第32話 再び
馬車を降りたところで、聞き慣れた声がした。
「リゼット」
少し離れた場所に、アーヴィンが立っていた。深い藍色の髪。旅の外套ではなく、王都で働いていた頃に見慣れた服装だった。
「アーヴィン。どうしてここに?」
「迎えに来た」
「それは見れば分かります」
「なら聞くな」
「そういう意味じゃなくて!」
変わらない。そのことに少し安心した。一歩そちらへ進みかけて、リゼットは自分の手を見た。
まだ、ユアンと繋いでいる。
「……ユアン、手」
「ああ」
指がほどけた。掌が急に冷えて、リゼットは自分の手を一度だけ握る。顔を上げると、アーヴィンがじっとこちらを見ていた。
「何ですか」
「付き合ってるのか」
「えっ!?」
声が裏返った。
「何でそうなるんですか!」
「手、繋いでただろ」
「それは、ちょっと……事情が」
王都へ入るのが怖くなって、自分から握った。そう説明するのは、何となく恥ずかしかった。
「と、とにかく、違います!」
アーヴィンがユアンを見る。
「だそうだが」
「うん」
ユアンはいつもの顔で笑った。
「まだね」
「…………は?」
リゼットは勢いよく振り返った。
「今、何て?」
「まだ」
「だから、その『まだ』って何ですか!」
「そのままだけど」
王都に着いて早々、どうしてこんなことになったのか。さっきまでの緊張とは別の理由で、顔が熱かった。
「宿! 宿に行きましょう!」
「俺が案内する」
「お願いします!」
リゼットは鞄を持ち直し、二人に背を向けた。その後ろで、アーヴィンが低く言う。
「随分、余裕だな」
「そう見えます?」
ユアンの声は笑っていた。
◇
宿は文書院から歩いて十分ほどの、静かな通りにあった。受付で名前を告げると、鍵が二つ出てくる。
「隣の部屋だ」
アーヴィンが言った。
「ありがとうございます」
ユアンも自分の鍵を受け取り、礼を言う。
「明日は八時半に迎えに来る。文書院は九時からだ」
「まず旧設計ですか?」
「ああ。拡張の記録も、年代順に出してもらう」
「助かります」
話しているうちに、頭が明日の資料へ向かっていく。アーヴィンが口元を緩めた。
「楽しそうだな」
リゼットは少し止まり、それから頷く。
「はい。すごく楽しみです」
「よかった」
ユアンの声に振り向くと、いつもの笑顔があった。リゼットも、少し笑った。
◇
荷物を置いたあと、三人で夕食へ出た。アーヴィンが選んだのは、学院の近くにある小さな食堂だった。扉を開けた瞬間、リゼットは足を止める。
「……ここ、まだあったんですね」
「ああ」
奥の席。壁の時計。少し傾いた照明。ほとんど変わっていない。
「よく来てたの?」
ユアンが聞いた。
「はい。課題で遅くなると、ここくらいしか開いてなくて」
「例の雪景球の頃も?」
「そうです」
アーヴィンが奥の席へ向かいながら言う。
「お前、いつも煮込みと黒パンだったな」
「そんなことないです」
「あと、林檎の焼き菓子」
「……よく覚えてますね」
「毎回同じものを頼んでたからな」
リゼットは献立へ目を落とした。久しぶりなのだから、別のものにしてもいい。そう思ったのに、結局同じところで目が止まった。向かいでアーヴィンが笑う。
「ほら」
「まだ決めてません」
ユアンが隣の椅子へ手をかけた。
「焼き菓子、頼む?」
「……はい。久しぶりなので」
「そっか」
リゼットはユアンの横の椅子を引いた。彼の目が一瞬だけ動く。それから、何も言わずに椅子を少し引いてくれた。
◇
煮込みは、昔と同じ味がした。一口食べただけで、自然に笑みがこぼれる。
「変わってないですね」
「ああ」
「昔、ここで図面を広げて、ご主人に怒られたことがあるんです」
アーヴィンが顔を上げた。
「机一面に広げて、料理を置く場所もなかったからな」
「途中からアーヴィンの図面もあったでしょう」
「あれは、お前が比較したいと言うから」
思い出して、リゼットは笑った。学院の話をしている。苦しくならずに、こんなふうに笑えることに、自分でも少し驚いていた。
ユアンは相槌を打ちながら、二人の話を聞いている。昔のリゼットを知りたいと思っていた。どんな場所で、何を作り、どう笑っていたのか。
けれど、彼女が言い終わる前にアーヴィンが続きを知っている。その当たり前のやり取りを見るのは、思っていたより落ち着かなかった。
「ユアン?」
「ん?」
「静かですね」
「そう? でもちゃんと聞いてたよ」
笑って答える。リゼットは少しだけ目を瞬き、それから焼き菓子の皿をこちらへ寄せた。
「これ、少し食べます?」
「いいの?」
「おいしいので」
一切れ取ると、リゼットが感想を待つようにこちらを見る。
「うん。おいしい」
「でしょう?」
その笑顔を見て、ユアンは少しだけ肩の力を抜いた。
◇
食堂を出たところで、アーヴィンとは別れた。
「じゃあ、明日」
「はい。お願いします」
リゼットが手を振る。アーヴィンの背中が遠ざかり、ユアンと二人になると、急に静かになった気がした。
「あの、ごめんなさい。私たちばかり話してましたよね」
「いいよ。聞きたかったし」
ユアンは少し考えてから続けた。
「また、リゼットの昔の話を聞かせてよ。今日、聞けなかったことも」
「面白いか分かりませんよ」
「それは聞いてから決める」
リゼットも、少し笑った。
「分かりました」
宿へ向かう通りは、人が多かった。荷車を避けようとして身体が離れかけたとき、ユアンが手を差し出した。
祭りの日も、王都へ入る前も、握った手だった。
「……宿までですよ」
自分から重ねると、ユアンはただ頷いた。
今度は、怖かったからだけではない。そのことには、まだ名前をつけなかった。




