俺だけが覚えてる
午後八時。
俺は、指定された場所に来ていた。
東京都内の、とある雑居ビル。
表向きは閉鎖された医療施設らしいが、入口には警備員が二人立っていた。
どちらも黒いスーツ姿で、胸元に小さな銀色のバッジをつけている。
バッジには、円の中に一本の縦線が描かれていた。
指定されたメッセージには、こう書かれていた。
『神崎レンさん。あなたは昨夜、特異災害に遭遇しました』
『つきましては、今後の安全確保と事情聴取のため、当施設までお越しください』
安全確保。
事情聴取。
ずいぶん丁寧な言い方だが、断れる雰囲気ではなかった。
「神崎レンさんですね」
俺が近づくと、警備員の一人が声をかけてきた。
「はい。メッセージをもらったんですが……」
「確認しています。こちらへ」
案内された先には、地下へ続くエレベーターがあった。
地下三階。
ボタンを押すと、扉が閉まった。
下降している感覚がある。
だが、表示される階数は地下三階から動かない。
「……ここ、何階まであるんですか?」
「到着すれば分かります」
警備員は、それ以上答えなかった。
やがて、エレベーターが止まる。
扉が開いた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
そこには、巨大な地下施設が広がっていた。
白い壁。
ガラス張りの研究室。
武装した警備員。
そして、透明な隔壁の向こうで、何か黒いものがうごめいていた。
「……何だ、あれ」
「昨日喰いの残骸です」
警備員が淡々と答える。
「昨日喰い?」
「あなたが遭遇した存在ですよ。正式名称は特異災害第零号。通称、昨日喰い」
昨日喰い。
あの怪物の名前か。
「本当に、あんなものが存在するんですね」
「存在します。少なくとも、我々はそう認識しています」
「どういう意味ですか?」
「詳しい説明は担当者から」
警備員は歩き続けた。
俺はその後を追うしかなかった。
*
通された部屋には、一人の女性が待っていた。
年齢は三十歳前後。
黒いスーツに、肩までの髪。
机の上には、分厚い資料とタブレットが置かれている。
「初めまして。特異災害対策局の御堂カナタです」
女性は名刺を差し出した。
そこには、聞き慣れない組織名が記されていた。
「特異災害対策局?」
「政府直属の組織です。一般には公開されていません」
「そんな組織が、本当にあるんですか?」
「あなたが昨夜見たものと同じくらいには、現実ですよ」
御堂はタブレットを操作した。
画面に映し出されたのは、昨夜の俺の部屋だった。
割れた窓。
砕けた床。
そして、黒い怪物。
「これは、あなたの部屋に設置されていた監視カメラの映像です」
「……俺の部屋に監視カメラ?」
「正確には、周辺の監視網です。あなたの部屋そのものを監視していたわけではありません」
映像が進む。
怪物が俺に襲いかかる。
俺は床を転がり、拳を叩き込む。
怪物の体が砕け散った。
そこで映像が止まった。
「神崎さん。あなたは、この映像を見てどう思いますか?」
「どうって……俺が怪物を倒した。それだけでしょう」
「違います」
御堂は画面を拡大した。
怪物の腕が振り下ろされる直前。
俺の体の周囲に、薄い光のようなものが映っていた。
「あなたが攻撃を受ける直前、身体能力が急激に上昇しています。反射速度、筋力、動体視力。いずれも通常の人間では説明できない数値です」
「そんなもの、俺には……」
「心当たりがない?」
「あるわけないでしょう!」
思わず声が大きくなった。
俺は普通の学生だ。
スポーツ選手でも、軍人でもない。
昨日まで、怪物どころか喧嘩すらまともにしたことがなかった。
そんな人間が、いきなり化け物を殴り倒せるわけがない。
「神崎さん」
御堂の声が少しだけ低くなった。
「あなたは、昨日喰いに襲われた人間の中で、唯一の生存者です」
「……ほかの人は?」
「記録上、存在していません」
「は?」
「昨夜、あの場所で何が起きたのか。通常の記録には残っていないんです。監視映像も、あなたが提供した情報も、こちらが特殊な処理をしなければ消えてしまう」
御堂は俺を見つめた。
「ですが、あなたは覚えている。怪物の姿も、襲われたことも、すべて」
「だから何なんですか?」
「あなたは、適合者かもしれません」
聞き慣れない言葉だった。
「適合者?」
「昨日喰いや、それに類する存在に対抗できる人間。極めて稀ですが、確認されています」
「……俺が、その一人だと?」
「可能性は高いです」
御堂は資料を閉じた。
「ただし、適合者には危険が伴います。能力の発現には、必ず何らかの代償がある」
「代償?」
「記憶の喪失。人格の変化。身体の異常。症状は人によって異なります」
俺は、昨夜のことを思い出した。
怪物を殴った瞬間。
頭の中に響いた、あの声。
『対敵適応、発動』
そして、何かを思い出しかけたときの頭痛。
あれは夢でも、幻覚でもなかったのか。
「……俺は、どうすればいいんですか?」
「まずは、あなたの能力を確認します」
御堂は立ち上がった。
「こちらへ来てください」
*
案内されたのは、巨大な訓練室だった。
壁も床も、灰色の特殊素材で覆われている。
中央には、黒い人型の機械が立っていた。
身長は二メートルほど。
頭部には赤いセンサーが光っている。
「これは?」
「戦闘能力測定用の訓練機です。安全装置が働くので、命に関わることはありません」
「本当に?」
「絶対とは言いません」
「言い切ってくださいよ!」
御堂は少しだけ笑った。
「安心してください。あなたが死ぬと、こちらも困ります」
まったく安心できない。
訓練室の隅では、白衣姿の研究員たちがこちらを見ていた。
「まずは基本的な身体能力を測定します。あの機械の攻撃を避けてください」
「攻撃って……」
俺が言い終わる前に、訓練機の目が赤く光った。
『測定開始』
次の瞬間、拳が飛んできた。
「うおっ!」
反射的に身をひねる。
拳が頬のすぐ横を通り過ぎた。
風圧で髪が揺れる。
「速っ!」
『第二動作』
今度は蹴り。
俺は後ろに跳んだ。
床を滑り、何とか転倒を免れる。
心臓が跳ねていた。
こんなの、避けられるわけがない。
訓練機が再び構える。
今度は、さっきより速い。
右。
いや、左か。
考えるより先に、身体が動いていた。
拳をかわし、腕をつかみ、体勢を崩す。
訓練機の巨体が、わずかに傾いた。
「……え?」
自分でも驚いた。
今の動き、どうやったんだ?
『測定値、上昇』
研究員たちがざわめいた。
「反応速度が上がっています!」
「筋出力もです。開始時の数値と比較して、異常な変化が……!」
訓練機が後退する。
その姿を見た瞬間、俺の中で何かが変わった。
怖い。
勝てない。
こいつは、俺より強い。
なら。
なら、追いつけばいい。
そう思った瞬間、身体の奥が熱くなった。
『対敵適応、発動』
頭の中に、あの声が響く。
俺は床を蹴った。
訓練機の攻撃を紙一重でかわし、懐に飛び込む。
そして、拳を叩き込んだ。
ガァンッ!
金属音が響く。
訓練機の胴体が大きくへこんだ。
そのまま機体は後ろに吹き飛び、壁に激突した。
静寂。
俺は拳を見つめた。
信じられなかった。
さっきまで、避けるだけで精一杯だった。
それなのに今は、あの機械を吹き飛ばした。
「……俺が、やったのか?」
「測定終了!」
研究員の声が響いた。
御堂は、タブレットの画面を見つめたまま動かなかった。
「これは……」
「どうしたんですか?」
御堂はゆっくりと顔を上げた。
「あなたの能力は、通常の適合者とは違う可能性があります」
「どう違うんです?」
「普通、適合者の能力には一定の限界があります。身体能力を上げる者、炎を操る者、未来をわずかに予測する者。能力の種類は違っても、基本的には本人が持つ力を強化するものです」
御堂は画面を俺に向けた。
「ですが、あなたの能力は違う」
そこには、数値の変化が記録されていた。
訓練開始直後は低い数値だったものが、訓練機の攻撃が激しくなるにつれて急激に上昇している。
「相手の強さに応じて、あなた自身の能力が変化しているんです」
「相手が強いほど、俺も強くなるってことですか?」
「現時点では、そう考えられます」
御堂は少し考え込んだ。
「仮称をつけるなら……『対敵適応』」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥が痛んだ。
知らないはずの声が、また聞こえる。
『対敵適応』
『対象を確認』
『適応率――未測定』
そして、一瞬だけ。
真っ暗な空間に立つ、巨大な何かの姿が見えた。
人間の形をしている。
だが、その頭上には、無数の光が浮かんでいた。
次の瞬間、視界が元に戻る。
「神崎さん?」
「……大丈夫です」
俺は額を押さえた。
今のは何だ。
能力を使ったせいか?
それとも、俺の中に何か別のものがあるのか。
「一つ、確認させてください」
御堂が言った。
「あなたは、昨夜の戦闘で何かを失った感覚はありませんか?」
俺は答えようとして、言葉に詰まった。
失ったもの。
確かに、何かがある。
けれど、それが何なのか分からない。
思い出せない。
いや。
思い出そうとすると、頭の中に黒い穴が開くような感覚がある。
「……分かりません」
「そうですか」
御堂は表情を変えなかった。
だが、その目は明らかに警戒していた。
「神崎さん。あなたの能力は、非常に強力かもしれません。しかし、強い能力ほど危険も大きい。今後は我々の管理下で、能力を調べさせていただきます」
「管理下って……俺は実験動物じゃないですよ」
「分かっています」
御堂は静かに言った。
「だからこそ、あなたには知っておいてほしいんです。昨日喰いが現れるたび、世界から何かが失われている。あなたが覚えていることには、意味があるかもしれない」
俺は返事をしなかった。
あの怪物のこと。
毎晩現れる少女のこと。
そして、能力を使うたびに感じる、記憶の欠落。
何も分からない。
分からないことばかりだ。
だが、一つだけ確かなことがある。
俺はもう、昨日までの生活には戻れない。
*
検査が終わったのは、午後十一時を過ぎた頃だった。
俺は施設内の休憩室に通され、一人で待つことになった。
テーブルには水と簡単な食事が置かれている。
スマホは預けさせられた。
窓もない。
時計もない。
時間の感覚が、少しずつ薄れていく。
「……帰りたいな」
呟いた、そのとき。
部屋の照明が一瞬だけ点滅した。
パチッ。
パチパチッ。
そして、完全に消えた。
「停電?」
暗闇の中で、何かが動いた。
カツン。
カツン。
足音。
俺は息を止めた。
この施設は地下深くにあるはずだ。
警備員もいる。
それなのに、誰かが入ってきたのか?
「……誰だ?」
返事はない。
代わりに、扉の向こうから声が聞こえた。
「レン」
その声を聞いた瞬間、心臓が跳ねた。
忘れるはずがない。
毎晩、俺の部屋に現れる少女。
白瀬ユナ。
「……ユナ?」
扉が、音もなく開いた。
暗闇の向こうに、白いワンピースの少女が立っていた。
裸足。
長い黒髪。
昨日と同じ姿。
「どうして、ここに……」
「迎えに来たの」
「迎えに?」
ユナは頷いた。
そして、俺の手を取った。
冷たい手だった。
「ここにいたら、あなたは私を忘れちゃう」
「何を言って――」
「お願い。今は何も聞かないで」
ユナの声が震えていた。
そのとき、廊下の奥から警報が鳴り響いた。
『緊急事態。第七隔離区画に異常反応』
『繰り返します。第七隔離区画に――』
警報が、途中で途切れた。
ユナは振り返った。
その顔から、血の気が引いていた。
「……もう来た」
「何が?」
ユナは答えなかった。
ただ、俺の手を強く握りしめた。
「レン。絶対に、あれを見ないで」
その瞬間。
廊下の奥から、あの声が聞こえた。
『――昨日の残り物』
全身の血が凍った。
あの怪物だ。
ここにも、昨日喰いがいる。
そして今度は、俺だけではない。
この施設にいる人間全員が、危険にさらされている。
ユナが俺を見つめた。
「レン。あなたの能力は、まだ目覚めていない」
「……どういう意味だ?」
ユナは答えなかった。
ただ、泣きそうな顔で微笑んだ。
「本当のあなたは、もっと強いから」
次の瞬間、廊下の壁が内側から弾け飛んだ。
黒い影が、ゆっくりと姿を現す。
その顔にある穴が、俺を向いた。
『見つけた』
怪物が笑ったように見えた。
『今度こそ、お前の昨日を食べてやる』
俺は拳を握りしめた。
もう、逃げるわけにはいかない。
だが、頭の中では、別の疑問が渦巻いていた。
なぜ、こいつは俺を知っている?
なぜ、ユナは俺の能力について知っている?
そして――。
本当の俺とは、一体何者なんだ?




