消えた痕跡
翌朝。
神崎レンは、教室に入るなり、後ろの窓際から二番目の席を見た。
そこには、誰も座っていない。
昨日と同じだ。
いや、昨日とは違う。
昨日までは、そこに誰かがいたという感覚が確かに残っていた。
今は、その感覚さえ少しずつ薄れている。
「……忘れるもんか」
レンは小さく呟き、自分の机に鞄を置いた。
昨日、話をした女子生徒。
集合写真の空白に気づき、自分と同じように何かを忘れていると言った少女。
彼女は確かに存在していた。
なのに、誰も覚えていない。
席も、名前も、声も。
まるで最初からいなかったように。
「おはようございます、神崎くん」
背後から声がした。
振り返ると、レイラが立っていた。
「おはよう」
「今日は少し眠そうですね。昨日、何かあったんですか?」
「別に」
「そうですか?」
レイラは微笑んだ。
その笑顔には、何の不自然さもない。
ただ、彼女の視線はレンの机の上に置かれたノートへ向けられていた。
「神崎くんは、記憶力がいいんですね」
「……どうして?」
「昨日の授業で、先生が言ったことを全部覚えていたからです」
「ああ、そういうこと」
「羨ましいです。私、忘れっぽいので」
レイラはそう言って、自分の席へ戻っていった。
その背中を見送りながら、レンは違和感を覚えた。
今の会話。
何かを探られていたような気がする。
*
昼休み。
レンは図書室へ向かった。
目的は、昨日の女子生徒の痕跡を探すことだった。
名前が分からないのなら、別の方法で探せばいい。
クラスの集合写真。
出席番号。
座席表。
何か一つでも、彼女が存在していた証拠が残っているかもしれない。
図書室の奥にあるパソコンを使い、学校の行事写真を調べる。
体育祭。
文化祭。
入学式。
表示される写真を一枚ずつ確認していく。
「……いた」
入学式の集合写真。
そこに、見覚えのある少女の姿があった。
顔ははっきりしない。
けれど、昨日話した少女と同じ場所に立っている。
レンは画面を拡大した。
次の瞬間。
画面が一瞬だけ暗くなった。
そして、写真が更新された。
「な……」
少女が消えていた。
いや、正確には違う。
少女が立っていた場所には、最初から誰もいなかったかのように、隣の生徒たちが自然に並んでいた。
レンは椅子から立ち上がった。
「どうなってるんだよ……」
「何かお探しですか?」
背後から声がした。
振り返ると、レイラが立っていた。
「レイラ……」
「図書室で何をしているんですか?」
「ちょっと調べもの」
「昨日のことですか?」
レンは黙った。
レイラはパソコンの画面を覗き込む。
「写真ですね」
「……昨日、俺と話していた女の子がいたんだ」
「女の子?」
「このクラスの生徒だと思う。だけど、誰も覚えていない」
「それは不思議ですね」
レイラは首を傾げた。
「神崎くんは、その人の名前を覚えているんですか?」
「覚えていない」
「顔は?」
「曖昧だ。でも、確かに会った」
「そうですか」
レイラは少しだけ目を伏せた。
「それなら、探すのはやめた方がいいかもしれません」
「どうして?」
「忘れた方が幸せなこともありますから」
その言葉に、レンは眉をひそめた。
「それ、本気で言ってる?」
「はい」
レイラは優しく微笑んだ。
「思い出さない方がいいことも、あるんですよ」
彼女はそれ以上何も言わず、図書室を出ていった。
レンはその背中を見つめていた。
今の言葉は忠告だったのか。
それとも、警告だったのか。
*
放課後。
レンが教室へ戻ると、自分の机の中に一枚の紙が入っていた。
折り畳まれた、小さなメモ。
開いてみる。
『旧校舎の資料室。彼女のことを知りたければ来てください』
差出人の名前はない。
レンは周囲を見回した。
教室には、まだ何人かの生徒が残っている。
レイラは窓際で本を読んでいた。
こちらを見ている様子はない。
「……誰が入れたんだ?」
レンはメモを握りしめた。
彼女のことを知っている人間がいる。
そう思った。
だが、旧校舎の資料室に向かう前に、レンは一度だけレイラの方を見た。
彼女は本のページをめくっていた。
その指先が、ほんの一瞬だけ止まる。
まるで、レンが動き出すのを待っているように。
*
夜。
旧校舎の資料室には、誰もいなかった。
埃をかぶった机。
古い書類棚。
使われなくなった学校の記録が、段ボール箱に詰め込まれている。
「誰もいないじゃないか……」
レンはメモを取り出した。
その裏側に、薄い文字が浮かび上がっていた。
『あなたは、誰を探しているのですか?』
レンの背筋に冷たいものが走る。
「……何だよ、これ」
そのとき、背後で扉が閉まった。
振り返る。
そこには誰もいない。
レンは扉に手をかけた。
開かない。
「おい! 誰かいるのか!」
返事はなかった。
代わりに、棚の上に置かれていた一冊の古いファイルが床に落ちた。
中から、一枚の写真が滑り出す。
そこには、幼い子どもたちが並んでいた。
顔はぼやけている。
しかし、その写真の隅に、見覚えのある少年がいた。
幼い頃の自分だ。
「……俺?」
写真の裏には、文字が書かれていた。
『記憶保持者候補』
その下に、もう一つ。
『最初の被験者を除く』
レンは息を呑んだ。
最初の被験者。
その言葉を見た瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
知らない景色。
白い壁。
冷たい床。
そして、誰かの声。
『レンくん』
聞き覚えがある。
けれど、誰の声なのか分からない。
「……誰だ?」
頭を押さえる。
その瞬間、資料室の扉が開いた。
廊下に立っていたのは、レイラだった。
「神崎くん」
「レイラ……どうしてここに?」
「心配になって、探しに来ました」
レイラは室内を見回した。
床に落ちた写真に目を留める。
「それを見てしまったんですね」
「これは何だ?」
「古い記録です」
「俺のことが書いてある」
「そうですね」
レイラは静かに頷いた。
「神崎くんは、知らなくていいことまで知ろうとしているんです」
「お前は何を知ってる?」
「私にも、分からないことはあります」
レイラはレンの手元を見つめた。
「でも、一つだけ確かなことがあります」
「何だよ」
「忘れられた人を思い出そうとするのは、とても危険だということです」
レンは写真を握りしめた。
「それでも探す」
レイラの笑顔が、ほんの少しだけ消えた。
「……そうですか」
彼女は一歩、レンに近づく。
「なら、気をつけてくださいね」
その声は、どこまでも優しかった。
*
深夜。
レンの部屋。
机の上には、資料室から持ち帰った写真が置かれていた。
眠れない。
あの声が頭から離れなかった。
『レンくん』
誰かが自分を呼んでいた。
確かに、そう聞こえた。
そのとき、窓の外から小さな音がした。
カーテンを開ける。
そこに、ユナが立っていた。
「ユナ……」
「こんばんは、レン」
彼女はいつも通り、夜の中にいた。
「今日、誰かに呼ばれた?」
「……どうして分かる?」
「あなたの顔を見れば分かるよ」
ユナは部屋に入り、机の上の写真を見た。
そして、表情を曇らせた。
「それを見つけたんだね」
「知ってるのか?」
「少しだけ」
「最初の被験者って何なんだ?」
ユナはすぐには答えなかった。
写真の中の幼いレンを見つめている。
「レン。あなたが探しているのは、昨日消えた女の子だけじゃない」
「どういう意味だ?」
「あなたは、ずっと前にも誰かを忘れている」
胸の奥が痛んだ。
「その人は誰なんだ?」
「まだ言えない」
「どうして!」
「今のあなたが思い出したら、きっと同じことが起きるから」
ユナはレンを見つめた。
「忘れられた人は、存在しなかったことになる。でもね、最初から存在しなかったわけじゃない」
「……」
「誰かが、その人を忘れさせたんだよ」
レンは息を止めた。
「誰が?」
ユナは答えなかった。
ただ、窓の外に広がる暗闇を見つめていた。
「それと、レン」
「何?」
「今日、あなたを資料室に呼び出したのは、あなたの味方じゃない」
「レイラか?」
ユナは小さく頷いた。
「彼女は、あなたがどこまで覚えているのか確かめたかったんだと思う」
「俺を試したってことか……」
「うん」
レンは手の中のメモを見つめた。
そこに書かれた文字は、いつの間にか消えていた。
「じゃあ、あの写真も……」
「気をつけて。彼女はもう、あなたを観察するだけではなくなっている」
ユナの輪郭が、少しずつ薄くなり始めていた。
「待ってくれ。まだ聞きたいことがある」
「今夜はここまで」
「ユナ!」
彼女は最後に一つだけ言った。
「レン。あなたが最初に忘れた人は、あなたを忘れていないよ」
次の瞬間、ユナの姿は消えていた。
部屋には静寂だけが残る。
レンは写真をもう一度見た。
幼い自分の隣。
黒く塗りつぶされた、もう一人の子ども。
その顔の部分に、かすかな文字が浮かんでいた。
『記録対象:未消失』
*
同じ頃。
レイラは教団の施設にいた。
机の上には、黒の聖書が開かれている。
彼女は今日の報告を書き込んだ。
『神崎レン、記憶保持状態を維持』
『最初の被験者に関する記録を確認』
『対象は、過去の記憶に接触し始めている』
ペンを置く。
そして、黒の聖書の最後のページを開いた。
そこには、レンの名前と、すでに過ぎた死亡予定日が記されている。
レイラはその文字を指でなぞった。
「どうして、まだ生きているんですか……?」
声が震える。
彼女は目を閉じた。
「今度こそ、間違えません」
黒の聖書のページが、ひとりでにめくれた。
そこに、新しい一文が浮かび上がる。
『次の消失対象――記憶保持者』
レイラは、その文字を見つめた。
「……始まったんですね」
彼女は静かに微笑んだ。
その笑顔には、もう優しさだけではない何かが混じっていた。




