第31話 王都へ
アーヴィンから返事が届いたのは、それから数日後だった。
『希望の日程で手配した。
文書院は到着の翌日から閲覧できる。学院の資料も確認しておく。
同行者も入館申請をする。身分証を持たせろ。
宿も二部屋押さえておく。』
リゼットは顔を上げた。
「ユアン、身分証あります?」
カウンターで帳簿をつけていたユアンが、少し目を瞬いた。
「あるよ」
「入館の手続きで要るそうです」
「分かった。忘れないようにしないとね」
リゼットは手紙へ視線を戻した。王都へ行く。不安がないわけではない。けれど今は、見たい資料のことも、持っていく写しのことも同じように頭に浮かんだ。
手紙を畳み、ユアンの帳簿の横へ置く。
「日程、決まりました」
◇
出発までの数日は、思っていたより忙しかった。リゼットは預かっていた修理品を仕上げ、持ち主へ渡した。ユアンは先の注文を確かめ、配達を済ませ、仕入れ先へ休業期間を知らせる。
不在中の生鮮品の納品は止め、日用品の便は帰着後に回してもらうことになった。店先には早めに休業の知らせを出し、再開予定日も添えてある。
『来週、一週間ほど休みます。』
それを見て、マルタが店へ入ってきた。
「聞いたわよ。二人で王都へ行くんですって?」
「調べ物です」
「まだ何も言ってないでしょう」
リゼットは口を閉じた。横でユアンが笑う。
「留守の間、予定外の荷物が来たら、受け取りだけ頼んでもいい?」
「いいわよ。うちの店へ持ってくるよう言っといて」
「ありがとう」
「それで、宿は?」
「別の部屋です!」
反射的に答えてしまった。マルタがにんまり笑う。
「どこの宿か聞こうと思ったんだけど」
「…………」
ユアンがとうとう吹き出した。
「笑わないでください!」
「ごめん、無理」
出発前日まで、町はいつも通りだった。トーマは「王都の菓子、何か買ってこい」と言い、ノラは道中で食べられるようにと小さな包みをくれた。エダは馬車が冷えるからと膝掛けを貸してくれた。
ただ一週間、離れるだけ。それなのに、帰ってくるのを待っていてもらえることが、なんだか心強かった。
◇
出発の朝、店の戸締まりを終えたユアンが貼り紙を確かめていた。
『二人で王都です』
休業の知らせの下に、マルタの字が増えている。
「……これ、必要あります?」
「もうみんな知ってるけどね」
言われて、リゼットは昨日の店内を思い出した。会う人ごとに、王都の話を聞かれたのだった。小さく息を吐き、鞄を持ち直す。
ユアンが表の鍵を回した。自分の鍵はポケットにある。留守の間に使うことはないのに、確かめると少し安心した。
「行こうか」
「はい」
町の入口へ向かう。鞄は、ここへ来たときよりずっと軽かった。
◇
乗合馬車は、畑の間をゆっくり進んだ。途中の宿場町で一泊し、翌日の夕方には王都へ着く予定だった。
「今夜は次の宿場で降りるよ」
ユアンが言った。
「もう一つ先まで行けるんじゃないですか?」
「行けるけど、着くのが遅くなるから。次の町の宿を予約してある」
「いつの間に」
「出発の日が決まってからね」
「……準備いいですね」
「野宿したい?」
「嫌です」
「じゃあよかった」
リゼットは窓の外から、ユアンの横顔へ視線を移した。道にも宿にも、妙に詳しい。
「王都、何回くらい行ったことがあるんですか」
「何回だろ。昔は何度か通ったけど」
それ以上は言わない。柔らかな金色の髪に、いつもの人懐っこい笑顔。見慣れた顔なのに、知らないところがある。
「ユアンって、本当に何者なんですか」
「雑貨屋さん」
「絶対それだけじゃないでしょう」
「今はそれだけだよ」
今は。その言葉に少しだけ思いを巡らせたが、問い直す代わりに膝の上の鞄を置き直した。
「……まあ、いいです」
「聞かないの?」
「ユアンも、私に聞かなかったので」
ユアンの表情が、一瞬止まった。
「言いたくなったら言ってください。それまで待ちます」
しばらく車輪の音だけが続いた。やがてユアンが、少し困ったように笑う。
「それ、ずるいな」
「お互い様です」
「そっか」
馬車が揺れた。隣で、ユアンが小さく言う。
「いつか話すよ」
リゼットは頷いた。
「はい」
◇
宿場町では、ユアンが迷わず一軒の宿へ向かった。受付で予約を告げ、二部屋分の鍵を受け取る。旅の荷物を扱う手つきも、翌朝の便を確かめる話し方も、普段の店とは少し違って見えた。
「何?」
階段で振り返られ、リゼットは首を振った。
「旅慣れてるなと思って」
「それなりには」
「雑貨屋さんなのに」
「雑貨屋になる前も生きてたからね」
また、さらりとかわされた。けれど、先ほどほど気にはならなかった。
◇
翌日の午後、遠くに王都の外壁が見えた。道幅が広がり、行き交う馬車が増えていく。見覚えのある塔が、建物の向こうから少しずつ姿を現した。
リゼットの指が、膝の上で止まる。
二年ぶりに見る壁の向こうには、学院も、仕事場も、祖父と歩いた道もある。
そして、あの日も。
『外縁区画への常時供給を停止します』
息が少し浅くなった。
「リゼット」
呼ばれても、すぐには返事ができなかった。隣を見ると、ユアンが掌を上にして二人の間へ手を置いている。
「戻る?」
静かな声だった。
「今なら、まだ戻れるよ」
リゼットは窓の外へ目を戻した。怖い。それでも見たいものがある。自分で来ると決めた。
「……戻りません」
「うん」
「行きます」
「うん」
少し迷ってから、自分の指をユアンの掌へ重ねる。ユアンの目が、ほんの少し見開かれた。
「……借ります」
「どうぞ」
「王都に入るまでです」
「分かった」
指が閉じる。大きくて、温かい手だった。
馬車が門をくぐると、人の声や車輪の音、店先からの呼び込みが一気に聞こえてきた。昔、毎日のように聞いていた音だ。心臓はまだ速い。けれど、隣の手の温度がそれを少し落ち着かせてくれる。
「こっち見ててもいいよ」
ユアンが言った。リゼットは思わず顔を向ける。
「何でですか」
「見慣れてる顔の方が安心するでしょ」
笑っている。つられて、リゼットも少しだけ笑った。
馬車が停まるまで、リゼットは手を離さなかった。




