昨日を知らない転校生
教室に入ると、いつもと変わらない朝の光景が広がっていた。
窓際で友人と話す生徒。
机に突っ伏して眠っている生徒。
昨日のテレビ番組や、放課後の予定について話す声。
どこにでもある、ごく普通の朝。
それが少しだけ不思議に思えた。
昨日、俺は確かに怪物を見た。
人の形をしているようで、人ではない何か。
そして、それは世界から消えた。
誰に話しても信じてもらえないだろう。
そもそも、あれを覚えているのは俺だけなのかもしれない。
「おはよう、神崎くん」
席に着こうとしたところで、クラスメイトに声をかけられた。
「ああ、おはよう」
「なんか今日、眠そうだね」
「ちょっと寝不足」
「また夜更かし?」
「まあ、そんなところ」
適当に笑ってごまかす。
昨日の出来事を説明する気にはなれなかった。
説明したところで、何も変わらない。
そう思っていた。
キーンコーンカーンコーン。
始業のチャイムが鳴る。
教室のざわめきが少しずつ収まり、担任の先生が教室に入ってきた。
「はい、席に着け。ホームルームを始めるぞ」
いつもと変わらない声。
先生は出席簿を教卓に置くと、教室を見渡した。
「今日はみんなに紹介することがある」
その言葉に、何人かの生徒が顔を上げる。
「実は今日から、このクラスに新しい生徒が加わることになった」
「転校生?」
「この時期に?」
教室のあちこちから小さな声が上がった。
「そうだ。入ってきていいぞ」
先生が廊下に向かって声をかける。
ガラリ、と扉が開いた。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
長い髪。
整った顔立ち。
少し緊張したような表情。
彼女は教室の中を一度見渡すと、ゆっくりと教壇の前まで歩いてきた。
「では、自己紹介を」
「はい」
少女は小さく頷いた。
「はじめまして。レイラと申します」
落ち着いた声だった。
「突然の転校で、まだ分からないことも多いと思いますが、皆さんと仲良くできたら嬉しいです。よろしくお願いします」
そう言って、彼女は丁寧に頭を下げた。
パチパチと拍手が起こる。
「おお、綺麗な子だな」
「前の学校どこなんだろ」
「名前、レイラっていうんだ」
教室の空気が少しだけ浮き立つ。
先生も満足そうに頷いた。
「レイラは事情があってこちらに転校してきた。みんな、困っていたら助けてやってくれ」
「はい」
レイラはもう一度、柔らかく微笑んだ。
その笑顔には、不自然なところなど何もなかった。
ただ、なぜだろう。
俺は彼女から目を離せなかった。
「席は……そうだな」
先生が教室を見回す。
「神崎の隣が空いているな。レイラ、あそこを使ってくれ」
「分かりました」
彼女がこちらに向かって歩いてくる。
足音が近づく。
そして、俺の隣で立ち止まった。
「よろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
短い挨拶を交わす。
レイラは鞄を机の横に掛け、静かに椅子を引いた。
その仕草も、声も、表情も。
どこにでもいる普通の転校生だった。
*
ホームルームが終わると、レイラの周囲にはすぐにクラスメイトが集まった。
「レイラさんって、どこから来たの?」
「前の学校はどんなところだった?」
「部活とか入ってた?」
質問が次々と飛ぶ。
レイラは一つひとつに丁寧に答えていた。
「そうなんですね」
「ありがとうございます」
「こちらに来たばかりなので、いろいろ教えてもらえると嬉しいです」
誰に対しても態度を変えない。
話しかけられれば笑顔で応じ、相手の話を最後まで聞く。
その様子を見ていると、すぐにクラスに馴染みそうだった。
「神崎くん」
突然、レイラがこちらを向いた。
「え?」
「これからよろしくお願いしますね」
「ああ。分からないことがあったら聞いてくれればいいよ」
「ありがとうございます」
彼女は微笑んだ。
その瞬間、ほんのわずかに視線が止まった。
俺の顔ではない。
俺の目の奥を覗き込むような、不思議な視線だった。
「……どうかした?」
「いえ。神崎くんは、優しそうな人だなと思って」
「そうか?」
「はい」
レイラはそれ以上何も言わなかった。
俺も特に気に留めなかった。
ただ、彼女が席に戻る直前。
小さく、何かを呟いたような気がした。
「……間に合った」
「え?」
「何でもありません」
振り返った彼女は、先ほどと同じ笑顔だった。
*
昼休み。
俺は購買で買ってきたパンを机に置いた。
レイラは教室で弁当を広げている。
「神崎くんは、いつもそれを食べているんですか?」
「まあ、だいたい」
「そうなんですね」
「レイラは?」
「私はこれです」
彼女は小さな弁当箱を見せた。
中には綺麗に詰められたおかずが並んでいる。
「自分で作ったの?」
「はい。料理は好きなんです」
「へえ、すごいな」
「そんなことありませんよ」
何気ない会話。
転校生とクラスメイトの、何でもない昼休み。
それなのに、俺は少しだけ違和感を覚えていた。
レイラはこの学校について、ほとんど何も知らないはずだ。
なのに、教室の配置や先生の名前を覚えるのが妙に早い。
それだけなら、記憶力がいいと言えば済む話だ。
しかし。
「神崎くん」
「ん?」
「今日の放課後は、寄り道をしない方がいいですよ」
「……どうして?」
「あっ」
レイラは箸を止めた。
「すみません。なんとなく、そう思っただけです」
「なんとなく?」
「はい。初めて来た場所って、何があるか分からないでしょう?」
彼女は困ったように笑った。
「変なことを言ってごめんなさい」
「いや、別に」
俺はパンの袋を開けた。
気にするほどのことじゃない。
そう思った。
けれど、彼女の言葉が頭から離れなかった。
今日の放課後。
何かが起きるのだろうか。
そんな予感を振り払うように、俺は昼食を続けた。
*
放課後。
終礼が終わると、教室は一気に騒がしくなった。
「レイラさん、一緒に帰らない?」
「ごめんなさい。今日は少し用事があって」
「そっか。また今度ね!」
「はい。ぜひ」
レイラはクラスメイトに笑顔で手を振った。
俺も鞄を持ち、教室を出ようとする。
「神崎くん」
後ろから声がした。
振り返ると、レイラが立っていた。
「もう帰るんですか?」
「ああ」
「そうですか」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「気をつけて帰ってくださいね」
「ありがとう。レイラもな」
「はい」
それだけだった。
俺は教室を出た。
廊下を歩きながら、昼休みの言葉を思い出す。
今日の放課後は、寄り道をしない方がいい。
何の根拠もない言葉。
それでも、昨日の怪物のことがあったせいか、妙に引っかかる。
校門を出たところで、スマートフォンが震えた。
知らない番号からの通知だった。
メッセージはない。
ただ、一件の着信履歴。
俺は画面を見つめた。
そのとき。
校舎の三階。
教室の窓際に、一人の少女が立っていた。
レイラだった。
彼女は窓から俺の姿を見送っている。
そして、誰もいなくなった教室で、小さく息を吐いた。
「……第一段階、完了」
先ほどまでの柔らかな笑顔は消えていた。
彼女は制服のポケットから、小さな黒い端末を取り出す。
画面には、いくつかの文字列が表示されていた。
その中の一つ。
【観測対象:神崎レン】
その下に、赤い文字で警告が浮かび上がる。
【昨日の記憶保持者】
レイラは画面を見つめた。
「本当に、覚えているんですね」
その声には、驚きも喜びもなかった。
ただ、確認するような響きだけがあった。
彼女は端末を閉じる。
「大丈夫です。今度は間違えません」
誰に向けた言葉なのか。
それは、誰にも分からない。
窓の外では、夕日が街を赤く染めていた。
レイラはもう一度、校門の方を見た。
そこには、もうレンの姿はなかった。
「おかえりなさい、神崎レンくん」
誰にも聞こえない声で、彼女はそう呟いた。
「……今度こそ、あなたを救ってみせます」
そして、彼女は微笑んだ。
今度の笑顔は、教室で見せていたものとは少し違っていた。




