第4話 散水器
——それから数日。
朝、店に入ったリゼットは、カウンターの端を見て足を止めた。
昨日まではなかったはずの、小さな魔道具が置かれている。
「……なにこれ?」
「青果店のダリオさんの」
棚の在庫を数えていたユアンが、何でもないことのように答えた。
リゼットは上着を脱ぐ前に、それを持ち上げた。
水を入れた容器につないで使う、小型の散水器だ。青果店では葉物野菜が乾かないよう、一定の間隔で細かな霧を吹きかけるために使われている。
「壊れたんですか?」
「水は出るんだけど、最近ずっと出っぱなしになるんだって」
「それは困りますね」
青果店の店先で、野菜がびしょ濡れになっている光景が頭に浮かぶ。
「王都に送るかって聞いたんだけどね」
「何て?」
ユアンは少し声を低くして、ダリオの真似をした。
「『見るだけでいい』」
「…………」
最近、その言葉に弱い。
「直るとは限りませんからね」
「そう言ってある」
「部品がなかったら無理です」
「それも」
「古すぎるものも――」
「それも言ったよ」
先回りされて、とうとう言うことがなくなった。
ユアンが得意そうに笑う。
「ちゃんと店主やってるでしょ」
「こういうときだけ」
「評価が厳しいなあ」
リゼットはため息をつき、改めて散水器を見る。
「……ダリオさんか」
名前を口にすると、厳つい顔が頭に浮かんだ。
太い眉に低い声。腕を組んで店先に立っているだけなら、初めて見る子どもは少し怖がるかもしれない。
けれど、リゼットがこの町へ来たばかりのころ、
青果店で人参を二本と玉葱を三つ買ったら、ダリオは会計を終えた袋へ勝手に林檎を二つ放り込んだ。
『ちょっと。これ、頼んでませんけど』
『傷物だ。売れん』
どう見ても傷などなかった。
返そうとしたリゼットに、ダリオは辺りを見回してから声を潜めた。
『内緒だぞ』
その声が、通りの向こうまで聞こえそうなくらい大きかった。
案の定、隣の店から、
『ダリオ! 全然内緒になってないよ!』
と笑い声が飛んできた。
それ以来、青果店へ行くたび、なぜか袋の中身が一つか二つ増える。
『今日は多くないですか』
『仕入れすぎた』
『昨日も同じこと言ってましたよね』
『気のせいだ』
強面のくせに、人に頼まれると滅多に断れない。
そういう人だ。
リゼットは散水器をカウンターへ戻した。
見るだけ。
本当に、見るだけだ。
そう思いながら上着を脱いだ。
午前中は客が多く、散水器に触れる暇はなかった。豆を量り、石鹸を包み、注文された布を倉庫から出す。
昼を過ぎて客足が落ち着いたころ、ようやくリゼットは散水器を作業台へ運んだ。
水を通す管に詰まりはない。
噴出口にも問題はなさそうだ。
「……こっちか」
底蓋を外す。
中を確かめると、霧を出す間隔を調整する小さな制御石が、本来の位置からわずかにずれていた。これでは、制御がうまく伝わらない。
「無理そう?」
帳簿を書いていたユアンが尋ねる。
「逆です。位置がずれてるだけ」
「じゃあ直る?」
「たぶん」
「その言い方、すっかり定番になったね」
「確実じゃないことを確実みたいに言わないだけです」
リゼットは、留め具を緩め、制御石を正しい位置へ戻す。念のため魔力線にも異常がないことを確かめ、蓋を閉じた。
水を入れた器につないで起動すると、しゅっと細かな霧が広がる。しばらくすると止まり、少し間を置いて、もう一度。
「……大丈夫そうですね」
「早い」
「こんなものです」
作業台の端へ散水器を置く。
直った。
本当に、ただ位置を戻しただけだ。
それでもダリオの店でまた普通に使えるなら、その方がいい。
工具を片づけようとしたところで、入口のベルが鳴った。
「あら、いたいた」
入ってきたのは、小柄なお婆さんだった。
「こんにちは、エダさん」
ユアンが声をかける。
「ああ、こんにちは。砂糖をひと袋と、石鹸を二つおくれ」
エダは七十をとうに過ぎている。
店にはよく来るし、買ったものが多い日は、ユアンが家まで荷物を運ぶこともある。
ユアンが砂糖を包んでいる間、エダは店内を見回し、作業台の上で目を止めた。
「あら。それ、魔道具かい?」
「ええ」
「リゼットが直してるって、本当だったんだねえ」
まただ。
リゼットは思わずユアンを見る。
「僕じゃないよ」
「何も言ってません」
「顔に書いてあった」
エダが楽しそうに笑った。
「町中で聞くよ。マルタなんて、室内灯が直ったって会う人会う人に話してるもの」
「大げさなんですよ……」
「本人にとっちゃ大事なものだったんだろ」
そう言われると、返す言葉がない。
エダは作業台の散水器を眺めていたが、やがて「あ」と声を上げた。
「そうだ。うちにも一つあるんだけど、見てもらえないかねえ。」
「……何ですか?」
「足を温めるやつ」
「温熱器?」
「そうそう、それそれ」
冬になると布に包み、足元へ入れて使う小型の生活魔道具だ。
「壊れたんですか?」
「いや、ちゃんと温まるよ」
「じゃあ、何を?」
エダは少し困ったように笑い、右手を開いたり閉じたりした。
「起動するところが固くてねえ。最近、指に力が入らなくなってきてさ。両手でぎゅっと押せばつくんだけど、毎晩となるとちょっと面倒で」
「新しいものに替えたらどう?」
砂糖を渡しながら、ユアンが言う。
「それも考えたんだけど、高いだろう?」
「今の型だと、それなりには」
「まだ使えるものを捨てるのも、もったいないしねえ」
エダは笑った。
「まあ、無理ならいいんだよ。両手で押せば使えるんだから。ただ、本格的に寒くなる前にもう少し楽になったら助かるなと思ってね」
リゼットは、その右手を見る。
節の少し曲がった指。
長く働いてきた手だった。
「……一度、持ってきてもらえますか」
「いいのかい?」
「見るだけです」
エダが嬉しそうに頷く。
「じゃあ明日持ってくるよ。ありがとね」
「まだ何もしてません」
「見てくれるだけでもありがたいさ」
砂糖と石鹸を抱え、エダは店を出ていった。
入口のベルが、ちりんと鳴った。
——翌日。
エダが、早速、温熱器を持ってきた。
平たい石板を厚手の布で覆った古い型で、端には大きめの起動石がついている。
試しに押してみると、確かにかなり固い。古い型なので、もともと今のものより強く押し込む仕組みになっているうえ、長く使ううちに内部の動きも鈍くなっているのだろう。壊れてはいないが、今のエダには使いにくい。
リゼットは裏蓋を開いた。
起動石、魔力線、温度を一定に保つための簡単な回路。構造自体は難しくないが、今の起動石に取り替えるには、規格が違う。
それなら――。
「小さい起動石、もう一つ使っていいですか?」
ユアンが棚から顔を上げる。
「いいよ。どのくらい?」
「一番小さいので」
「奥の二番目の引き出し」
言われた場所を開くと、交換用の起動石が大きさごとにいくつか並んでいた。リゼットは一番小さなものを取り出す。
これを今の起動部へ繋げば、元の石を無理に外す必要はない。軽く押すだけで起動できる経路を、もう一本足せばいい。
新しい起動石を右側へ置きかけて、手を止めた。
「……ここじゃ駄目」
右側では、エダの動きにくい手で押すことになる。温熱器を置いたままでも、左手を伸ばせば届く場所。
「こっち」
位置を決め、小さな起動石を固定して魔力線を繋ぐ。指先で軽く押すと、石板がゆっくり温まり始め、もう一度軽く押すと止まった。
「……よし」
顔を上げると、窓から差し込む光がずいぶん傾いていた。
「リゼット」
「何ですか」
「お昼」
「……え?」
「もうだいぶ過ぎてる」
壁の時計を見る。
思っていたより、ずっと時間が経っていた。
「さっき声かけたんだけど」
「聞こえませんでした」
「だろうね」
ユアンは笑いながら、包んであったパンを一つ差し出した。
「先に食べればよかったのに」
「一人で食べるより、二人で食べた方が美味しいでしょ」
リゼットはパンを受け取り、もう一度温熱器を見た。
壊れたものを直したわけではない。
エダが使いやすいように、ほんの少し変えただけだ。
それなのに、いつもの修理とは違う感覚が残っていた。
午後、エダが受け取りに来た。
「どうだった?」
「壊れてはいませんでした」
「あら。じゃあ、やっぱりこのまま使うしかないかねえ」
「いえ。ここを押してみてください」
リゼットは新しく取り付けた、小さな起動石を指さした。
エダが恐る恐る左手を伸ばす。指先で軽く石を押すと、淡い光が走り、温熱器がゆっくりと温まり始めた。
「……あら」
エダが目を丸くした。
もう一度押す。今度は止まった。
「こんなに軽くでいいの?」
「はい。指先で少し押せば大丈夫です」
「まあ」
もう一度、つける。消す。
エダの顔がどんどん明るくなっていく。
「これなら楽だわ」
「右手を使わなくても届く場所につけてありますから」
「あらまあ」
エダは温熱器をそっと撫でた。
「これで今年の冬は楽になるわねえ」
その手を見て、リゼットも少しだけ口元を緩めた。
「ありがとう、リゼット」
「……どういたしまして」
今度は、素直にそう言えた。
——夕方。
エダが帰ったあと、リゼットは作業台を片づけていた。
余った魔力線を巻き直し、工具を箱へ戻す。
使わなかった部品を引き出しへ戻そうとして、ふと手が止まった。
あの起動石。
もう少し小さくてもよかったかもしれない。
そもそも、最初から軽く押すだけで使えるようにすれば、後から付け足す必要もない。温度も一つではなく、二段階くらい選べた方が便利だろう。石板だって、あそこまで重くなくていい。
持ち運ぶなら、もう少し薄くして――。
気づけばリゼットは、カウンターに置かれていた包み紙を一枚引き寄せていた。ペンを取る。
四角い石板。
その横に、小さな起動石。
魔石の位置と、魔力線の通し方。
そこまで描いたところで、はっと手が止まった。
「…………」
何をしているのだろう。これは修理ではない。壊れたものを元に戻しているわけでもない。まだ存在しないものの形を、考えている。
リゼットは紙を裏返した。
そのまま捨てようとして――やめた。
もう一度、表に返す。
そこには、小さな温熱器の絵が残っていた。
ないなら。
作ればいい。
昔なら、何の迷いもなくそう考えた。
ずっと、自分にはもう関係のない言葉だと思っていたのに。
リゼットはしばらく紙を見つめたあと、そっと二つ折りにした。
そして捨てずに、作業台の引き出しへしまった。




