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昨日世界から消えた怪物を覚えている  作者: 一刀詩姫


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2/13

昨日を食べる怪物

 午前二時十四分。


 窓の外で、何かが鳴いた。


 獣の声に似ていた。


 けれど、獣の声だと思いたくなかった。


 喉の奥を無理やり引き裂いたような、聞いているだけで頭の芯が痺れる音だった。


「……何だ、今の」


 俺はカーテンを少しだけ開けた。


 向かいのマンション。その屋上に、黒い影が立っていた。


 人間の形をしている。


 だが、人間ではない。


 腕が長すぎた。膝の位置がおかしい。首は右に九十度ほど傾き、顔があるはずの場所には、ぽっかりと黒い穴が開いていた。


 そいつが、こちらを向いた。


 目なんてないはずなのに、目が合った気がした。


「……っ!」


 反射的にカーテンを閉める。


 心臓がうるさい。


 警察を呼ぶべきか。


 いや、そもそもあんなものを警察が相手にできるのか。


 スマホを手に取った、そのときだった。


『緊急速報。東京都内で原因不明の爆発が発生しました。周辺住民の皆様は、直ちに屋内へ避難してください』


 テレビから流れたアナウンサーの声が、途中で途切れた。


 画面が乱れる。


 砂嵐の向こうに、一瞬だけ何かが映った。


 黒い影。


 そして、逃げ惑う人々。


 映像が戻ったとき、アナウンサーは何事もなかったように原稿を読み続けていた。


『現在、現場では火災が発生しており――』


「……今の映像、何だったんだ?」


「見ちゃったんだね」


 背後から声がした。


 飛び上がりそうになって振り返る。


 ベッドの上に、あの少女が座っていた。


 白いワンピース。長い黒髪。裸足の足先が、ベッドの端からぶら下がっている。


「お前……いつからそこにいる?」


「ずっといたよ」


「いや、さっきまでいなかっただろ!」


「いたよ」


 少女は当たり前のように答えた。


「あなたが気づかなかっただけ」


 この女、本当に何なんだ。


 不法侵入で通報するべきなのに、そんな考えはいつの間にか頭から消えていた。


 それよりも、さっきの怪物だ。


「なあ。あれ、何なんだ?」


 少女の表情から、笑みが消えた。


「昨日喰い」


「きのうぐい?」


「昨日を食べるもの」


 意味が分からない。


 怪物が人間を襲う。それなら分かる。


 だが、昨日を食べるとはどういうことだ。


「人を食べるんじゃないのか?」


「人も食べるよ。でも、食べられるのは体だけじゃない」


 少女は自分の胸元に手を当てた。


「その人が生きていた時間。誰かと過ごした記憶。写真や記録。みんな、その人が最初から存在しなかったみたいに消えてしまう」


「……そんなこと、あるわけないだろ」


「そうだね。普通は信じられないよね」


 少女は寂しそうに笑った。


「でも、あなたは覚えていられる」


 背筋に冷たいものが走った。


「どういう意味だ?」


「あなたは、昨日を失わない人だから」


 その瞬間。


 ドンッ!


 窓の向こうで、何かがぶつかった。


 俺と少女は同時に窓を見た。


 カーテンの向こう側。


 黒い影が、窓ガラスに張りついていた。


 長い指が、ガラスをゆっくりとなぞる。


 キィ……。


 耳障りな音が部屋に響いた。


「逃げて!」


 少女が叫んだ。


 直後、窓ガラスが内側に弾け飛んだ。


「うわああっ!」


 俺は床に倒れ込んだ。


 ガラス片が頬をかすめる。


 黒い怪物が、窓枠をくぐって部屋に入ってきた。


 あり得ない。


 あの体の大きさで、どうしてそんな動きができる?


 怪物の顔にある黒い穴が、俺を向いた。


 次の瞬間、頭の中に声が響いた。


『――見つけた』


 声ではない。


 言葉が直接、脳に流れ込んできた。


『昨日の残り物』


「何だよ、それ……!」


 怪物が腕を振り下ろす。


 俺は転がって避けた。


 床が砕ける。


 フローリングに、深い亀裂が走った。


 一撃でも食らえば終わりだ。


 逃げろ。


 そう思ったのに、足が動かない。


 怪物の腕が、もう一度振り上げられる。


 今度こそ死ぬ。


 そう確信した瞬間、少女が俺の前に飛び出した。


「やめて!」


 怪物の動きが止まった。


 黒い穴が、少女を見つめる。


 いや、見つめているように見えただけかもしれない。


『――お前は』


 怪物の体が震えた。


『なぜ、まだいる』


 少女は答えなかった。


 ただ、俺を振り返った。


「レン。絶対に、私のことを忘れないで」


「何を――」


 怪物の腕が、少女の体を貫いた。


「……え?」


 赤い血が、床に落ちた。


 少女は苦しそうに顔を歪める。


 俺の頭の中で、何かが切れた。


「お前ぇぇっ!」


 気づけば、俺は怪物に向かって走り出していた。


 武器なんてない。


 勝てるわけもない。


 それでも、殴らずにはいられなかった。


 拳が怪物の体に当たる。


 手応えはなかった。


 だが、その瞬間。


 世界が止まった。


 怪物の動きが、ひどく遅く見える。


 腕の振り方。


 体重のかけ方。


 次に攻撃してくる方向。


 すべてが、分かった。


 頭の中に、聞いたことのない声が響いた。


『適応条件を確認』


『対象との戦力差――極大』


『対敵適応、発動』


「……何だ、これ?」


 俺の右腕が、熱を帯びた。


 怪物が再び襲いかかってくる。


 今度は、避けられた。


 拳を握る。


 怪物の体の中心に、黒い裂け目が見えた。


 そこを殴ればいい。


 なぜか、そう確信できた。


「消えろ!」


 拳が裂け目に突き刺さる。


 衝撃が部屋を揺らした。


 怪物の体に亀裂が走る。


 黒い破片が宙に舞い、耳障りな叫び声とともに、怪物は崩れ落ちた。


 静寂が戻った。


「……はあっ、はあっ……」


 俺は床に膝をついた。


 何が起きた?


 俺が、あれを倒したのか?


 そのとき、ふと気づいた。


「……あれ?」


 部屋を見回す。


 窓ガラスは割れていない。


 床にも亀裂はない。


 怪物の残骸も、血の跡も、何一つ残っていなかった。


 まるで、最初から何も起きていなかったように。


「おい……どこに行った?」


 返事はない。


 少女の姿も消えていた。


 ベッドの上に、一枚の写真が落ちている。


 拾い上げる。


 そこには、見知らぬ少女が写っていた。


 俺と同じくらいの年齢だろうか。


 笑顔で、誰かの隣に立っている。


 だが、その隣にいる人物の顔だけが、黒く塗りつぶされていた。


 写真の裏には、手書きの文字があった。


『レンへ。明日も、私を見つけて』


 その文字を見た瞬間、頭の奥がズキリと痛んだ。


 何かを思い出しかけた。


 知らないはずの場所。


 知らないはずの声。


 そして、泣いている自分。


 だが、思い出すことはできなかった。


 翌朝。


 俺はテレビのニュースを見ていた。


『昨夜、東京都内で発生した爆発について、警察はガス漏れが原因と発表しました。現場周辺にけが人はおらず、被害も確認されていません』


「……は?」


 昨夜の怪物は?


 あの少女は?


 俺の部屋に何が起きた?


 スマホを開き、昨夜のニュースを検索する。


 何も出てこない。


 SNSにも、怪物の映像は一つもない。


 試しに、昨夜のニュースを見ていた同僚に電話をかけた。


『爆発? 何の話だよ』


「昨日の夜、東京で変な事件があっただろ!」


『昨日の夜は普通だったぞ。お前、寝ぼけてんじゃないの?』


 通話が切れた。


 俺はしばらく、スマホを見つめていた。


 夢だったのか。


 そう思いかけたとき、机の上に置いた写真が目に入った。


 少女の写真。


 裏返す。


『レンへ。明日も、私を見つけて』


 文字は消えていなかった。


 夢じゃない。


 確かに、何かがあった。


 そして、世界のほうがそれを忘れている。


 俺だけが、覚えている。


 そのとき、スマホが震えた。


 見知らぬ番号からのメッセージだった。


『神崎レンさんですね』


『昨夜、あなたが遭遇した存在について、お話があります』


『本日午後八時、指定の場所までお越しください』


 最後に、添付ファイルが一つ。


 画像を開いた瞬間、俺は息を呑んだ。


 そこには、昨夜の怪物が写っていた。


 そして画像の下には、こう記されていた。


『特異災害第零号――昨日喰い』


『確認された生存者、一名』


 俺の名前が、その下にあった。


 ――神崎レン。


 画面を見つめたまま、俺は呟いた。


「……昨日、何が起きたんだ?」


 答える者はいなかった。


 ただ、部屋の隅から、少女の声が聞こえた気がした。


『忘れないでね』


 振り返っても、誰もいない。


 けれど、その声だけは。


 なぜか、ずっと前から知っている気がした。

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