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昨日世界から消えた怪物を覚えている  作者: 一刀詩姫


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4/14

彼女は朝になると消える


 壁が、吹き飛んだ。


 爆発音とともにコンクリートの破片が飛び散り、廊下の照明が一斉に消える。


 非常灯だけが赤く点滅していた。


 その向こうに、黒い怪物が立っている。


 長い腕。


 不自然に曲がった脚。


 顔の中央に開いた、底の見えない黒い穴。


 間違いない。


 昨日、俺の部屋に現れた怪物と同じだ。


『見つけた』


 怪物の声が、頭の中に響いた。


『今度こそ、お前の昨日を食べてやる』


「……昨日、昨日って、何なんだよ!」


 俺は叫んだ。


「俺がお前に何をした!」


 怪物は答えなかった。


 代わりに、ゆっくりと腕を持ち上げる。


「レン、逃げて!」


 ユナが俺の腕を引いた。


 次の瞬間、怪物の腕が振り下ろされた。


 床が砕ける。


 俺たちは横に飛び、かろうじて攻撃をかわした。


「こっち!」


 ユナが走り出す。


 俺もその後を追った。


 廊下の奥では、警報が鳴り続けている。


『第七隔離区画、異常発生』


『職員は直ちに退避してください』


『繰り返します。第七隔離区画――』


 放送が途切れた。


 背後から、何かを引きずるような音が聞こえる。


 振り返ると、怪物が四つん這いになって追ってきていた。


「速すぎるだろ!」


「止まらないで!」


 ユナの声が響く。


 俺たちは角を曲がった。


 その先に、分厚い防火扉があった。


 扉の横には、認証装置が取りつけられている。


「開けられるか?」


「無理!」


「じゃあ、どうするんだよ!」


「あなたが開けるの!」


「どうやって!」


 ユナは俺の手を扉に押しつけた。


「お願い、レン。あなたならできる」


 意味が分からない。


 だが、迷っている時間もなかった。


 背後から、怪物が迫ってくる。


 俺は扉に手をついた。


 その瞬間、頭の奥が熱くなった。


『対象を確認』


『脅威度――高』


『対敵適応、起動』


 視界が変わった。


 扉の構造が、ぼんやりと分かる。


 どこに力を加えればいいのか。


 どこが壊れやすいのか。


 考える前に、身体が答えを知っていた。


「うおおおっ!」


 拳を叩き込む。


 轟音。


 分厚い扉が、内側へ大きくへこんだ。


 もう一度。


 今度は、扉が吹き飛んだ。


「……マジかよ」


 俺自身が、一番驚いていた。


 訓練機を殴り飛ばしたときもそうだった。


 強い相手を前にすると、身体が勝手に適応していく。


 だが、こんなことまでできるのか。


「早く!」


 ユナが俺の手を引いた。


 俺たちは扉の向こうへ飛び込んだ。


     *


 そこは、研究施設の管理区画だった。


 壁一面にモニターが並び、複数の研究員が慌ただしく動き回っている。


「神崎さん!」


 聞き覚えのある声がした。


 振り返ると、御堂カナタが走ってきた。


「無事でしたか!」


「御堂さん! あの怪物は何なんですか!」


「説明は後です。あなたたちは、どうやって隔離区画を抜けたんです?」


 御堂の視線が、俺の隣にいるユナへ向いた。


 その瞬間、表情が変わった。


「……その子は?」


「ユナです。俺の知り合いで……」


「知り合い?」


 御堂はユナをじっと見つめた。


「神崎さん。彼女は、どこから入ってきたんですか?」


「それは……」


 答えに詰まった。


 俺だって知りたい。


 彼女はいつも突然現れる。


 そして、朝になると消えてしまう。


 だが、そんな説明をして信じてもらえるとは思えなかった。


「彼女は、あなたを助けたんですね?」


 御堂が尋ねた。


「はい」


「……そうですか」


 御堂は警備員に指示を出した。


「避難経路を確保してください。神崎さんと、その女性を第三会議室へ」


「待ってください!」


 俺は御堂の前に立った。


「ユナは関係ありません。何をするつもりですか?」


「何もしません。ただ、事情を聞きたいだけです」


「本当ですか?」


「本当です」


 御堂は少しだけ声を和らげた。


「神崎さん。あなたも分かっているはずです。彼女は普通ではない」


 俺は言い返せなかった。


 普通ではない。


 そんなことは、最初から分かっている。


 それでも。


 俺は彼女を疑いたくなかった。


 理由は分からない。


 ただ、彼女が消えてしまうことを考えると、胸の奥がひどく痛んだ。


     *


 第三会議室に入ると、ユナは椅子に座った。


 俺と御堂が向かい合う。


 テーブルの上には、三人分の水が置かれていた。


「まず、確認させてください」


 御堂が口を開いた。


「白瀬ユナさん。あなたの身分を証明できるものはありますか?」


「ないよ」


「住所は?」


「分からない」


「家族は?」


「いない」


 御堂は眉をひそめた。


「ご自身の過去について、どこまで覚えていますか?」


 ユナはしばらく考えた。


「レンのこと」


「それ以外は?」


「……分からない」


 部屋が静かになった。


 御堂はタブレットを操作した。


「白瀬ユナという名前で、戸籍、住民記録、学校の在籍記録、病院の受診記録を照会しました。しかし、該当する人物は見つかりません」


「そんなはず……」


 俺はユナを見た。


 彼女は、困ったように笑っていた。


「だから言ったでしょう? 私は、普通の人じゃないんだよ」


「じゃあ、お前は何なんだ?」


 思わず口にした。


 ユナの笑顔が消えた。


「……ごめんね」


「謝れって言ってるんじゃない。俺は、ただ……」


 何を聞きたかったのだろう。


 彼女は誰なのか。


 どうして俺の部屋に現れるのか。


 なぜ、俺のことを知っているのか。


 聞きたいことは山ほどあった。


 でも、一番知りたいことは、言葉にならなかった。


 ――どうして、俺を見るとそんなに悲しそうな顔をするんだ。


「レン」


 ユナが静かに言った。


「あなたは、私のことを知らなくていいんだよ」


「……は?」


「知らないままのほうが、きっと幸せだから」


 その言葉が、妙に胸に刺さった。


「勝手なこと言うなよ」


 俺は立ち上がった。


「俺のことを知っていて、俺の前に現れて、何も教えない。それで知らないほうが幸せだって? そんなの、納得できるわけないだろ!」


 ユナは何も言わなかった。


 ただ、うつむいていた。


 御堂が静かに口を挟んだ。


「神崎さん。少し落ち着いてください」


「……すみません」


 俺は椅子に座り直した。


 ユナは、ずっと下を向いていた。


 その手が、小さく震えていることに気づいた。


 俺は、それ以上何も言えなかった。


     *


 その後、施設の職員たちによって、昨日喰いの討伐が行われた。


 俺とユナは安全な区画に移された。


 怪物は、施設の職員たちが持ち込んだ特殊な兵器によって、どうにか撃退されたらしい。


 ただし、怪物の残骸はほとんど残らなかった。


 研究員たちは、それを見て顔を青ざめさせていた。


「また、記録が消えている……」


「監視映像もです。交戦開始から七分間、映像が存在しません」


「職員の記憶にも食い違いがある。何人かは、そもそも怪物を見ていないと言っている」


 そんな会話が、廊下から聞こえてきた。


 俺は窓のない部屋で、ユナと二人きりになっていた。


「……お前は、何も覚えていないのか?」


 ユナは首を横に振った。


「全部は、覚えていない」


「全部?」


「私にも、分からないことがあるの」


 彼女は窓のない壁を見つめた。


「でも、一つだけ覚えていることがある」


「何だよ?」


 ユナは俺を見た。


「あなたは、私を忘れてしまう」


 その目は、泣きそうだった。


「何度も、何度も。私がどれだけ覚えていても、あなたは私を忘れてしまう」


「……俺が?」


「うん」


 俺は首を振った。


「そんなこと、あるわけないだろ。俺は今、お前のことを覚えている」


「今はね」


 ユナは小さく笑った。


「だから、今だけは一緒にいてもいい?」


 俺は答えられなかった。


 彼女の言葉の意味が、まったく分からなかったからだ。


 それでも。


「……ああ」


 そう答えていた。


「今だけじゃなくても、別にいいけど」


 ユナが目を見開いた。


 そして、ほんの少しだけ笑った。


「ありがとう、レン」


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥が痛んだ。


 まるで、ずっと昔にも同じ顔を見たことがあるような。


 そんな気がした。


     *


 翌朝。


 俺は、見知らぬ部屋のベッドで目を覚ました。


 昨日喰いの襲撃があったため、施設内の宿泊区画に泊められたのだ。


 身体が重い。


 昨日の戦闘の疲れが残っている。


「……ユナ?」


 隣のベッドを見る。


 誰もいない。


 椅子にも、テーブルにも、姿はなかった。


「ユナ?」


 部屋の中を探す。


 洗面所。


 廊下。


 近くの休憩室。


 どこにもいない。


 まさか、施設の職員が連れていったのか。


 俺は急いで御堂のところへ向かった。


「御堂さん! ユナはどこですか?」


「ユナさん?」


 御堂は不思議そうな顔をした。


「彼女なら、昨夜の事情聴取のあと、あなたと一緒に宿泊区画へ移動したはずですが」


「その後は?」


「記録では、あなたは一人で部屋に入っています」


「……は?」


 俺は言葉を失った。


「そんなはずありません。昨日の夜、俺は確かにユナと……」


「神崎さん」


 御堂は、俺の言葉を遮った。


「彼女の入退室記録はありません。監視カメラにも映っていません」


「そんな……」


 俺はスマホを受け取り、写真を確認した。


 昨日、部屋に落ちていた写真。


 そこには、少女が写っていたはずだ。


 だが。


「……何だよ、これ」


 写真には、誰も写っていなかった。


 背景だけが残っている。


 少女の姿だけが、きれいに消えていた。


 裏返す。


 そこにあったはずの文字も消えていた。


 何もない。


 ただの白い紙だった。


「嘘だろ……」


 俺は写真を握りしめた。


 夢だったのか。


 昨日の夜のことも。


 ユナの笑顔も。


 あの、泣きそうな声も。


 全部、夢だったのか。


 違う。


 俺は覚えている。


 彼女が俺の手を握ったときの冷たさも。


 俺を見て笑った顔も。


 絶対に、忘れていない。


「神崎さん」


 御堂が静かに声をかけた。


「あなたが見たものを、私は否定しません」


 俺は顔を上げた。


「ただ、これだけは覚えておいてください。昨日喰いに関わった人間は、記憶や記録を失うことがあります。あなたの記憶も、例外ではないかもしれない」


「……俺は忘れてません」


「今は、そうですね」


「今も、これからもです」


 俺は写真をポケットにしまった。


「絶対に忘れません」


 御堂は何も言わなかった。


 ただ、どこか悲しそうな顔をしていた。


     *


 その日の夜。


 俺は施設を出る許可を得た。


 完全に自由というわけではない。


 数日後、再び検査を受けること。


 昨日喰いに関する情報を、無断で外部に公開しないこと。


 そして、異常を感じたらすぐに連絡すること。


 いくつもの条件をつけられた。


 それでも、家に帰れるだけで十分だった。


 電車に揺られながら、俺は窓の外を眺めていた。


 街は、何事もなかったように動いている。


 昨日喰いが存在することも。


 人間の記憶が消されることも。


 俺が異常な能力を持っていることも。


 誰も知らない。


 いや。


 知らないほうが、幸せなのかもしれない。


 ユナが言っていた言葉を思い出す。


『あなたは、私のことを知らなくていいんだよ』


「……ふざけるなよ」


 俺は小さく呟いた。


「知らないままでいられるわけないだろ」


 ポケットから写真を取り出す。


 何も写っていない写真。


 それでも、俺には分かる。


 そこには確かに、彼女がいた。


 白いワンピース。


 長い黒髪。


 泣きそうな笑顔。


 俺は写真を握りしめた。


「絶対に、見つけてやる」


 その瞬間。


 スマホが震えた。


 見知らぬ番号から、メッセージが届いている。


『レン』


 名前を呼ばれた。


 続けて、もう一通。


『明日の夜も、あなたの部屋に行くね』


 俺は息を呑んだ。


 送信者の名前は、表示されていない。


 けれど、誰からのメッセージなのかは分かった。


 俺は画面に向かって、思わず笑った。


「……ああ。待ってるよ」


 返信しようとした瞬間、もう一通届いた。


『でも、お願い』


『明日の朝、私がいなくなっても、探さないで』


 笑顔が消えた。


 何だよ、それ。


 どうして、そんなことを言うんだ。


 俺はすぐに返信した。


『嫌だ』


 送信ボタンを押す。


 メッセージは、すぐに既読になった。


 そして、返事が届いた。


『……そう言うと思った』


 それだけだった。


 俺はスマホを握りしめた。


 明日の夜。


 彼女は、また俺の部屋に現れる。


 そして朝になると、消えてしまう。


 まるで、昨日なんて最初からなかったかのように。


 それでも俺は、彼女を忘れない。


 たとえ世界中の人間が、彼女の存在を否定したとしても。


 俺だけは、覚えている。


 ――そのはずだった。


 帰宅して、玄関の扉を開けたとき。


 部屋の中から、かすかな声が聞こえた。


「おかえり、レン」


 俺は顔を上げた。


 ベッドの上に、白いワンピースの少女が座っていた。


 ユナだ。


 彼女は、いつものように笑っていた。


「……ただいま」


 俺は、そう答えた。


 今度こそ。


 今度こそ、彼女のことを知りたい。


 彼女が誰なのか。


 どうして毎晩、俺の前に現れるのか。


 そして、どうして朝になると消えてしまうのか。


 俺は一歩、彼女に近づいた。


「ユナ。今日は、全部話してくれ」


 彼女は少しだけ困った顔をした。


 それから、静かに首を横に振った。


「ごめんね」


 いつもの言葉。


 いつもの笑顔。


 けれど、その目には、今にもこぼれ落ちそうな涙が浮かんでいた。


「まだ、だめなの」


 ユナは俺の手を取った。


 冷たい手だった。


「だって、明日になったら――」


 彼女はそこで言葉を止めた。


 そして、俺の胸に顔を埋めた。


「……また、あなたが私を忘れちゃうから」


 俺は何も言えなかった。


 ただ、彼女の小さな身体を抱きしめた。


 その夜、俺は初めて思った。


 この少女は、俺が守らなければならない存在なのかもしれない。


 そして。


 俺が彼女を守ろうとすること自体が、何かを壊してしまうのかもしれない。


 その答えを知るのは、まだ先のことだった。

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