第8話 乾燥器
三つだけ。
そう言った温熱器は、数日のうちに三つともなくなった。
最初にノラが一つ持って帰り、その翌日にはレナが。最後の一つは、レナの向かいに住むハンナの手に渡った。
追加で作るとは言っていない。
少なくとも、まだ。
それでも、温熱器の話が広まったせいか、これまでなら王都へ送られていた小さな魔道具たちが、少しずつ店へ持ち込まれるようになった。
「リゼット、いる?」
入口のベルと同時に声がした。
「いますけど」
顔を出すと、靴屋のベルンが古い魔導灯を抱えて立っていた。
ベルンは店から二軒先で靴屋をやっている無口な男だが、以前、雨の日にリゼットの靴底が剥がれたときには、何も言わずその場で直してくれたことがある。
「これ、ちょっと見てもらえないか」
「……見るだけですよ」
「それでいい」
別の日には、
「リゼットちゃん、これ変な音するんだけど」
「修理屋じゃないんですけど」
また別の日には、
「王都に送る前に、ちょっとだけ――」
「だから、見るだけです」
気づけば、その言葉にも以前ほど抵抗がなくなっていた。
——ある日の午後。
「リゼット、いるか?」
入口のベルが鳴り、入ってきたのはトーマだった。
町の外れで、ルシェラの花を乾燥させる小さな工房を営んでいる。ルシェラの花の特性は乾燥させても残るので、乾燥花のまま使うほか、粉末にして魔道具や術式へ組み込まれるのだ。
五十を少し過ぎたくらいの男で、いつも袖のどこかに青い粉をつけている。今日も右腕のあたりがうっすら青い。
「いますよ」
「ちょっと相談なんだが」
そう言って、トーマは抱えていた箱型の魔道具をカウンターへ置いた。
「……乾燥器?」
「そう。小さい方のな」
摘み取ったルシェラを乾かすときに使うものだ。
「壊れたんですか?」
「動く」
「じゃあ何が?」
「最近、こっち側だけ乾きすぎる」
トーマが右半分を指さした。
「花の色が悪くなるんだよ。使えないわけじゃないんだが、売り物だからな」
「なるほど」
リゼットは乾燥器を見る。
「新しいのに替えたら?」
帳簿をつけていたユアンが言うと、トーマが苦い顔をした。
「まだ動くもんを買い替えるのも馬鹿らしいだろ。それに今年はまだ乾かす分が残ってる。王都へ送ってたら間に合わん」
「それは、そうだね」
リゼットは無意識に乾燥器の側面へ手を置いた。
少し古い型だが、構造はそれほど複雑ではなさそうだ。
「……置いていきます?」
「いいのか?」
トーマが目を丸くする。
「見るだけです」
「おう」
ずいぶん嬉しそうな返事だった。
「直るとは言ってませんからね」
「分かってる分かってる」
本当に分かっているのだろうか。
トーマは乾燥器を置いて帰っていった。
——夕方。
客足が落ち着いたところで、リゼットは乾燥器の蓋を開いた。
調べると、右側へ流れる魔力量がほんの少し多い。長く使ううちに、内部の部品に微妙な差が出たのだろう。
「これなら調整すれば――」
言いかけて、リゼットは止まった。
右を弱くするだけなら簡単だ。
でも……左側も、少し無駄が多い。必要以上に魔力を流して、熱に変えている。
「……こんなに流さなくても足りる」
リゼットは紙を一枚引き寄せ、線を引く。
「リゼット」
「何ですか」
「夕飯どうする?」
「あとで」
「今日パンだけだったよね」
「食べましたよ」
「昼にね」
「……もうそんな時間ですか?」
顔を上げれば、窓の外はいつの間にか夕暮れになっていた。
ユアンが笑う。
「まただ」
「何がですか」
「夢中になると時間忘れる」
「……忘れてません」
「じゃあ今何時だと思ってた?」
答えられない。
「あと少しだけです」
「はいはい」
ユアンはそれ以上止めなかった。
調整を終え、試しに起動すると、左右の加熱板が、ほぼ同じ速さで温まり、しばらくすると、流れる魔力が自動的に落ちる。今までより、使う魔力も少ない。
「……よし」
「直った?」
ユアンが奥から出てきた。
手には二人分の簡単な夕食がある。
「たぶん」
「またそれ」
「トーマさんのルシェラで実際に試さないと分かりません」
「でも動いてるんでしょ?」
「はい」
ユアンは乾燥器を見て、それからリゼットを見た。
「楽しそうだったね」
「……何がですか」
「それ直してるとき」
リゼットは工具を箱へ戻した。
「普通です」
「そう?」
「そうです」
「温熱器作ってたときもそうだったけど」
「何が言いたいんですか」
ユアンは少しだけ考えるようにリゼットを見た。
「好きなんでしょ、魔道具」
手が止まった。
「……」
すぐには答えられなかった。嫌いになったと思っていた。
見たくもなかったし、触りたくもなかった。ずっと遠ざけてきた。
けれど、この町に来て、青い鳥を直し、冷却箱を直し、マルタの室内灯を直した。自分で温熱器まで作った。
そして今も、左右の温度が揃っただけで嬉しいし、少ない魔力で同じように動くと分かればもっと嬉しい。
「……昔は」
ようやく言葉が出た。
「うん」
「好きでした」
ユアンは何も言わずに待っている。
「たぶん、すごく」
口にしてみると、思っていたより苦しくなかった。
ユアンが少し首を傾げる。
「今は?」
「……」
答えようとして、言葉に詰まる。
分からない。
好きだと言ってしまったら、何かを認めることになる気がした。
戻るつもりなんてない。
あの頃に戻りたいわけでもない。
「分かりません」
「そっか」
リゼットは少し拍子抜けして、ユアンを見る。
「それだけですか?」
「何が?」
「もっと何か言うかと思ったので」
「例えば?」
「……好きならまたやればいい、とか」
「ああ」
ユアンは笑った。
「やりたいならやればいいんじゃない?」
「ほら」
「でも、やりたくないならやらなくてもいい」
リゼットは瞬いた。
「どっちですか」
「どっちでも」
「適当ですね」
「そう?」
ユアンは食事をカウンターへ置いた。
「一回やめたら、もう二度と好きになっちゃいけないなんて決まりもないでしょ」
リゼットは黙った。
「またやりたくなったらやればいいし、嫌になったらやめればいい」
「……簡単に言いますね」
「簡単じゃ駄目?」
「普通は、そんな簡単じゃありません」
「じゃあ簡単じゃなくていいよ」
あっさり返される。
「悩みながらやれば?」
「……」
「今みたいに」
ユアンは出来上がった乾燥器を指さした。
「直したくなったら直して。作りたくなったら作って。それでいいんじゃない?」
リゼットは乾燥器を見る。
頼まれたのは、左右の温度を揃えることだけだった。
なのに、魔力の無駄まで気になって、頼まれてもいないところまで手を入れた。
「……余計なことまでしました」
「みたいだね」
「頼まれたのは、左右の温度を揃えることだけだったのに」
「うん」
「魔力まで減らす必要なかったんです」
「うん」
ユアンが笑う。
「やっぱり好きなんじゃない?」
「…………」
今度は、すぐには否定できなかった。
——翌日。
トーマは乾燥器を引き取りに来た。
小さな籠に、摘んだばかりのルシェラも入っている。
「試してみてもいいですか?」
「ああ」
乾燥器に青い花を並べると、銀色の葉が何枚か混じっていた。トーマがそれを慣れた手つきで摘み取り、脇へよける。
リゼットは蓋を閉め、起動した。
しばらく待ってから、左右を確認する。
「どうだ?」
「同じくらいです」
トーマも覗き込み、
「おお」
と声を上げた。
「前より魔石の減りも少ないと思います」
「そこまで直したのか?」
「ついでです」
「ついででそんなこと出来んのか」
「できます」
答えてから、リゼットは自分でも少しおかしくなった。
以前ならきっと、「大したことじゃありません」と続けていただろう。
トーマは満足そうに乾燥器を抱えた。
「助かった。これで残りも乾かせる」
「しばらく使ってみて、左右で違いが出たらまた持ってきてください」
「ああ」
代金を置く。
今度はリゼットも素直に受け取った。
トーマは帰りかけて、ふと足を止めると、籠に残っていたルシェラを何輪か取り出し、カウンターへ置いた。
「これ、やるよ」
「いいんですか?」
「今日摘んだやつだ。飾るなり好きにしてくれ」
「ありがとうございます」
トーマが帰ったあと、リゼットは青い花を手に取った。
花弁の間から伸びる銀色の葉が、窓から差し込む光を受けてきらりと光る。
「花瓶、ありましたよね」
「奥にあるよ」
ユアンが小さな花瓶を出してくれたので、水を入れ、ルシェラを何輪か挿し、窓辺へ置く。
「いいですね」
「店がちょっと華やかになった」
「前が殺風景すぎたんですよ」
ユアンが眉を上げる。
「店主の前でひどくない?」
「事実です」
「手厳しいなあ」
リゼットは花瓶の向きを少しだけ整えた。
青い花と銀色の葉が、窓辺の光の中で静かに揺れていた。




