第9話 棚
——それから数日。
朝、店へ入ったリゼットは、上着を脱ぎながらいつものように作業台へ目をやって――足を止めた。
「……何これ」
昨日まで何もなかった壁際に、細い棚が増えている。
三段。
一段目には小型の起動石や留め具。二段目には太さごとにまとめられた魔力線と、最近よく使う大きさの魔石。細かな部品は小箱に分けられ、手を伸ばせばすぐ取れるよう整然と並んでいた。三段目だけは何も置かれていない。
「おはよう」
奥からユアンが出てきた。
「おはようございます。じゃなくて」
リゼットは棚を指さす。
「これ」
「棚」
「見れば分かります」
「よかった」
「そういう話じゃありません。何で増えてるんですか?」
「置く場所なくなってたから」
言われて、作業台を見ると、工具に図面、預かった魔道具、交換用の部品があちこちに置かれている。最近は、ユアンが店の帳簿を広げるたび、自分のものを端へ寄せることも増えていた。
「だからって……」
リゼットは棚へ近づく。
起動石は大きさ順。魔力線は太さごと。小箱の位置も妙に使いやすい。
「……これ、私が使うものばっかりじゃないですか」
「そうだね」
あっさり認められた。
リゼットは振り返る。
「私が使う前提で用意したんですか?」
「え?」
ユアンがきょとんとする。
「だって、使うでしょ?」
「…………」
あまりにも当然のように言われて、一瞬、何を返せばいいのか分からなかった。
「……使いますけど」
「うん」
「だからって、勝手に――」
言いながら、視線が棚へ戻る。
かなり使いやすそうだ。しかも、見ていると少しわくわくする。それを悟られたくなくて、リゼットはできるだけ平静な顔を保った。
「……何?」
ユアンが少し覗き込んでくる。
「何でもありません」
「気に入らなかった?」
「そうじゃなくて」
言葉が見つからず、苦し紛れに口から出た。
「……こういうの、普通は一言聞きません?」
「棚置いていい? って?」
「そうです」
「聞いたら、いらないって言うでしょ」
「……言いますね」
「だから聞かなかった」
「……」
「でも使うでしょ?」
「…………使いますけど」
ユアンが満足そうに笑った。
「じゃあよかった」
「よくないです」
そう言いながら、リゼットは一段目の小箱を少しだけ右へずらした。その方が取りやすい。
「……何ですか」
「いや。もう自分仕様にしてるなあと思って」
「使いにくかっただけです!」
「はいはい」
妙に楽しそうな返事だった。
リゼットは棚に背を向け、上着を脱ぐ。
たかが棚だ。仕事で使うものを置く場所が、一つ増えただけ。
そう思うのに、なぜか少し落ち着かなかった。
——その日の午前中。
「リゼット、いる?」
入口のベルと同時に、靴屋のベルンが入ってきた。
「いますよ。ちょうどよかったです。直ってます」
数日前に預かった魔導灯を渡すと、ベルンはその場で起動石を押した。小さな灯りが灯る。
「おお」
「起動石が寿命だっただけです」
「助かった」
ベルンは代金を置いた。
以前なら、「部品代だけでいいです」と言っていたかもしれない。けれど今日は、ユアンと決めていた修理代をそのまま受け取る。
「ありがとうございます」
ベルンは頷き、帰り際に作業台の横へ目をやった。
「本格的になってきたな」
「違います」
反射的に答えてから、リゼットは口を閉じる。
――何が違うんだろう。
ベルンはただ、増えた棚のことを言っただけなのに。
「……何でもありません」
リゼットが、誤魔化すように小箱の向きを直すと、ベルンは首を傾けながら、それ以上聞かずに帰っていった。
その後ろ姿を見送っていると、背後から声がした。
「違うんだ?」
「……聞いてたんですか」
「店狭いからね」
「忘れてください」
「何を?」
「全部です」
ユアンは楽しそうに笑いながら、また帳簿へ視線を戻した。
——昼を過ぎたころ、今度はマルタがやってきた。
手には布の包みを抱えている。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は何ですか?」
「何って、買い物よ」
答えが妙に早い。
リゼットは目を細めた。
「……本当に?」
「何よ、その疑いの目」
「最近、皆さん何か持ってくるので」
「今日は塩と油だけ」
「ならいいです」
「ついでに一つ聞きたいことはあるけど」
「やっぱり」
マルタが笑った。
「直してほしいんじゃないわよ」
そう言って、カウンターへ置いた包みから、小さな木箱を取り出す。蓋を開けると、中には色とりどりの糸巻きが並んでいた。
「夜だと糸の色が分かりにくくてね。机の灯りを近づけると、自分の手で影になるでしょう?」
「ああ」
「だから箱の中に、小さい灯りをつけられないかなって」
「……箱の中に?」
「難しい?」
「いえ」
返事をしながら、もう頭の中では形を考え始めていた。
蓋の裏に細い発光石をつけ、開いたときに上から照らせればいい。でも、使うたびに起動石へ触れるのは面倒だ。
蓋を開けたら灯り、閉じたら消えるように――。
「……」
「リゼット?」
「はい」
「もう考えてるの?」
「考えてません」
「嘘」
リゼットはもう一度箱を見る。
「……置いていってください」
「あら」
「見るだけです」
言ってから、自分でも少し笑いそうになった。
マルタも同じだったらしい。
「まだそれ言うの?」
「言います」
「はいはい。じゃあ、見るだけお願いね」
塩と油を買い、マルタは木箱を残して帰っていった。
リゼットはそれを作業台へ運び、新しく増えた棚から小さな発光石を一つ取り出し、じっと見つめる。
「ユアン」
「なに?」
「これ、発光石って、昨日なかったですよね」
「今朝届いた」
「何で?」
「リゼットが使うかもと思ったから」
「…………」
「使うでしょ?」
「……使いますけど」
大きさもちょうどいい。
リゼットは作業台に座ると、向かいにいたユアンが紙を一枚抜いて差し出した。
「はい」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
受け取った紙を広げ、リゼットは図を描き始める。
蓋の角度、発光石の位置、開閉に合わせて起動する仕組み。
しばらく線を引いてから、ふと顔を上げた。
作業台の横には、自分が使うために揃えられた棚がある。
手を伸ばせば必要な部品が届く。
向かいではユアンが帳簿を書いている。
いつの間にか、ここでこうしていることが、当たり前になっていた。
——夕方。
試しに木箱の蓋を開けると、小さな光がともった。閉じれば消え、もう一度開けば、また灯る。中の糸巻きも、よく見える。
「……よし」
「できた?」
ユアンが聞いた。
「はい」
「早かったね」
「構造は単純なので」
「また簡単そうに言う」
「簡単です」
「僕には作れないけど」
「ユアンは作らなくていいんです」
「ま、リゼットがいるからね」
何気ない言葉だった。
それなのに、リゼットは手を止めた。
「……何ですか」
「何が?」
「いえ」
リゼットは何でもないふりをして、木箱へ視線を戻した。
——翌日。
マルタは完成した箱を開けたり閉めたりして、しばらく遊んでいた。
「……そんなに何回もやらなくても」
「面白いんだもの」
「遊ぶものじゃありません」
「便利ねえ、これ」
マルタは箱の中へ手を入れた。
「影もできない」
「蓋の内側から照らしてるので」
「最初からこういう箱を売ればいいのに」
「普通の人は、夜中まで裁縫しません」
「するわよ」
「マルタさんだけでは?」
「失礼ね」
二人で言い合っていると、奥でユアンが笑った。
マルタは箱を大事そうに包み直す。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「代金は?」
リゼットが金額を告げると、マルタは素直に払った。
今日はパンもジャムも置いていかなかった。
少しだけ安心した。
「じゃあね」
「はい」
入口のベルが鳴り、マルタが帰っていく。
リゼットは空になった作業台を片づけた。使った工具を戻し、余った魔力線を巻き直して棚へ収める。発光石の小箱も一段目へ。
気づけば、もうどこに何があるのか覚えていた。
「棚、使いやすい?」
ユアンに聞かれ、リゼットは少しだけ考える。
「……まあ」
「まあ?」
「かなり」
「よかった」
それだけ言って、ユアンは帳簿へ視線を戻した。
リゼットは棚を見る。
一段目には、よく使う細かな部品。
二段目には、魔石や魔力線。
三段目だけは、まだ空いている。
「ここ」
「ん?」
「三段目、何を置くつもりだったんですか」
ユアンが顔を上げた。
「別に決めてないよ」
「じゃあ、なんで空けてあるんです?」
「リゼットのものが増えるだろうから」
あまりにも当然のように言われ、リゼットは眉を寄せた。
「……勝手に私の場所を増やさないでください」
「ん?」
ユアンは本気で意味が分からないという顔をした。
「だって、この店はリゼットの場所でもあるでしょ」
あっさり言われた。
本当に、何でもないことみたいに。
自分のための棚がある。
自分が使う部品が補充される。
自分が使いやすいように並べられている。
そして、毎朝ここへ来て、ユアンの隣で働く。
明日も、その次の日も。
「これじゃあ、まるで……」
「まるで?」
ユアンが少し身を乗り出した。
目が合った。
「…………」
言葉が見つからない。
「……何でもないです!」
リゼットは勢いよく棚へ向き直った。
後ろで、ユアンが小さく笑った。
「何ですか」
「いや、リゼットもそのつもりなんだなと思って」
「どういう意味ですか」
「さあ?」
「さあ、じゃありません!」
ユアンは楽しそうに帳簿へ視線を落とした。
「まあ、使ってくれるならいいよ」
「……使いますけど」
「うん」
その返事が、妙に嬉しそうだった。
リゼットは返事の代わりに、手に持ったままだった魔力線を空いている三段目へ置いた。
ほんの一本。それでも、さっきまで空っぽだった場所に、自分のものが増えた。リゼットは赤くなった顔を隠すように棚へ向き直り、魔力線をさらに少しだけ奥へ整えた。




