記録にない子ども
朝。
神崎レンは、机の上に置かれた写真を見つめていた。
幼い頃の自分。
その隣にいる、黒く塗りつぶされた子ども。
写真の裏には、こう書かれていた。
『記憶保持者候補』
『最初の被験者を除く』
そして、昨夜ユナが教えてくれた言葉。
『あなたが最初に忘れた人は、あなたを忘れていないよ』
「……誰なんだよ」
何度考えても答えは出ない。
レンは写真をノートに挟み、鞄にしまった。
学校へ行けば、何か分かるかもしれない。
そう思った。
*
教室に入ると、レイラが窓際の席で本を読んでいた。
「おはようございます、神崎くん」
「おはよう」
「昨日は大丈夫でしたか?」
「何が?」
「旧校舎です。あんなところに一人で行くなんて、危ないですよ」
レンは足を止めた。
「どうして知ってる?」
「昨日、先生が話していましたよ。旧校舎の資料室に誰かが入ったって」
「そうか」
「何か見つかりました?」
「別に」
レイラは本を閉じた。
「なら、よかったです」
その笑顔を見ていると、レンは妙な感覚に襲われた。
彼女は何も知らないふりをしている。
いや、知らないふりをしているのではない。
こちらが何を知っているのか、確かめている。
「レイラ」
「はい?」
「昨日、俺が探していた女の子のこと、本当に知らないのか?」
レイラは少しだけ首を傾げた。
「誰のことですか?」
「……そうだよな」
「神崎くん」
「何?」
「人は、忘れることで前に進めることもあるんですよ」
彼女は穏やかに言った。
「忘れたくないことまで忘れてしまうのは、悲しいですけど」
その言葉に、レンは返事をしなかった。
*
昼休み。
レンはスマートフォンを取り出し、写真の裏に書かれていた文字を検索していた。
記憶保持者候補。
最初の被験者。
検索結果には、医療関係の記事や研究資料が表示されるだけだった。
だが、一つだけ気になるものがあった。
十数年前に閉鎖された、民間の児童支援施設についての記事。
記事の内容は短かった。
『施設運営上の問題により閉鎖』
『関係者への取材は困難』
『一部の児童記録は非公開』
「児童支援施設……」
レンは記事の日付を確認した。
写真の裏に書かれていた記録と、時期が近い。
偶然なのか。
それとも。
「何を見ているんですか?」
顔を上げると、レイラが立っていた。
「調べもの」
「最近、よく調べものをしていますね」
「気になることがあるから」
「そうですか」
レイラはレンのスマートフォンに目を向けた。
画面には、閉鎖された施設の記事が表示されている。
一瞬。
本当に一瞬だけ、レイラの表情が変わった。
「……その施設を調べているんですか?」
「知ってるのか?」
「いいえ」
彼女はすぐに笑顔に戻った。
「ただ、あまり関わらない方がいいと思います」
「どうして?」
「古い施設には、いろいろな事情がありますから」
「それだけ?」
「はい」
レイラはそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。
レンは彼女の後ろ姿を見つめた。
やはり、何かを知っている。
*
放課後。
レンは記事に記載されていた施設の住所を頼りに、郊外へ向かった。
電車を乗り継ぎ、駅からさらに歩く。
住宅街を抜けた先に、その建物はあった。
古い二階建ての建物。
正面には、取り外された看板の跡だけが残っている。
「ここか……」
門には鎖が巻かれていた。
中に入ることはできない。
レンは建物の周囲を歩き、裏手に回った。
そこには、小さな掲示板が残されていた。
雨に濡れ、文字のほとんどが消えている。
しかし、一番下に貼られた古い紙だけは、かろうじて読めた。
『児童記録保管先変更のお知らせ』
その下に、別の施設の名前が記されていた。
『管理移管先――ドールハウス』
「ドールハウス……?」
聞いたことのない名前だった。
レンはスマートフォンで検索する。
だが、該当する施設は見つからない。
住所も電話番号もない。
まるで、名前だけがそこに残されているようだった。
そのとき。
建物の中から、物音がした。
ガタン。
「誰かいるのか?」
レンは門の隙間から中を覗いた。
二階の窓。
そこに、一瞬だけ人影が見えた。
小さな子どものようだった。
「おい!」
声をかけた瞬間、人影は消えた。
レンは門を揺らした。
鎖は外れない。
そのまま数秒、建物を見つめていると、足元に何かが落ちていることに気づいた。
小さな紙片だった。
拾い上げる。
そこには、鉛筆で書かれた文字があった。
『レンくん』
息が止まった。
その文字を見た瞬間、頭の奥に声が響いた。
『レンくん、こっちだよ』
知らないはずの声。
けれど、懐かしい。
レンは紙片を握りしめた。
「……誰なんだよ」
*
その頃。
教団の施設。
レイラは一人、端末の画面を見つめていた。
そこには、レンの行動記録が表示されている。
『旧施設跡地への接近』
『管理移管先の名称を確認』
『ドールハウス』
レイラは画面を閉じた。
「もう、そこまで辿り着いたんですね」
彼女は黒の聖書を開いた。
レンの名前の横には、過ぎ去った死亡予定日が記されている。
その下に、新たな文字が浮かび上がっていた。
『記憶保持者の接触を確認』
レイラは目を伏せた。
「……あの子のことまで、思い出してしまうんですか」
彼女の指先が震えていた。
「それは、まだ早いんです」
黒の聖書を閉じる。
そして、机の引き出しから一枚の写真を取り出した。
幼いレン。
その隣にいる、もう一人の子ども。
写真の裏には、かすれた文字が残されていた。
『二人目の観測対象』
レイラは写真を胸元に抱いた。
「今度は、必ず……」
*
夜。
レンの部屋。
机の上には、施設で拾った紙片が置かれていた。
『レンくん』
たった四文字。
それだけなのに、胸の奥が苦しくなる。
そのとき、窓の外にユナが現れた。
「こんばんは、レン」
「ユナ。今日、昔の施設を見つけた」
「うん」
「そこにドールハウスって名前が残っていた」
ユナの表情が変わった。
「……その名前を見つけたんだね」
「知ってるのか?」
「知ってるよ」
「どんな施設なんだ?」
ユナは少し考えてから答えた。
「そこは、忘れられた子どもたちが集められる場所」
「忘れられた?」
「生まれた場所も、育った環境も違う子どもたち。だけど、みんな同じものを持っていた」
「同じもの?」
「誰かに忘れられること」
レンは言葉を失った。
「どういう意味だよ……」
「ドールハウスは、ただの施設じゃない」
ユナは窓の外を見た。
「そこに集められた子どもたちは、何かを調べられていた」
「何を?」
「それは、まだ言えない」
「またそれかよ」
レンは苛立ちを隠せなかった。
「俺の過去に何があったんだ? あの写真の子どもは誰なんだ? どうして俺は、誰かを忘れている?」
ユナは静かにレンを見つめた。
「レン。あなたは、忘れたんじゃない」
「……え?」
「忘れさせられたんだよ」
その言葉が、部屋に重く響いた。
「誰に?」
「それを知るためには、あなた自身の記憶を取り戻さないといけない」
ユナはレンの手にある紙片を見つめた。
「その子は、まだあなたを覚えている」
「その子って……」
「あなたが最初に忘れた人」
レンは紙片を握りしめた。
「生きているのか?」
ユナは答えなかった。
ただ、最後にこう告げた。
「レン。ドールハウスを探すなら、レイラには気をつけて」
「レイラが関係しているのか?」
「彼女は、あなたが思い出すことを望んでいない」
その瞬間、ユナの姿が薄くなった。
「待ってくれ!」
「もうすぐ、あなたは選ばなければならなくなる」
「何を?」
「忘れたまま生きるか。それとも、思い出してすべてを失うか」
ユナは消えた。
部屋には、紙片だけが残されていた。
レンはその文字を見つめる。
『レンくん』
そして、紙片の裏側に、今まで気づかなかった小さな文字があることに気づいた。
『また、あの場所で』
レンは顔を上げた。
窓の外。
遠くの街灯が、一つずつ消えていく。
まるで、誰かが世界から明かりを消しているようだった。




