第5話 温熱器
——翌朝。
リゼットは店へ着くなり、作業台の引き出しを開けた。
昨日しまった紙は当然そこにある。二つ折りにした包み紙を開けば、自分で描いた小さな温熱器の図が出てきた。
「…………」
やっぱり、見なかったことにして引き出しを閉める。
上着を脱ぎ、棚を拭く。昨日届いた砂糖を並べていると、
「リゼット」
「何ですか」
「そこ、砂糖じゃなくて塩」
手元を見る。
塩の棚に砂糖を置こうとしていた。
「……袋が似てるので」
「中身はだいぶ違うけどね」
ユアンが笑う。
リゼットは無言で砂糖を正しい棚へ移した。
それからは、いつも通りだった。
客が来れば商品を包み、注文を受け、倉庫から品物を出す。
——昼前になると、入口のベルが鳴った。
「おう」
低い声とともに、青果店のダリオが入ってくる。
相変わらず、黙って立っているだけだと少し怖い。
「散水器、直ってますよ」
「直ったのか」
「制御石が少しずれていただけでした。もう水が出っぱなしになることはないと思います」
「そうか」
ダリオは散水器を受け取り、しげしげと眺めた。
「念のため何日か使ってみてください。またおかしかったら――」
言い終わる前に、ダリオがカウンターへ硬貨を置いた。
「いりません」
リゼットがすぐに押し戻す。
「部品も使ってませんし、大した修理じゃないですから」
「こんな小娘を無償で働かせられるか」
「小娘って……」
「受け取っとけ」
「だから、いりませんって」
「小娘が気ぃ遣うな」
「気を遣ってるのはどっちですか」
ダリオは答えず、硬貨も引っ込めない。それどころか、紙袋を一つ、どん、とカウンターへ置いた。
「……これは?」
「傷物だ」
中には真っ赤な林檎が三つ入っていた。
どう見ても傷などない。
「ダリオさん」
「内緒だぞ」
「声、大きいです」
「じゃあな」
「ちょっと、お金も林檎も――」
聞く気はないらしい。ダリオは散水器を小脇に抱え、さっさと店を出ていった。入口のベルが、ちりんと鳴る。
リゼットは残された硬貨と林檎を見比べた。
「……頑固」
「リゼットが言う?」
「ユアンは黙っててください」
横から紙袋を覗こうとしたユアンの額を、林檎で軽く押し返す。
「一個くらい」
「駄目です」
「まだ何も言ってないのに」
「顔に書いてあります」
最近、こういうのが多い。
マルタからもらったパンと苺のジャムは、結局ユアンと半分ずつ食べた。
ミナは母親と一緒にもう一度店へ来て、青い鳥と女の人が描かれた絵を置いていった。上には少し歪んだ文字で、『りぜっとおねえちゃん ありがとう』と書かれていた。今もその絵は、作業台の脇に貼ってある。
そして今朝は、エダまで籠いっぱいの卵を抱えて現れた。『こんなにいりません』そう言ったリゼットに、エダは平然と『うちの鶏が勝手に産んだんだから、あたしのお礼じゃないよ』と言った。『じゃあ鶏に返してください』『あたしに言わないで、鶏に言っとくれ』どう考えても無理である。結局、卵も店の奥に置かれている。
修理代はいらないと言っているのに、誰一人として素直に引き下がってくれない。
リゼットは林檎の袋を抱え、ため息をついた。
でも、嫌ではなかった。
——昼を少し過ぎたころ。
入口のベルが鳴り、昨日温熱器を受け取ったばかりのエダが顔を出した。
「エダさん。もう卵なら十分ですよ」
「あら、今日は何も持ってきてないよ」
「……よかった」
「そんな露骨に安心しなくてもいいじゃないか」
エダが笑う。
「温熱器、何かありましたか?」
「違う違う。あれはちゃんと使えてるよ。昨日の夜も使ったけど、指一本でつくってだけでずいぶん楽だったねえ」
そう言って、エダは嬉しそうに右手を振った。
「それならよかったです」
「それでさ、隣のレナにも見せたんだよ」
「レナさんに?」
リゼットの頭に、丸眼鏡の向こうでいつも楽しそうに笑う女性の顔が浮かんだ。
レナの家へ配達に行くと、大抵そのままでは帰してもらえない。
『せっかく来たんだから、お茶くらい飲んでいきなさい』
『仕事中です』
『じゃあ三分だけ』
その三分が三十分になったことは、一度や二度ではない。
最近ではリゼットも諦めて、レナの家への配達だけは少し時間に余裕を持って出るようになった。
「レナさんも、温熱器が使いにくいんですか?」
「そうなの。あの子のは新しいんだけど、起動石が小さいだろう?夜になると、どこを触ればいいのか分かりにくいんだって」
「ああ……」
リゼットにも覚えがある。レナは昼間でも、細かな文字を読むときには丸眼鏡を鼻先まで下げている。
「エダさんと同じように変えれば――」
言いかけて、止まる。
同じでは駄目だ。
エダは指に力が入りにくい。
レナは見えにくい。
必要なのは大きな起動石かもしれない。けれど、ただ大きくするだけでいいのだろうか。暗い寝室なら、目で探すより、手探りでも場所が分かる方がいい。
「……表面の形を変えた方がいいかも」
「形?」
「あ、いえ」
エダが首を傾げる。
「レナさんの温熱器、今度見せてもらってもいいですか?」
「もちろん。言っとくよ」
「あ、まだできるとは――」
「分かってる分かってる。見るだけだろ?」
先に言われた。
リゼットは口を閉じる。
エダは楽しそうに笑いながら帰っていった。
「見るだけ、ね」
帳簿をつけていたユアンが呟いた。
「何ですか」
「何も?」
リゼットはカウンターへ戻ったものの、少し迷った末に、作業台の引き出しを開け、昨日の紙を取り出した。二つ折りを開くと、やっぱり小さな温熱器の図。
「今売ってる温熱器って、いくらですか?」
「新品?」
「はい」
ユアンが帳簿をめくる。
「大きさによるけど、普通のならこのくらい」
示された数字を見て、リゼットは眉を寄せた。
「高いですね」
「魔石が大きいからね」
「こんなに要らないのに」
「そうなの?」
「一晩中、高い温度を保つ前提なんです。足元を温めるだけなら、ずっと同じ出力にする必要はありません」
紙に線を書き足す。
「最初だけ強くして、温まったら弱くする。そうすれば魔石を小さくできる」
「小さくすると安くなる?」
「なります。たぶん」
「また、たぶん」
「計算してみないと分かりません」
起動石はどうしようか。エダのように力が入りにくい人なら、軽い力で押せるもの。レナのように見えにくい人なら、暗い場所でも手探りで見つけられるもの。色だけでは意味がない。触った瞬間に場所が分かるよう、表面に凹凸をつけたらどうだろう。
「ここを少し大きくして……」
紙へ線を書き足していると、肩越しに影が落ちた。
ユアンが後ろから図を覗き込んでいる。
「どれ?」
「見ても分からないでしょう」
「説明してくれたら分かるかもしれない」
「さっき全然分からないって――」
振り返って、言葉が止まった。
思っていたより、近い。
柔らかな金髪が、頬に触れそうだった。
目が合う。
「……近いです」
ユアンが、ほんの少し笑った。
「……え?」
その瞬間、ユアンは何事もなかったように一歩離れた。
「ごめんごめん、夢中になってたから、つい」
「私が?」
「うん。さっきから全然こっち見ないし」
「作業中ですから」
「知ってる。楽しそうだなと思って」
「…………」
「何?」
「別に楽しいわけでは……」
「そう?」
「そうです」
リゼットは紙へ視線を戻す。
さっきまで迷わず引けていた線の続きを、完全に見失っていた。
「……どこまで描いたっけ」
「そこじゃない?」
「分かるんですか?」
「今見てたからね」
「図を?」
「さあ?」
リゼットが振り返ったころには、ユアンはもう何でもない顔で帳簿を開いていた。
「…………」
なぜか、さっきより少しだけペンを持つ手が落ち着かない。
それでも、起動石、魔石、温度制御と順に考えていくうちに、すぐまた目の前の図へ意識が戻っていった。魔石は小さく、温度は二段階。起動石は手探りでも場所が分かる形にして、片手でも使いやすい位置へ置き、できるだけ単純にする。
複雑にすれば、壊れる場所が増える。どこか一つが駄目になっても、他まで巻き込まない方がいい。
「……ここは分けておいた方がいい」
小さく呟いた瞬間、別の光景が一瞬だけ頭をよぎった。
幾重にも重なる魔力線。
大きな回路。
赤い警告灯。
遠くで響く声。
――足りません。
リゼットの指が止まった。
目の前にあるのは、小さな温熱器の図だけだ。
ゆっくり息を吐く。
「リゼット?」
「何でもありません」
「そっか」
ユアンはそれ以上聞かなかった。
リゼットはペンを置いた。
「今日はここまでにします」
紙を畳もうとして――手を止める。
「……やっぱり、もう少しだけ」
ユアンが笑った気配がしたが、今度は無視した。
——閉店後。
作業台には、小さな魔石と起動石、魔力線、それから薄い石板が並んでいた。
「帰らないの?」
店の戸締まりをしながら、ユアンが聞く。
「もう少しだけ」
「何するの?」
「試します」
「何を?」
「これが、本当に動くかどうか」
紙の上の図を指差すと、ユアンが目を瞬いた。
「作るの?」
その言葉に、リゼットは一瞬だけ黙った。
「……試すだけです」
材料は、ほとんどユアンの店にある普通のものだった。小さな魔石に交換用の起動石、魔力線。特別な部品は使わない。
この町で壊れても、同じものが手に入るように。
最初の試作品は失敗した。
「熱っ」
思ったより温度が上がり、リゼットは慌てて起動石から手を離した。
「大丈夫?」
「大丈夫です」
夜中、寒くて目を覚ましたときでも、眠いまま迷わず使えるように。そんなことを一つずつ考えているうちに、作業台の上は部品だらけになっていた。
王都にいた頃は、大きな仕事に追われて、こんな小さな工夫に夢中になる余裕はなかった。けれどもっと昔には、少し変えればどうなるだろう、こっちの方が使いやすいんじゃないか――そんなことを考えるだけで、時間を忘れた頃もあった。
ふいに、昔の声が蘇る。
『お前、作ってるときだけ機嫌いいな』
『だけって何ですか』
『さっき教官に怒られてたくせに、もう忘れてるだろ』
『忘れてません。今忙しいんです』
『そういうとこだよ』
リゼットの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
ずいぶん昔のことなのに、どうして今、思い出したのだろう。
「……ここをもう少し」
回路へ目を戻し、線を変える。起動石の位置も気に入らず、何度も移し、触れば分かるよう表面に小さな溝をつけた。
「……できた」
思わず声が漏れた。
「おめでとう」
背後から声がして、リゼットは肩を跳ねさせた。
「まだいたんですか」
「僕の店だからね」
ユアンは湯気の立つカップを二つ持っていた。
「はい」
一つを差し出される。
「ありがとうございます」
受け取ったカップは温かかった。
窓の外を見れば、いつの間にか通りはすっかり暗くなっている。
「……こんな時間」
「だから言ったのに」
「すみません」
「別にいいよ」
ユアンは出来上がった温熱器を覗き込んだ。
「材料費は?」
「え?」
「これ一つ作るのに、どのくらいかかった?」
机の上の部品を見る。
ざっと計算し、紙の端に数字を書く。
「……これくらいです」
「安いね。売ったらど――」
「売りませんよ」
「早いなあ」
「何を言うか分かったので」
「最後まで聞いてから断ってくれてもよくない?」
「結果は同じです」
「手厳しい」
ユアンは笑って、それ以上は言わなかった。
リゼットはカップを両手で包みながら、作業台の上を見る。
少し不格好な、小さな温熱器。
エダが楽に使えて、レナが暗いところでも迷わないように。そんなことを一つずつ考えて、最初から作った。完成したばかりなのに、もう少し軽くできないか、もっと使いやすくできないかと、頭の中では次を考え始めている。
その感覚を、リゼットは長いこと忘れていた。
「……悪くないかも」
「何が?」
「何でもありません」
やっぱり、ユアンはそれ以上聞かなかった。
代わりに、自分のカップを空にして立ち上がる。
「じゃあ、片づけたら送るよ」
リゼットは顔を上げた。
「今日も五分だから大丈夫、は通用しませんか」
「学習したね」
ユアンは笑って、店の灯りを一つ消した。
リゼットはもう一度、小さな温熱器を見る。
「……悪くない」
それが出来た温熱器のことなのか。
久しぶりに夢中になれた、この時間のことなのか。
リゼット自身にも、まだよく分からなかった。




