
それとも。
自分が知らなかった世界の一端に、足を踏み入れるためのものなのか。
校門が見えてくる。
生徒たちの声が聞こえる。
チャイムが鳴るまで、あと少し。
レンは、何気なく空を見上げた。
青い空。
白い雲。
どこまでも続く、平凡な朝。
その景色の向こうに、何かがいるような気がした。
けれど、目を凝らしても何も見えない。
レンは視線を戻し、校門をくぐった。
今日もまた、昨日の続きが始まる。
そう信じて。
――だが。
世界から消えた怪物を、彼はまだ覚えていた。




