忘れられた名前
朝。
目を覚まして最初に確認したのは、机の上に置かれたノートだった。
昨夜、ユナが帰ったあとに見つけた文章。
――最初に消えたのは、彼ではない。
何度読み返しても、その意味は分からなかった。
最初に消えたのは、彼ではない。
つまり、俺が探しているクラスメイトよりも前に、誰かが消えているということなのだろうか。
それとも、別の意味があるのか。
「……考えても仕方ないか」
俺はノートを閉じた。
とにかく、学校に行こう。
*
教室に入ると、レイラが窓際の席で本を読んでいた。
「おはようございます、神崎くん」
「おはよう」
「今日は早いですね」
「ちょっと調べたいことがあって」
「調べものですか?」
「ああ。昔のクラスのこととか」
「昔のクラス?」
レイラは本を閉じた。
「何かあったんですか?」
「いや、ちょっと気になることがあってさ」
「そうなんですね」
彼女はそれ以上聞かなかった。
ただ、机の上に置かれた俺のノートに一瞬だけ視線を向けた。
「神崎くん」
「ん?」
「無理はしないでくださいね」
「ありがとう」
レイラは微笑んだ。
その表情は、昨日までと何も変わらなかった。
*
午前の授業が終わり、休み時間。
俺は教室の後ろにある掲示板をもう一度確認していた。
集合写真。
やはり、そこには不自然な空白がある。
写真の中にいる生徒の数を数える。
クラスの人数と合わない。
けれど、誰もそれを気にしていない。
「何してるの?」
声をかけてきたのは、同じクラスの男子だった。
「ちょっと写真を見てた」
「集合写真?」
「ああ。なあ、この写真っていつ撮ったか覚えてる?」
「去年の文化祭のときじゃなかったっけ?」
「そのとき、誰か休んでた?」
「さあ?」
彼は写真を眺めた。
「別に普通じゃない?」
「そうか……」
「お前、最近変だぞ」
「そうか?」
「何か悩みでもあるなら相談しろよ」
男子は笑いながら自分の席へ戻っていった。
俺はもう一度写真を見る。
そのときだった。
「あの……」
背後から、小さな声が聞こえた。
振り返ると、一人の女子生徒が立っていた。
普段はあまり話したことのないクラスメイトだった。
「神崎くん、だよね?」
「ああ」
「さっきの写真のことなんだけど」
「何か知ってるのか?」
彼女は周囲を気にするように教室を見渡した。
「……私も、少し気になってたの」
「どういうこと?」
「この写真、変じゃない?」
俺は息を呑んだ。
「やっぱり、そう思う?」
「うん。でも、誰に聞いても何も覚えてないって言うから……」
彼女は写真の一部分を指差した。
「ここ」
そこには、他の生徒たちとは少し離れた空間があった。
「ここに誰かいた気がするの」
「誰が?」
「それが……思い出せない」
彼女は眉を寄せた。
「顔も名前も出てこない。でも、確かにいたと思う」
俺は彼女を見つめた。
初めてだった。
自分以外に、この違和感を覚えている人間がいた。
「少し話を聞かせてくれないか?」
「うん」
*
昼休み。
俺たちは人の少ない階段の踊り場にいた。
「いつから気になってたんだ?」
「少し前から」
「何かきっかけがあった?」
「夢を見たの」
「夢?」
「うん。知らない男の子が出てくる夢」
彼女は自分の手を見つめた。
「その子、私に何か話しかけていたんだけど、声が聞こえなかった」
「顔は?」
「ぼんやりしてた」
「それだけ?」
「ううん」
彼女は少し間を置いた。
「目が覚めたとき、すごく悲しかった」
「悲しかった?」
「理由は分からない。でも、誰か大切な人を忘れてしまったような気がしたの」
俺は黙って聞いていた。
「それから、教室の写真を見たの。そしたら、そこに誰かがいないことに気づいた」
「誰かが消えたことを覚えてるんだな」
「うん。でも……」
彼女は不安そうに俺を見た。
「神崎くん。私たち、何か忘れているんじゃないかな」
その言葉に、昨日のユナの声が重なった。
――誰かが消えたとき、周りの人はその人を忘れる。
――だけど、忘れたこと自体にも気づかない。
「俺もそう思う」
そう答えた。
彼女は少しだけ安心したように笑った。
*
午後の授業。
俺はノートを取りながら、先ほどの話を考えていた。
彼女も夢を見ている。
消えた誰かを覚えている。
だが、名前も顔も思い出せない。
もし、俺と同じように何かを覚えている人間が他にもいるなら。
消失事件の真相に近づけるかもしれない。
「神崎くん」
隣から声がした。
「ここ、先生が説明していましたよ」
「あ、悪い」
「大丈夫ですか?」
「ちょっと考え事」
「そうですか」
レイラは自分のノートを少しこちらに寄せた。
「よかったら、あとでノートを見せますね」
「ありがとう」
俺は彼女に礼を言った。
そのとき、レイラの手元にあるノートが目に入った。
そこには授業内容とは別に、小さな文字が書かれていた。
――記憶保持者、二名。
俺が視線を向けると、レイラはすぐにノートを閉じた。
「どうかしました?」
「いや、何でもない」
レイラは微笑んだ。
「そうですか」
*
放課後。
俺は先ほどの女子生徒と、もう一度話をすることにした。
しかし、教室に彼女の姿はなかった。
「なあ、さっきの子知らない?」
近くにいた男子に尋ねる。
「さっきの子?」
「ほら、窓際の席の……」
「誰?」
「いや、さっきまでここにいた女子だよ」
「お前、誰と話してたんだ?」
俺は言葉を失った。
周囲を見渡す。
彼女が座っていた席。
そこには誰もいなかった。
俺は机の上に置かれたプリントを見つけた。
名前の欄には、何も書かれていない。
まるで最初から誰も使っていなかったように。
「嘘だろ……」
俺は廊下に飛び出した。
階段を下り、昇降口へ向かう。
しかし、彼女の姿はどこにもなかった。
スマートフォンを取り出す。
連絡先を確認する。
そこにも、彼女の名前はない。
俺は今日、確かに彼女と話した。
夢のことも聞いた。
集合写真のことも。
なのに。
彼女の存在を証明できるものが何一つ残っていない。
そのとき、スマートフォンが震えた。
知らない番号からのメッセージだった。
『見つけてしまいましたね』
続けて、もう一通。
『次は、あなたの番です』
俺は画面を見つめた。
そして、最後の一文。
『最初に消えた人間を、思い出してはいけません』
*
夜。
部屋の窓際にユナが立っていた。
「レン」
「ユナ……」
「どうしたの? 怖い顔してる」
「今日、誰かが消えた」
ユナは何も言わなかった。
「俺と同じように、消えた人間のことを覚えていた人だ」
「そう」
「どうして、あの子まで消えたんだ?」
「……レン」
ユナは俺の隣に座った。
「この世界では、忘れられたものは、存在しなかったことになる」
「どういう意味だよ」
「記録も、記憶も、関係も。少しずつ消えていく」
「じゃあ、あの子は?」
「まだ完全には消えていないと思う」
「本当か?」
「うん」
ユナは俺の手を握った。
「だから、忘れないで」
「何を?」
「今日、あなたが会った女の子のこと」
俺は頷いた。
「忘れるもんか」
ユナは少しだけ笑った。
「そうだね」
そして、俺のノートを開いた。
最後のページ。
そこには、昨日と同じ文章が残っていた。
――最初に消えたのは、彼ではない。
ユナはその文字を見つめていた。
「レン」
「何?」
「この文章の意味が分かったとき、あなたはきっと後悔する」
「それでも知りたい」
ユナは静かに目を閉じた。
「……そっか」
*
深夜。
暗い部屋の中で、レイラは一冊の黒い本を開いていた。
黒の聖書。
そのページには、新しい文字が浮かび上がっている。
【記憶保持者:二名】
その下に、もう一つの表示。
【対象外個体:一名】
レイラはその文字を見つめた。
「やっぱり……」
彼女はページをめくる。
そこには、神崎レンの名前があった。
そして、その横には死亡予告の日付。
すでに過ぎた日付だった。
「あなたは、本来ここにいるはずのない人間なんです」
レイラは静かに本を閉じた。
「今度こそ、救ってみせます」
その声は、どこか悲しげだった。
彼女は机の上に置かれた写真を手に取る。
そこには、幼い頃のレンが写っていた。
その写真の隅には、もう一人。
顔の部分だけが、黒く塗りつぶされていた。
レイラは写真を裏返した。
そこには、短い文字が記されていた。
『最初の被験者』
彼女はしばらく、その文字を見つめていた。
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……まだ、覚えている人がいたんですね」
黒の聖書が、静かに閉じられた。




