昨日を食べる怪物
午前二時十四分。
窓の外で、何かが鳴いた。
獣の声に似ていた。
けれど、獣の声だと思いたくなかった。
喉の奥を無理やり引き裂いたような、聞いているだけで頭の芯が痺れる音だった。
「……何だ、今の」
俺はカーテンを少しだけ開けた。
向かいのマンション。その屋上に、黒い影が立っていた。
人間の形をしている。
だが、人間ではない。
腕が長すぎた。膝の位置がおかしい。首は右に九十度ほど傾き、顔があるはずの場所には、ぽっかりと黒い穴が開いていた。
そいつが、こちらを向いた。
目なんてないはずなのに、目が合った気がした。
「……っ!」
反射的にカーテンを閉める。
心臓がうるさい。
警察を呼ぶべきか。
いや、そもそもあんなものを警察が相手にできるのか。
スマホを手に取った、そのときだった。
『緊急速報。東京都内で原因不明の爆発が発生しました。周辺住民の皆様は、直ちに屋内へ避難してください』
テレビから流れたアナウンサーの声が、途中で途切れた。
画面が乱れる。
砂嵐の向こうに、一瞬だけ何かが映った。
黒い影。
そして、逃げ惑う人々。
映像が戻ったとき、アナウンサーは何事もなかったように原稿を読み続けていた。
『現在、現場では火災が発生しており――』
「……今の映像、何だったんだ?」
「見ちゃったんだね」
背後から声がした。
飛び上がりそうになって振り返る。
ベッドの上に、あの少女が座っていた。
白いワンピース。長い黒髪。裸足の足先が、ベッドの端からぶら下がっている。
「お前……いつからそこにいる?」
「ずっといたよ」
「いや、さっきまでいなかっただろ!」
「いたよ」
少女は当たり前のように答えた。
「あなたが気づかなかっただけ」
この女、本当に何なんだ。
不法侵入で通報するべきなのに、そんな考えはいつの間にか頭から消えていた。
それよりも、さっきの怪物だ。
「なあ。あれ、何なんだ?」
少女の表情から、笑みが消えた。
「昨日喰い」
「きのうぐい?」
「昨日を食べるもの」
意味が分からない。
怪物が人間を襲う。それなら分かる。
だが、昨日を食べるとはどういうことだ。
「人を食べるんじゃないのか?」
「人も食べるよ。でも、食べられるのは体だけじゃない」
少女は自分の胸元に手を当てた。
「その人が生きていた時間。誰かと過ごした記憶。写真や記録。みんな、その人が最初から存在しなかったみたいに消えてしまう」
「……そんなこと、あるわけないだろ」
「そうだね。普通は信じられないよね」
少女は寂しそうに笑った。
「でも、あなたは覚えていられる」
背筋に冷たいものが走った。
「どういう意味だ?」
「あなたは、昨日を失わない人だから」
その瞬間。
ドンッ!
窓の向こうで、何かがぶつかった。
俺と少女は同時に窓を見た。
カーテンの向こう側。
黒い影が、窓ガラスに張りついていた。
長い指が、ガラスをゆっくりとなぞる。
キィ……。
耳障りな音が部屋に響いた。
「逃げて!」
少女が叫んだ。
直後、窓ガラスが内側に弾け飛んだ。
「うわああっ!」
俺は床に倒れ込んだ。
ガラス片が頬をかすめる。
黒い怪物が、窓枠をくぐって部屋に入ってきた。
あり得ない。
あの体の大きさで、どうしてそんな動きができる?
怪物の顔にある黒い穴が、俺を向いた。
次の瞬間、頭の中に声が響いた。
『――見つけた』
声ではない。
言葉が直接、脳に流れ込んできた。
『昨日の残り物』
「何だよ、それ……!」
怪物が腕を振り下ろす。
俺は転がって避けた。
床が砕ける。
フローリングに、深い亀裂が走った。
一撃でも食らえば終わりだ。
逃げろ。
そう思ったのに、足が動かない。
怪物の腕が、もう一度振り上げられる。
今度こそ死ぬ。
そう確信した瞬間、少女が俺の前に飛び出した。
「やめて!」
怪物の動きが止まった。
黒い穴が、少女を見つめる。
いや、見つめているように見えただけかもしれない。
『――お前は』
怪物の体が震えた。
『なぜ、まだいる』
少女は答えなかった。
ただ、俺を振り返った。
「レン。絶対に、私のことを忘れないで」
「何を――」
怪物の腕が、少女の体を貫いた。
「……え?」
赤い血が、床に落ちた。
少女は苦しそうに顔を歪める。
俺の頭の中で、何かが切れた。
「お前ぇぇっ!」
気づけば、俺は怪物に向かって走り出していた。
武器なんてない。
勝てるわけもない。
それでも、殴らずにはいられなかった。
拳が怪物の体に当たる。
手応えはなかった。
だが、その瞬間。
世界が止まった。
怪物の動きが、ひどく遅く見える。
腕の振り方。
体重のかけ方。
次に攻撃してくる方向。
すべてが、分かった。
頭の中に、聞いたことのない声が響いた。
『適応条件を確認』
『対象との戦力差――極大』
『対敵適応、発動』
「……何だ、これ?」
俺の右腕が、熱を帯びた。
怪物が再び襲いかかってくる。
今度は、避けられた。
拳を握る。
怪物の体の中心に、黒い裂け目が見えた。
そこを殴ればいい。
なぜか、そう確信できた。
「消えろ!」
拳が裂け目に突き刺さる。
衝撃が部屋を揺らした。
怪物の体に亀裂が走る。
黒い破片が宙に舞い、耳障りな叫び声とともに、怪物は崩れ落ちた。
静寂が戻った。
「……はあっ、はあっ……」
俺は床に膝をついた。
何が起きた?
俺が、あれを倒したのか?
そのとき、ふと気づいた。
「……あれ?」
部屋を見回す。
窓ガラスは割れていない。
床にも亀裂はない。
怪物の残骸も、血の跡も、何一つ残っていなかった。
まるで、最初から何も起きていなかったように。
「おい……どこに行った?」
返事はない。
少女の姿も消えていた。
ベッドの上に、一枚の写真が落ちている。
拾い上げる。
そこには、見知らぬ少女が写っていた。
俺と同じくらいの年齢だろうか。
笑顔で、誰かの隣に立っている。
だが、その隣にいる人物の顔だけが、黒く塗りつぶされていた。
写真の裏には、手書きの文字があった。
『レンへ。明日も、私を見つけて』
その文字を見た瞬間、頭の奥がズキリと痛んだ。
何かを思い出しかけた。
知らないはずの場所。
知らないはずの声。
そして、泣いている自分。
だが、思い出すことはできなかった。
翌朝。
俺はテレビのニュースを見ていた。
『昨夜、東京都内で発生した爆発について、警察はガス漏れが原因と発表しました。現場周辺にけが人はおらず、被害も確認されていません』
「……は?」
昨夜の怪物は?
あの少女は?
俺の部屋に何が起きた?
スマホを開き、昨夜のニュースを検索する。
何も出てこない。
SNSにも、怪物の映像は一つもない。
試しに、昨夜のニュースを見ていた同僚に電話をかけた。
『爆発? 何の話だよ』
「昨日の夜、東京で変な事件があっただろ!」
『昨日の夜は普通だったぞ。お前、寝ぼけてんじゃないの?』
通話が切れた。
俺はしばらく、スマホを見つめていた。
夢だったのか。
そう思いかけたとき、机の上に置いた写真が目に入った。
少女の写真。
裏返す。
『レンへ。明日も、私を見つけて』
文字は消えていなかった。
夢じゃない。
確かに、何かがあった。
そして、世界のほうがそれを忘れている。
俺だけが、覚えている。
そのとき、スマホが震えた。
見知らぬ番号からのメッセージだった。
『神崎レンさんですね』
『昨夜、あなたが遭遇した存在について、お話があります』
『本日午後八時、指定の場所までお越しください』
最後に、添付ファイルが一つ。
画像を開いた瞬間、俺は息を呑んだ。
そこには、昨夜の怪物が写っていた。
そして画像の下には、こう記されていた。
『特異災害第零号――昨日喰い』
『確認された生存者、一名』
俺の名前が、その下にあった。
――神崎レン。
画面を見つめたまま、俺は呟いた。
「……昨日、何が起きたんだ?」
答える者はいなかった。
ただ、部屋の隅から、少女の声が聞こえた気がした。
『忘れないでね』
振り返っても、誰もいない。
けれど、その声だけは。
なぜか、ずっと前から知っている気がした。




